最終話
広場を埋め尽くす群衆の熱狂は、エレナへの憎悪から、アレクセイへの新たな期待へと変わった。彼らは常に「指導者」を求めている。それが誰であれ、強い言葉で導いてくれる存在を。
私はアレクセイの背中を、優しく、しかし抗いがたい力で押し出した。
「さあ、アレクセイ様。彼らに『真実』を。そして安寧を約束してあげてください」
アレクセイは、糸が切れたマリオネットのようにマイクの前に立った。スポットライトが彼の蒼白な顔を照らし出す。彼は一度だけ振り返り、私に助けを求めるような視線を送ったが、私は冷酷な微笑でそれを突き放した。
彼は震える声で、私が事前に用意させた原稿を読み上げ始めた。
「……同志諸君。我々は……騙されていた。最も信頼していた同志エレナが、革命の裏切り者であったことに……。しかし! 我々は彼女の陰謀を粉砕した! 党は浄化されたのだ!」
広場から、安堵と、そして新たな忠誠を誓う歓声が上がった。「アレクセイ書記長万歳!」「党の浄化万歳!」
私はその光景を、バルコニーの影から冷ややかに見つめていた。 これでいい。アレクセイは「裏切り者を摘発した英断の指導者」として、神輿の上に留まる。その神輿を担ぐのが誰であるか、彼自身も、群衆も、まだ理解していない。
騒ぎの中、兵士たちに引き立てられていくエレナと、視線が合った。 彼女の服は破れ、顔は涙と泥で汚れ、かつての「革命の聖女」の面影はどこにもない。その目には、絶望と、底知れぬ憎悪だけが渦巻いていた。
私は兵士たちに合図し、彼女を一度だけ私の前に連れてこさせた。
「……ごきげんよう、エレナ同志」
「……悪魔。この、氷の悪魔……!」 エレナが呻くように罵った。「いつか、あなたも同じ目に遭うわ。民衆は馬鹿じゃない。いつか真実に気づく……!」
私は彼女の顎を掴み、無理やり上を向かせた。
「ええ、そうね。民衆は馬鹿じゃないわ。彼らは『賢い』の。だからこそ、誰が彼らにパンを与え、誰が彼らを恐怖で支配しているか、本能で理解する。……貴女の薄っぺらい理想ごときじゃ、彼らの腹は膨れないのよ」
私は彼女の顔を突き放し、ゾーヤに命じた。
「彼女を『北』へ送りなさい。……第13強制労働収容所へ」
エレナの目が恐怖で見開かれた。彼女も知っている場所だ。かつて私を送り込んだ、あの地獄。
「特別待遇は不要よ。一般囚人と同じ、いえ、それ以上に過酷な労働を課しなさい。彼女が愛してやまない『神聖な労働』を、死ぬまで堪能させてあげるの」
「や、やめて! お願い、それだけは! アレクセイ、助けて! アレクセイ!」
エレナの絶叫は、広場の歓声にかき消され、彼女は闇の中へと引きずり込まれていった。 かつての私と同じように。
私はバルコニーの手すりに手を置き、熱狂する群衆と、演説を続けるアレクセイを見下ろした。
復讐は終わった。 私の敵はすべて排除され、あるいは私の傀儡となった。
「……退屈なパーティーね」
私は一人呟き、踵を返した。 熱狂の広場を後にし、私は赤の城塞の奥深く、静寂に包まれた執務室へと向かった。
【エピローグ:凍てつく玉座】
それから、数ヶ月が過ぎた。
首都ツェントログラードは、深い冬の静寂に包まれていた。 「エレナ派」の粛清は完了し、党と軍部、そして秘密警察の主要なポストは、すべて私の息のかかった実務家たちで埋め尽くされた。 食料配給は滞りなく行われ、前線は安定し、市民生活には秩序が戻った。
「鉄の秩序」が。
赤の城塞の最も奥にある、広い執務室。かつて父が使い、その後アレクセイが使っていた部屋。今、その主人は私だ。
アレクセイ書記長は、表向きは病気療養中ということになっている。実際は、郊外のサナトリウムという名の軟禁施設で、一日中ウォッカを浴びるように飲み、震える手で詩集をめくるだけの日々を送っている。彼が再び表舞台に出てくることはないだろう。
私は巨大な執務机に向かい、山積みの書類に決裁のサインを続けていた。 私の肩書きは「筆頭書記官」兼「国家保安委員会議長」。だが、国内で私をその肩書きで呼ぶ者はいない。 彼らは私を、畏怖と恐怖を込めてこう呼ぶ。「鉄の女帝」と。
「……議長同志。本日の決裁書類は以上です」
傍らに控えていた教授が、恭しくファイルを閉じた。彼の新しい眼鏡は、部屋の冷たい照明を反射して光っている。
「ご苦労様、教授。……ああ、それと。例の件は?」
「はい。北の収容所からの報告によれば、囚人番号584番――元エレナ同志は、伐採作業中の事故により、左脚を切断したそうです。……命に別状はないとのことですが、今後の労働は困難かと」
私はペンの手を止め、一瞬だけ宙を見つめた。 左脚切断。あの極寒の地では、それは緩慢な死刑宣告に等しい。
「……そう。手厚い『治療』を施すように伝えて。彼女には、まだ生きていてもらわなければ困るわ。私の慈悲の象徴としてね」
「承知いたしました」
教授が一礼して退室すると、広い部屋には私一人だけが残された。 静かだ。あまりにも。
私は椅子から立ち上がり、厚い防弾ガラスの窓に近づいた。 外は吹雪だ。灰色の空から、絶え間なく白い雪が舞い落ち、街を覆い尽くしていく。革命広場も、中央総局も、すべてが白い沈黙の中に埋もれていく。
私はサイドボードに向かい、クリスタルのグラスにウォッカを注いだ。 父が愛飲していた、最高級の品だ。
グラスを傾け、強い酒を喉に流し込む。食道が焼けつくような感覚だけが、私が生きていることを実感させてくれる。
復讐は成し遂げた。権力は手に入れた。 私は、私を陥れた者たち全員の頭蓋骨を踏み台にして、この国の頂点に立った。
だが、ここには何もない。 愛も、友情も、理想も、熱狂もない。 あるのは、書類の山と、裏切りを警戒する猜疑心と、そして骨まで凍てつくような孤独だけ。
私は窓ガラスに映る自分の顔を見た。 美しい、氷の彫像のような顔。感情の色は一切なく、ただ冷徹な瞳だけが光っている。 これが、私が望んだ姿なのだろうか?
「……寒いわね」
私は誰に言うでもなく呟き、グラスに残ったウォッカを飲み干した。 暖房は効いているはずなのに、私の体の芯は、あのセヴェリアの収容所にいた時と同じように、冷え切っていた。
私は再びデスクに戻り、次の書類の山に手を伸ばした。 この国を動かし続けるために。この巨大な、凍りついた機械の部品として。
外の吹雪は、まだ当分やみそうになかった。
(完)
本作『鉄の薔薇は凍土に咲く 〜人民の敵とされた令嬢は、粛清の嵐を越えて独裁者の椅子に座る〜』を最後までお読みいただき、誠にありがとうございます。
この物語は、いわゆる「悪役令嬢もの」の骨格をお借りしつつ、その肉付けをまったく異なる素材――煌びやかな魔法とドレスではなく、凍てつく泥とコンクリート、そして硝煙とウォッカの香りで構成した作品です。
執筆の動機は、非常に単純な疑問からでした。 「断罪されて追放された令嬢は、その後どうやって生きていくのだろう?」
多くの物語では、追放先で都合よく優しい人々に拾われたり、隠されたチート能力が開花したりして、以前よりも幸せな生活を手に入れます。それはそれで素敵な夢ですが、私は少し意地悪な視点で考えてしまいました。
もし、追放先が本当に救いのない地獄だったら? もし、彼女に魔法のような便利な力が一切なかったら?
その答えとして生まれたのが、極北の強制収容所であり、主人公カテリーナ・ヴォルコヴァでした。
彼女は「いい子」ではありません。生き残るためには他人を利用し、裏切り、時には手を汚すことも厭わない冷徹なリアリストです。彼女の武器は、父から受け継いだ帝王学――人を操り、組織を動かし、恐怖で支配する技術だけでした。
本作で描きたかったのは、キラキラした復讐劇ではありません。システムそのものによる暴力的な「ざまぁ」であり、そして何より、権力という魔物が人間をどう変えてしまうかという過程です。
カテリーナは復讐を成し遂げ、国の頂点に立ちました。しかし、エピローグで描いたように、その玉座はあまりにも寒く、孤独です。彼女は多くを得ましたが、同時に人間として大切な何かを、あの凍土の上に置いてきてしまったのかもしれません。
ライバルであったエレナもまた、自身の理想に溺れた哀れな犠牲者として描きました。理想主義者が現実の泥にまみれた時、どれほど醜悪な変貌を遂げるか。それは、歴史が証明している通りです。
この甘さ控えめ、苦味とアルコール度数が強すぎる物語に、最後までお付き合いいただけたことに、深く感謝いたします。 読者の皆様の心に、カテリーナが飲み干したウォッカのような、焼けるような余韻が少しでも残れば幸いです。
最後に、この架空の極北の国で、凍えながらも懸命に生きた(そして死んでいった)すべての登場人物たちに、ささやかな敬意を表して。




