第16話
首都ツェントログラードへの帰還は、凱旋パレードとは程遠いものだった。
私の装甲列車が中央駅のプラットフォームに滑り込んだ時、そこには軍楽隊の代わりに、割れたガラスと焦げ臭い煙が充満していた。 駅前の広場では、赤い腕章をつけた十代の若者たちの集団――エレナが組織した「革命青年同盟」の狂信者たち――が、焚き火を囲んで気勢を上げていた。火にくべられているのは、大学から略奪された書籍や、美術館から引きずり出された「ブルジョワ的」な絵画だった。
「……始まったな」 隣で、ゾーヤが短機関銃の安全装置を外しながら呟いた。「『文化革命』だってよ。インテリや専門家を片っ端から吊るし上げてるらしい」
私は窓の外の狂騒を冷ややかに見つめた。 エレナは追い詰められ、最後のカードを切ったのだ。理性も秩序もかなぐり捨て、純粋な憎悪と嫉妬をエネルギー源とする暴徒を解き放った。彼女は、この混沌が私を呑み込むことを期待しているのだろう。
「愚かね。火遊びは、火傷するだけじゃ済まないのに」
私はゾーヤに命じた。 「中央総局(N.K.G.B本部)へ向かうわ。邪魔する者は排除して構わない。ただし、派手にやりすぎないで。彼らは今日の夕方まで、元気に騒いでいてもらわなければ困るから」
私たちの車列は、暴徒たちが投げる石や火炎瓶をものともせず、装甲板で弾き返しながら市街地を突破した。 中央総局は、教授の指揮下で完全に要塞化されていた。窓には土嚢が積まれ、屋上には機関銃座が設置されている。
教授は地下の作戦室で私を迎えた。彼の顔色は悪い。 「間一髪だったな。あと数時間遅れていたら、ここも包囲されていたかもしれん。……市内の状況は最悪だ。警察機能は麻痺し、軍の一部も青年団に同調する動きを見せている」
「赤の城塞は?」
「完全に孤立している。アレクセイ書記長は、エレナと青年団によって事実上の軟禁状態だ。エレナは今日の夕方、革命広場で大規模な集会を開き、そこで『軍部と結託した反革命分子』――つまり君だ――を糾弾し、最終的な粛清を宣言する予定らしい」
「完璧ね」 私は満足げに頷いた。
教授が怪訝な顔をした。「完璧? 奴らは数万人規模だぞ。まともにぶつかれば内戦になる」
「ぶつかりはしないわ。……教授、私が前線から持ち帰った『お土産』の準備は?」
「ああ、地下の特別独房にいる。ゾーヤの手下が、たっぷり『教育』を施した。台本通りに喋るはずだ」
「上出来よ」 私は壁にかかった首都の地図を見上げた。革命広場に赤いピンが刺さっている。
「夕方、その集会に私も参加するわ。……主役としてね」
夕暮れ時。革命広場は、松明の灯りと、数万人の熱狂的な叫び声で埋め尽くされていた。 建国の父の霊廟のバルコニーには、巨大なスポットライトに照らされたエレナの姿があった。彼女は粗末な人民服を着て、マイクに向かって絶叫していた。その隣には、顔面蒼白で震えるアレクセイが、まるで人質のように立たされている。
「同志諸君! 革命は危機に瀕している! 前線で私腹を肥やし、軍閥化を目論む裏切り者が、すぐそこまで迫っているのだ! その名は、カテリーナ・ヴォルコヴァ! かつて我々が追放した、あの忌まわしき毒婦だ!」
広場を埋め尽くす青年団員たちが、「ヴォルコヴァに死を!」「反革命分子を吊るせ!」とシュプレヒコールを上げる。熱狂と憎悪の坩堝。理性的な言葉など、かき消されてしまう空間。
だが、私はそれを切り裂いて進んだ。
広場の端から、一台の装甲車が、群衆をかき分けるようにゆっくりと進んできた。先導するのは、完全武装したN.K.G.Bの精鋭部隊。彼らの放つ殺気に、暴徒たちはたじろぎ、道を開けた。
私は装甲車から降り立ち、護衛に囲まれながら、まっすぐに建国の父の霊廟へと向かった。前線からそのまま着てきた、泥と硝煙の匂いが染み付いた軍用外套。その姿は、舞台上のエレナの「演出された清貧さ」とは対照的な、本物の暴力の象徴だった。
「……き、来たわね、裏切り者!」 エレナがバルコニーから私を指差し、叫んだ。「同志たちよ、見よ! あれが革命の敵だ! 捕らえよ!」
群衆がざわめき、一部が動き出そうとした。 その瞬間、ゾーヤが空に向けて短機関銃を一連射した。乾いた銃声が広場に響き渡り、熱狂に冷水を浴びせた。
私はその隙に、悠然と階段を上がり、バルコニーへと足を踏み入れた。
「……お久しぶりね、エレナ同志。それにアレクセイ書記長。相変わらず、賑やかなパーティーがお好きなようで」
「カテリーナ、貴様……! ここは神聖な革命の祭壇よ! 汚らわしいブーツで踏み込むなんて!」
私は彼女を無視し、アレクセイの前に立った。 「書記長様。お迎えに上がりました。……この狂った茶番劇を終わらせるために」
アレクセイは、縋るような目で私を見たが、隣のエレナの視線に怯え、言葉を発せない。
エレナがマイクを奪い、叫んだ。「騙されるな! この女は軍事クーデターを画策している! 証拠はあるのよ!」
「証拠? ええ、ありますとも」
私は懐から、一束の書類を取り出した。そして、広場の下に待機させていた部下たちに合図を送った。
数人の兵士に引きずられて、二人の男がバルコニーに上げられた。彼らはボロ布をまとい、顔は恐怖と拷問で歪み、まともに立つこともできない。私が前線で捕らえた、敵国の「本物のスパイ」たちだ。
「同志諸君! よく聞きなさい!」 私はエレナからマイクを奪い取り、広場の群衆に向かって声を張り上げた。私の声は、訓練された演説家のそれではなく、戦場で鍛えられた、冷徹な指揮官の声だった。
「ここにいる者たちは、西部戦線で我が軍の情報を敵に売り渡していたスパイだ! 彼らのサボタージュにより、多くの勇敢な兵士が死んだ!」
群衆が静まり返る。「スパイ」「裏切り者」という言葉は、彼らにとって最も強い恐怖の対象だ。
「私は彼らを尋問し、そして重大な事実を自白させた。彼らに指令を送っていた黒幕の名を!」
私は一呼吸置き、隣で凍りついているエレナを指差した。
「……その黒幕こそが、ここにいるエレナ同志だ!」
広場が、衝撃で息を呑んだ。 エレナが悲鳴を上げた。「なっ……!? で、デタラメよ! 嘘だわ! 私は知らない! そんな男たち、見たこともない!」
「嘘ではありません」 私はスパイの一人の髪を掴み、顔を上げさせた。「さあ、みんなの前で言いなさい。お前の飼い主は誰だ?」
男は、焦点の合わない目でエレナの方を見つめ、ゾーヤに「教育」された通りの言葉を、壊れたレコードのように繰り返した。
「……し、指令は……エレナ同志から……。革命を混乱させ……敗北を招くために……」
完璧な演技だ。恐怖は人を従順にする。
私は書類の束――もちろん、教授が作成した精巧な偽造書類だ――を高く掲げた。
「これが証拠だ! 彼女の口座への外国からの送金記録、敵国情報部との通信記録! エレナは革命の指導者を装いながら、その実、外国勢力と結託し、我が国を内部から崩壊させようとしていたのだ!」
それは、巨大な嘘だった。だが、この熱狂と猜疑心に満ちた空間では、真実よりも「もっともらしい嘘」の方が力を持つ。 特に、食料危機や戦線の敗北という「現実の失政」の責任を、誰かになすりつけたいと無意識に願っている群衆にとっては。
「違う! 違うわ! 信じて、同志たち! これは罠よ!」 エレナが必死に叫ぶが、マイクは私が握っている。彼女の声は、広場のざわめきにかき消されていく。
群衆の空気が変わった。熱狂的な支持が、どす黒い疑念へ、そして怒りへと変わっていく。彼らが手にしていた松明の炎が、今度は別の標的を求めて揺らめき始めた。
私は、最後の仕上げにかかった。 私はゆっくりと、アレクセイに向き直った。
「……アレクセイ書記長。貴方は、この裏切りをご存知でしたか?」
アレクセイは、極限の恐怖の中で、私と、熱狂する群衆と、そして絶望的な表情のエレナを交互に見た。 彼にはわかっていたはずだ。これが私の仕組んだ罠であることを。
だが、彼にはもう、選択肢はなかった。 私側に付けば助かる。エレナ側に付けば、彼女と共に群衆に引き裂かれる。
アレクセイの唇が震え、そして、彼は決断した。
彼は一歩、エレナから離れた。 そして、震える指で彼女を指差し、絞り出すような声で言った。
「……私は、知らなかった。まさか、君が……『人民の敵』だったとは」
それが、決定打だった。
エレナは、信じられないものを見る目でアレクセイを見つめた。愛していた男、共に理想を追い求めたはずの男からの、究極の裏切り。 「ア、アレクセイ……? あなた、何を……?」
彼女の言葉は、広場から湧き上がった巨大な怒号にかき消された。 「裏切り者!」「魔女を殺せ!」「エレナを吊るせ!」
さっきまで彼女を讃えていた声が、今や彼女の死を求めている。
私は冷酷に命じた。 「N.K.G.B、反逆者エレナを拘束せよ!」
兵士たちがエレナに殺到し、彼女を地面に組み伏せた。彼女の悲鳴と、抵抗する声は、誰の耳にも届かなかった。
私はバルコニーの縁に立ち、眼下の混沌を見下ろした。 かつて私を断罪したこの場所で、今度は私が断罪者となった。
隣で、アレクセイが魂が抜けたように立ち尽くしている。 私は彼の耳元で囁いた。
「……よくできました、アレクセイ様。これで貴方は安全です」
私は彼の手を取り、マイクの前に立たせた。
「さあ、宣言なさい。革命の勝利と、新しい秩序の始まりを。……私が書いたシナリオ通りに」
広場では、エレナの肖像画が燃やされ始めていた。 長い夜が終わり、私が支配する、凍てつくような朝が来ようとしていた。




