第6話
針の事件以来、バラックの空気は一変した。 ゾーヤは公然と私を敵視することはなくなったが、その視線には以前にも増して粘着質な憎悪が混じるようになった。だが、彼女の子分たちは明らかに私を避けている。 「触れてはいけない毒物」。それが、今の私の評価だった。
私はその「不可侵領域」を利用して、次の手を打った。 隣のベッドのアンナ(元小児科医)は、すでに私の信奉者となりつつあった。彼女は気弱だが、医療知識は貴重だ。ここぞという時に使える。
そしてもう一人、私が目をつけていた人物がいた。 男区画の囚人で、作業中に時折顔を合わせる初老の男。丸眼鏡の片方が割れ、酷い咳をしているが、その眼光だけは異様に鋭い。 通称「教授」。首都大学で歴史学を教えていたが、「歴史的唯物論への反動的な解釈」という言いがかりで粛清されたインテリだ。 彼は、私がセミョーン伍長と接触している現場を、離れた場所からじっと観察していた。
ある日の伐採作業中、倒木の影で彼と接触した。 「……見事な手際だったな、お嬢さん」 教授は枯れ枝のような手で斧を握りながら、しわがれた声で囁いた。 「数字をいじったな? あの馬鹿な伍長を手玉に取るとは」
「何のことかしら、教授」
「とぼけなくていい。私はここに来て五年だ。ここの腐敗したシステムは、古代ローマの歴史よりも詳しい。……君の目は、ここの連中の目じゃない。飼い主を狙う狼の目だ」
私は作業の手を止めず、彼を一瞥した。 「……あなたも、ただ歴史を嘆いているだけの老人ではないようね」
「フン。私は知識人だが、生き残るための実学も学んだ。例えば、倉庫番のイワンがいつウォッカを横流しするか、輸送列車のダイヤがどう乱れているか、といったことだ」
有益な情報源。私は彼を「採用」することに決めた。
「取引をしましょう、教授。あなたの『実学』を私に提供して。対価はパンと、将来的な安全」
教授は割れた眼鏡の奥で目を細めた。 「将来的な安全? 大きく出たな。だが……悪くない賭けだ。あの無能な看守どもに使われるよりは、君のような怪物に賭ける方が面白い」
契約成立。これで「医療」と「情報」が手に入った。
数日後、月末がやってきた。看守たちにとっては、ノルマ達成状況のごまかしと、上納金の計算に追われる憂鬱な時期だ。 予想通り、セミョーン伍長が血相を変えて私を呼び出した。
「き、貴様! 来い!」
連れて行かれたのは、管理棟の隅にある彼の事務室だった。粗末な机の上には、数字の合わない伝票と、書き損じの報告書が山積みになっている。ストーブが焚かれ、バラックとは比較にならないほど暖かいが、部屋中に染み付いた焦燥感と安酒の臭いが空気を重くしていた。
「ど、どうにかしろ! 明日、本部から監査官が来る! このままじゃ俺はセヴェリアのさらに奥地に飛ばされる!」
彼は半泣きで私に掴みかからんばかりだ。過少報告によるピンハネが露見するのを恐れているのだ。
私は冷静に机の上の惨状を見下ろした。
「落ち着いてください、伍長同志。……酷いありさまですね。小学生の算数ドリルの方がマシだわ」
「うるさい! できるのか、できないのか!」
「できますよ。ただし、条件があります」
私は彼の椅子に勝手に座り、伝票を分類し始めた。 「まず、今回の監査を乗り切るための緊急修正。これは今夜中に終わらせます。ですが、それだけでは来月また同じことになります」
セミョーンが目を白黒させる。「どういう意味だ?」
「システムを作るのです。あなたが頭を悩ませなくても、自動的に『適切な』数字が弾き出され、上官への報告書と、あなたの懐に入る『余剰分』が明確になるシステムを」
私は鉛筆を走らせ、簡単なフローチャートを描いて見せた。父の部下たちが裏帳簿を作る際に使っていた手法の応用だ。 セミョーンはそれを食い入るように見つめ、やがてその意味を理解したのか、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「……貴様、本当に何者だ? ただの学生じゃなかったのか?」
「私はカテリーナ。あなたの役に立つ、忠実な囚人番号492番ですよ」 私は初めて、彼に「ビジネス用の笑み」を見せた。冷たく、計算高い笑みを。
「これからは、私があなたの帳簿を管理します。その代わり、私を伐採作業から外しなさい。名目は……そうね、管理棟の清掃係というのはどう?」
清掃係。それは過酷な屋外労働を免除され、暖房の効いた屋内にいられる特権的な仕事だ。そして何より、看守たちの会話を盗み聞きし、重要書類を盗み見るチャンスが転がっている。
セミョーンは少し躊躇したが、目の前の書類の山と、私の提案する甘い未来の誘惑には勝てなかった。
「……いいだろう。だが、妙な真似をしたら即座に射殺するぞ」
「ええ、もちろんです、ボス(ナチャールニク)」
その夜、私は暖かい事務室で、質の良い紙とインクを使い、夜明けまで書類を偽造し続けた。 指先が凍傷で痛むこともなく、思考はクリアだった。 窓の外では猛吹雪が吹き荒れているが、ここは別世界だ。
私は管理棟に入り込んだ。 ここは敵の心臓部。腐敗と欲望が渦巻く、温かく、醜い場所。 私の復讐の、第二幕が上がる。




