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鉄の薔薇は凍土に咲く 〜人民の敵とされた令嬢は、粛清の嵐を越えて独裁者の椅子に座る〜  作者: ぱる子


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第3話

 数週間に及ぶ鉄路の旅は、緩慢な拷問そのものだった。 窓のない家畜用貨車に押し込められた私たちは、腐りかけたニシンのように折り重なっていた。排泄用の穴から溢れ出す汚物の臭気と、洗うことを許されない肉体の酸っぱい臭いが、凍てつく空気の中で澱んでいる。


 食事は二日に一度、凍った黒パンの欠片と、泥水のようなスープだけ。 私の隣にいた結核持ちの老教授は、リフェイ山脈を越えたあたりで動かなくなった。彼の冷たくなった体は、次の停車駅で雪の中に放り出されるまで、私のクッション代わりとなった。


 私は何も感じなかった。悲しみも、憐憫も。 ただ、体力を温存するために呼吸を浅くし、父の書斎で読んだマキャベリやクラウゼヴィッツの一節を脳内で反芻していた。思考を止めた者から死んでいく。ここでは精神の空白こそが最大の敵だった。


 やがて、列車の軋む音が止まった。重い扉が乱暴に開け放たれると、肺を凍らせるような白い冷気が、暴力的に車内へとなだれ込んできた。


「外へ出ろ、ゴミども! 到着だ!」


 罵声と棍棒の打撃に追われ、私たちは雪のプラットホームへと転がり落ちた。 視界を覆うのは、圧倒的な白と黒のコントラスト。見渡す限りの雪原、それを切り裂く幾重もの有刺鉄線、そして監視塔の上から私たちを見下ろす機関銃の銃口。


 ここが、オストラヴィア人民連邦、第13強制労働収容所。 地図から抹消された場所。「氷の棺桶」。


 気温はマイナス四十度を下回っているだろう。呼吸をするたびに鼻毛が凍りつき、肺が焼けるように痛む。ボロボロになった絹のブラウスと薄手のコートしか身につけていない私は、到着して数分で震えが止まらなくなった。


「整列しろ! 動かない奴は撃ち殺す!」


 収容所長のイワノフ大佐が、毛皮のコートに身を包み、ふんぞり返って私たちを見下ろしていた。酒焼けした赤い顔、豚のように濁った目。典型的な、地方に飛ばされた無能でサディスティックな小役人だ。


「ここでは、貴様らに名前はない。過去の肩書きも、栄光もない。あるのは番号と、党への負債だけだ。労働によってのみ、その罪は贖われる。働かざる者、食うべからず。そして、反抗する者は――」


 彼が顎をしゃくると、監視塔のサーチライトが一人の男を照らし出した。移送中に発狂し、看守に唾を吐いた若い政治犯だ。彼は全裸で雪の上に跪かされていた。体は既に青白く変色し、ピクリとも動かない。凍死体だ。見せしめのためのオブジェ。


 新入りの何人かが悲鳴を上げ、嘔吐した。私は唇を噛み締め、その光景を網膜に焼き付けた。 これが、ここのルール。純粋な暴力による支配。


 点呼が終わり、私たちは男女別のバラック(粗末な木造宿舎)へと追い立てられた。 女子房に割り当てられたバラックは、丸太を組み合わせただけの粗末な小屋だった。隙間風が吹き込み、壁には霜が降りている。中央の粗末なストーブは微かな熱しか発しておらず、数百人の女たちが、木の板で作られた三段ベッドにひしめき合っていた。


 部屋に入った瞬間、粘りつくような視線が一斉に私に向けられた。 好奇心、敵意、そして値踏みするような目つき。


「あら、新入りね。随分と綺麗な格好をしているじゃない」


 声の主は、ストーブの一番近く、最も暖かい場所を陣取っている女だった。短く刈り込んだ髪、左の頬に深いナイフ傷。彼女の周りには、取り巻きとおぼしき数人の女が侍っている。 彼女たちは「政治犯」ではない。窃盗、殺人、売春などで捕まった刑事犯――通称「ブラトヌイ」だ。収容所カーストの頂点に君臨し、看守と結託して他の囚人を搾取する連中。


 女はゆっくりと立ち上がり、私に近づいてきた。その目は、獲物を前にした肉食獣のそれだった。


「あたしはゾーヤ。ここの班長だ。新入りには挨拶のルールってもんがあるんだよ、お嬢ちゃん」


 彼女の視線が、私の足元に向けられた。私が履いている、上質な革のブーツ。泥と汚物にまみれてはいるが、ここにおいてはダイヤモンドよりも価値がある品だ。


「いい靴だね。サイズも合いそうだ。……よこしな。それがここでの『税金』だ」


 取り巻きたちがニタニタと笑いながら私を取り囲む。 私の心臓は早鐘を打っていた。だが、不思議と頭の中は冷え冷えとしていた。


 父の教えが蘇る。『カテリーナ、交渉において最も重要なのは、最初の「否」だ。相手に、自分が容易に屈する相手ではないと思わせろ。ただし、力の差を見誤るな』


 私はゾーヤの目を真っ直ぐに見つめ返した。ここで目を逸らせば、私はただの「獲物」として骨までしゃぶられる。


「……断るわ」


 私の静かな声に、バラックの空気が凍りついた。 ゾーヤの顔から笑みが消えた。


「なんだと?」


「これは私のものよ。あなたに渡す理由がない」


 次の瞬間、ゾーヤの拳が私の腹部にめり込んだ。息が詰まり、私は汚れた床に崩れ落ちた。胃液が逆流する。


「生意気なメス豚が! ここで法律はあたしなんだよ!」


 ゾーヤのブーツが私の肋骨を蹴り上げる。激痛が走る。取り巻きたちも加わり、無慈悲なリンチが始まった。誰も助けようとはしない。他の囚人たちは、関わり合いになることを恐れて毛布を被り、息を潜めている。


 私は体を丸め、急所を庇いながら、痛みの波に耐えた。 叫び声は上げない。絶対に。


 ひとしきり暴力を振るった後、息を切らせたゾーヤが私を見下ろして唾を吐きかけた。


「フン、しぶといアマだ。……まあいい。今日はこれくらいにしてやる。だが覚えておきな、お前の命はあたしが握ってるんだ」


 彼女たちは私のブーツを強引に剥ぎ取り、戦利品として持ち去った。代わりに投げつけられたのは、わらと布切れで作られた粗末な足袋だった。


 私は血の味がする口の中で、欠けた歯の感触を確かめながら、ゆっくりと体を起こした。 全身が悲鳴を上げている。だが、私はまだ生きている。


 奪われたのは靴だけだ。私の魂は、まだここにある。


 私は震える手で粗末な足袋を履き、空いている一番下の冷たいベッドに潜り込んだ。薄い毛布からは、前の持ち主の死臭がした。


 目を閉じると、首都の舞踏会の光景が浮かんだ。シャンデリアの輝き、アレクセイの優しい笑顔、エレナの慎ましい仕草。 それらは今、遠い前世の記憶のように思えた。


「……必ず、生き延びてやる」


 私は冷たい闇の中で、誰にも聞こえない声で誓った。 この地獄の底から、這い上がってみせる。ゾーヤも、看守も、そして首都で私を笑っている奴らも、全員私の踏み台にしてやる。


 極北の最初の夜。かつての令嬢は死に、一匹の飢えた狼が生まれた。

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