第10話
陸軍との裏取引は成功した。教授の指揮のもと、ゾーヤ率いる囚人部隊は、猛吹雪に紛れて木材を運び出し、ドラム缶十本分のディーゼル燃料を持ち帰った。 発電機が再び唸りを上げ、バラックの明かりが灯った時、囚人たちはそれが神の奇跡であるかのように歓声を上げた。
だが、ボリソフ大尉の表情は晴れなかった。彼は自らの手を汚したという罪悪感と、それが露見する恐怖に苛まれていた。執務室のウォッカの瓶が、日に日に空になるペースが早まっていた。 私はその姿を、冷ややかに観察していた。潔癖な人間ほど、一度堕ちると脆い。
そして、その「脆さ」を突く好機は、予想よりも早く訪れた。
春の気配が訪れ始めたある日、ツェントログラードから一台の黒塗りの車がやってきた。中央監査局からの特別監査官だ。 噂では、「書記長派」の若手エリートで、地方の腐敗を摘発しては手柄を立てている野心家だという。
到着した監査官は、仕立ての良いコートを着た、神経質そうな男だった。名前は、グリゴリー・ラザレフ。 彼が車から降り立った瞬間、私は息を呑んだ。
その顔に見覚えがあったのだ。 数年前、父が主催したパーティーの末席にいた、目立たない青年。アレクセイの取り巻きの一人で、私に媚びるような視線を送っていた男だ。
(まさか、こんなところで……)
ラザレフは、出迎えたボリソフ大尉に傲慢な態度で挨拶をすると、私の存在には気づきもせず、所長室へと入っていった。
私は紅茶を運ぶふりをして、部屋に入った。 ラザレフはソファにふんぞり返り、ボリソフをまるで罪人のように尋問していた。
「……大尉同志、報告書と現地の状況が乖離している。特に燃料の消費量だ。計算が合わない」 彼の鋭い目が、ボリソフを射抜く。
ボリソフは顔面蒼白になり、脂汗を流していた。「そ、それは……極寒による計測誤差かと……」 声が震えている。嘘をつくのが下手な男だ。
ラザレフは鼻で笑った。「誤差? 君はツェントログラードを馬鹿にしているのか? まあいい。徹底的に調べさせてもらう。帳簿を全て出すんだ」
ボリソフが助けを求めるように私を見た。だが、私は無表情で紅茶を置くと、部屋の隅に控えた。
この男は危険だ。ラザレフは無能ではない。そして、何らかの確信を持ってここに来ている。誰かが密告したのだ。ボリソフの失脚を狙う内部の人間か、あるいは取引相手の陸軍側か。
(どうする? このままではボリソフは破滅する。そして、私の立場も危うい)
ラザレフが帳簿の山に手を伸ばそうとしたその時、私は一歩前に出た。
「……監査官同志。その帳簿を見る前に、こちらの書類をご覧になった方がよろしいかと」
私はボリソフの机の引き出しから、一冊のファイルを取り出した。 ラザレフが怪訝な顔で私を見た。「君は?」
「カテリーナ・ヴォルコヴァ。当収容所の事務担当囚人です」
「ヴォルコヴァ……?」 ラザレフの目が大きく見開かれた。彼は私の顔をまじまじと見つめ、そして記憶の底にある顔と一致させた瞬間、驚愕と、そして下卑た笑みが浮かんだ。
「……ああ、君か! あの『赤い貴族』の! いやあ、随分と落ちぶれたものだねえ!」
彼は私を見下し、嘲笑した。かつての彼が私に向けていた、卑屈な憧れの裏返しだ。
「で、囚人ごときが私に何の用だ? 命乞いか?」
私はファイルを彼の前に差し出した。 「いいえ、取引です」
ラザレフは嘲笑いながらファイルを開いた。だが、その中身を見た瞬間、彼の表情が凍りついた。
それは、ボリソフの裏帳簿ではない。 ラザレフ自身に関する調査報告書だった。
父が生前、念のために作成していた「要注意人物ファイル」のコピー。私が記憶を頼りに再現し、ここでの情報網を使って最新の情報を補完したものだ。 そこには、彼がツェントログラードで愛人たちに買い与えた宝石のリスト、地方監査で見逃す代わりに受け取った賄賂の金額、そして……彼が密かに接触していた、外国の貿易商との不適切な関係が詳細に記されていた。
「……き、貴様、これは……どこで……」 ラザレフの手が震え出した。声が裏返っている。
ボリソフも事態が飲み込めず、呆然と私たちを見ていた。
私は微笑んだ。かつて舞踏会で見せていた、完璧な令嬢の微笑みで。 「お忘れですか、ラザレフ同志。私の父は国家治安人民委員部(N.K.G.B)長官でした。情報は、私たちの血肉なのです」
私は一歩、彼に近づいた。 「このファイルが書記長のもとに届けば、あなたは明日には『人民の敵』として、ここのバラックで寝起きすることになりますわ。……いえ、もっと悪い場所かしら? 地下室で、後頭部に鉛玉を一発食らうか」
「や、やめろ……! 何が望みだ!」 彼は完全にパニックに陥っていた。傲慢なエリート官僚の仮面は剥がれ落ち、ただの怯えた小男がそこにいた。
私はファイルを彼の胸に押し付けた。 「簡単なことですわ、グリゴリー。監査報告書を『修正』していただきたいの」
私は事前に用意していた、完璧な虚偽報告書を彼に渡した。ボリソフの管理能力を絶賛し、すべての数字が正常であると証明する、美しい嘘の塊。
「これにサインをして、ツェントログラードへ送るのです。そして、私たちを『模範的な収容所』として推薦する。……そうすれば、このファイルは私が責任を持って焼却します」
ラザレフは脂汗まみれの顔で、私とファイルと、そして虚偽報告書を交互に見た。 選択の余地はない。彼は震える手でペンを取り、報告書にサインをした。
「……これで、いいんだろう!」 彼はファイルをひったくると、逃げるように部屋を飛び出していった。
部屋には、私とボリソフだけが残された。 ボリソフは幽霊でも見たような顔で、私を見つめていた。
「……貴様は、初めからこの事態を予測していたのか?」
「まさか。ラザレフが来るとは知りませんでした。ただ、いつか中央から『犬』が来ることはわかっていましたから、準備をしていただけです」
私は冷めた紅茶を一口飲んだ。 「……これで、あなたの首は繋がりましたね、ボリソフ同志」
ボリソフは力なくソファに沈み込んだ。彼の目から、かつての鋭い光は消え失せていた。 彼は知ってしまったのだ。自分の命が、理想や正義ではなく、目の前の囚人の女が仕組んだ汚い取引によって救われたという事実を。
「……私は、貴様の共犯者というわけか」
「ええ。私たちは運命共同体です。あなたが破滅すれば私も破滅する。……だから、安心して私を頼ってください」
私は彼の肩に手を置いた。 「あなたは表舞台で、理想的な所長を演じていればいいのです。汚い仕事は、全て私が引き受けますから」
ボリソフは抵抗しなかった。彼は完全に折れたのだ。 私の支配は、これで完成した。 この極北の収容所は、名実ともに私の王国となった。
窓の外では、春の訪れを告げる雪解け水が音を立てて流れていた。 そろそろ潮時だ。 私は窓の外を見つめ、首都の方角を睨んだ。
アレクセイ、エレナ。 待っていなさい。地獄から帰還した私が、貴方たちに極上の復讐劇をプレゼントしてあげるわ。
極北の雌伏は終わった。 次は、反撃の狼煙を上げる時だ。




