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鉄の薔薇は凍土に咲く 〜人民の敵とされた令嬢は、粛清の嵐を越えて独裁者の椅子に座る〜  作者: ぱる子


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第4話

 極北の朝は、光ではなく音で始まる。 午前四時。鼓膜を引き裂くようなサイレンの咆哮と、看守たちが警棒でバラックの扉を叩く音。「起きろ! 労働の時間だ、クズども!」


 私は、凍りついた毛布から体を引き剥がした。全身の関節が錆びついた機械のように軋み、悲鳴を上げる。昨夜、ゾーヤに蹴られた脇腹が鈍く痛む。 吐く息は白い霧となり、まつ毛が瞬時に凍りつく。バラックの中の気温はマイナス十度。外よりはマシというだけの地獄だ。


 朝食は、湯気だけが立派な、泥水のようなライ麦の粥が一杯。スプーンですくうと、中に穀物の殻が数粒浮いているのが見えた。カロリーなど無に等しい。これを啜り、私たちはマイナス四十度の森へと駆り出される。


「第十三伐採班、前進!」


 腰まで埋まる雪の中を、重い斧を担いで歩く。私の班は「政治犯」が中心で、最も過酷なノルマを課せられていた。 直径一メートルもあるようなタイガの巨木を、手作業で切り倒し、枝を払い、運び出す。 かつてペンよりも重いものを持ったことがなかった私の手は、半日で皮が剥け、血が滲み、やがて感覚を失った。


「休むな! ノルマを達成できない班は、夕食抜きだ!」


 看守の罵声が飛ぶ。隣で作業していた中年の女性――元はツェントログラードの小児科医だったという――が、斧を振り上げたまま雪の中に崩れ落ちた。 私は手を止めそうになったが、すぐに斧を振り下ろした。 助けてはいけない。関わってはいけない。ここでは同情は死を意味する。彼女の分のノルマが、私たちにのしかかるだけだ。


 父の言葉が脳裏でリフレインする。『感情を殺せ。システムを見極めろ』


 私は労働の合間に、呼吸を整えながら観察を続けた。 この収容所という極限のミクロ社会にも、明確な階級と経済が存在する。


 頂点にいるのは所長と幹部たち。彼らは暖かいオフィスでウォッカを飲み、私たちが切り出した木材や採掘したウランの売上をピンハネしている。


 その下が、現場の看守たち。彼らは薄給で、常に不機嫌で、そして――貪欲だ。 彼らは囚人から没収した私物を横流ししたり、外部からの差し入れ(奇跡的に届けばだが)を中抜きしたりして小遣いを稼いでいる。


 そして囚人の中の特権階級、ゾーヤ率いる刑事犯ブラトヌイたち。彼女たちは看守に取り入り、現場監督のような立場に就くことで重労働を免除されている。 昼食の時間、私たちが凍ったパンの端をかじっている横で、ゾーヤたちは看守からこっそり受け取った脂身の多いベーコンを食べていた。


 あれが「命の源」だ。 正規の配給だけでは、三ヶ月で餓死するか、凍死する。生き残るためには、この非合法な「地下経済」に食い込むしかない。


 だが、どうやって? 私にはもう、金目のものは何もない。ゾーヤに奪われたブーツが最後だった。体? 冗談じゃない。そんな安売りはしない。


 私が持っているもの。それは、知識だ。


 数日後、チャンスが巡ってきた。 猛吹雪で作業が一時中断し、私たちは道具小屋の軒下で身を寄せ合っていた。 監視役の若い伍長――セミョーンという、いつも何かに苛立っている男――が、寒さに震える手で、汚れたノートに何かを書き付けていた。 伐採量の記録だ。彼は計算が苦手なようで、何度も舌打ちをしては書き直している。


 もし記録が間違っていれば、彼の上官である将校が彼を罰するだろう。ここでは看守もまた、恐怖によって支配されている。


 私は周囲を確認した。ゾーヤたちは別の場所でタバコを吸っている。 私はゆっくりと立ち上がり、セミョーン伍長に近づいた。


「……何だ、貴様。持ち場に戻れ」


 彼は私に銃口を向けた。その目は怯えと嗜虐性が混じり合っている。 私は両手を上げて敵意がないことを示し、静かに言った。


「伍長同志。計算が合わないようですね」


「あ? なぜそれを……貴様、覗き見たのか!」


「いえ。ただ、昨日のC区画の搬出量と、今日の予定量を考えれば、その数字は辻褄が合わない。……おそらく、二割ほど過少に報告しようとしています」


 セミョーンの顔色が変わった。過少報告は、横流しを疑われる重罪だ。 「き、貴様……デタラメを言うな!」


「私は元国家治安人民委員部(N.K.G.B)の会計監査局にいたの。数字のトリックを見抜くのは専門よ」 嘘だ。監査局になどいたことはない。だが、父の仕事部屋で膨大な報告書を盗み見ていたのは事実だ。ハッタリで十分。


「……何が望みだ」 銃口がわずかに下がった。彼は私が「使える」かもしれないと気づいたのだ。


「私が代わりにやりましょうか? 正確で、そして『上官が満足する』完璧な報告書を」


「上官が満足する」という言葉に、彼の目が反応した。それはつまり、彼らのピンハネを覆い隠すための帳簿操作も含むという意味だ。 彼は周囲を警戒しながら、私を睨みつけた。


「……代償は」


「パンを一日一回、余分に。それと、針と糸を」


 彼は鼻で笑った。「安いもんだな、元お嬢様」


「今の私には、それが全てですから」


 彼は汚れたノートと鉛筆を私に投げ渡した。 「十分で仕上げろ。ミスったら、貴様を雪に埋める」


 私は凍える指で鉛筆を握りしめた。久しぶりに触れる「知性」の道具。 私は素早く計算を修正し、彼らが裏でどれだけ木材を横流ししているかを推測しながら、絶妙なバランスで数字を調整していく。


 十分後。私は完璧な「虚偽報告書」を彼に渡した。 セミョーンはそれを一読し、驚きの表情を浮かべた。そして無言で、懐から新聞紙に包んだ何かを私の足元に放り投げた。 凍った黒パンの塊が二つと、錆びた縫い針が一本、少量の糸。


 契約成立だ。


 私はそれを素早く懐に隠した。心臓が高鳴る。 これは、ただのパンではない。私がこの収容所のシステムに、小さなくさびを打ち込んだ証だ。


 ゾーヤは暴力で支配する。だが、私は「管理」で食い込む。 看守たちは無能だ。彼らは計算ができず、報告書が書けず、組織運営が杜撰だ。 私が彼らの「脳」になればいい。彼らが私なしでは楽をできないように、依存させるのだ。


 その夜、私はバラックの隅で、手に入れた針と糸を使い、ボロボロになった自分のコートの穴を繕った。 隣で寝ていた元小児科医の女性が、信じられないものを見る目で私を見ていた。


「あなた……それをどこで?」


 私は答えず、ただ黙々と針を動かした。 繕い物は、帝王学の授業にはなかった。だが、生きるためには何でも学ぶ。


 パンを一切れ口に含む。凍って石のようだが、私にはどんな高級な菓子よりも甘美に感じられた。 これは、私が初めて自分の力で勝ち取った「勝利」の味だ。


 まだ、死ねない。 極北の闇の中で、私の目は冷たく燃えていた。

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