ギュダ
人類の生活圏全体の地表は、アスファルトに似た質感の濃い銀色で覆われていた。
遥か未来の地球で、人々は植物を人体に有害と断じ、拒絶していた。むろん、それには理由がある。また遥か昔、ある日突如として植物たちが毒素を出し始めたのだ。嘔吐。高熱。失明。脳の萎縮。あらゆる不調の原因が身の回りまた遠くの山々にある植物たちと気づくまで、多くの犠牲と怨嗟の声を生んだ。
ゆえにその原因が植物だと分かった時、当時の権力者たちは地表を覆い、閉じ込め、死滅させることを決定した。
地球温暖化が原因だったのか、人類の好き勝手な振る舞いを自然は咎めたのか。木や雑草、花などの自然界で生きる植物たちが突然、人類に反旗を翻したその理由までは解明できず、人類は罪の意識を抱いたが、蓋をすることを選ぶしかなかった。
野菜など人工的に育てられたものは人体に害を及ぼすことはなかった。よって、それ以外の地表、人類の生活圏をコンクリートで覆いつくし、他の地域は薬剤の散布、兵器による焼却、また環境変動の後押しにより地球が海と荒野の惑星になった頃には、植物の本来の役割である酸素の放出、大気汚染物質の吸収などは発展を遂げた科学技術で補えた。尤も、植物を餌とする動物や昆虫の死滅は避けられなかったが。
恒久的な平和が齎され、各家庭には毎月まとめて配給食が届けられた。あくせく働かずとも一応は暮らせる豊かな生活により人々が心に余裕を取り戻すと、これまで嫌悪されてきた植物も人工物ではあるが町に色を添えるようになった。青い芝生に青い葉の木々。それらは文字通り青色だが、かつて自然界に存在した植物たちを忘れ、埃塗れの文献から再現した人々の勘違いではなく、あくまで意図的であった。
紫の桜。虹色の花。元にない色で蘇らせるそれらは人類が植物に勝利したことの証。支配の象徴であった。
だが、支配欲には際限などない。彼らもまた人類が自身の力を再確認するための存在であった。
『そっちはどうだ』
『二匹仕留めたぞ』
『こっちは一匹だ。クソッ!』
『今日はもう引き上げよう。しかし、全然見かけなかったな。奴らもだいぶ数が減ってきたんじゃないか?』
『了解。陰気臭くて、まったく嫌になるぜ。地下はよ』
銀色の地表の上に築かれた新人類の都市。その地下は根のようなパイプが張り巡らされ、暗然たる世界が広がっていた。
メンテナンス用の通路を駆け、パイプ群の中に飛び込み、身をよじらせて奥へ深く。逃げ惑う彼ら旧人類の見た目はやせ衰えた毛のない犬のようで目は白濁しており、視力はほとんどないとされている。
旧人類という呼び名は今の人類によってつけられたもので、実のところ進化の分岐。植物が反旗を翻した頃、遥か昔の人類と比べればどちらも新人類といえるが彼ら、都市部で生活を営む者たちの特権意識が彼らにそう名づけさせ、人々を旧人類狩りまで駆り立てていた。
彼ら旧人類がなぜそのような肉体を持ち、地下が生活圏となったのか。
都市部は土地と資源の問題で限られた人数しか暮らすことを許されず、当時植物が作り出した病に体を侵された病人と健康な者との対立が起き、その亀裂が人類の進化の枝分かれとなり、この今を生んだのだ。
逃れ逃れ、恐れながらも生きるためにパイプから漏れ出る新人類の残飯である廃液で腹を満たし、まぐわい、彼ら旧人類は生き繋いできた。
『引き上げる前に修繕を忘れるなよ。奴らがまたパイプに穴開けやがった』
『ハッ、俺らの飯を作るための搾りかすと、その飯の残り汁を啜るなんてなぁ。まるでアレだな』
『はははははははっ!』
防護服越しに響く笑い声と鋭いライトの光に、旧人類たちはパイプの奥で身を縮こまらせ、ただ連中が過ぎ去るのを待つ。侮蔑されていることを知りながら、何もできず。仲間を殺され攫われても。
彼ら旧人類は個々に名前を持ち合わせてはいなかった。それは、元々全体数がそう多くなく、またそこからグループに分かれ暮らしているため、さらに身振り手振りと少ない言語で意思疎通が可能だからだ。この暗闇と狭い空間が彼らの個を溶かし、同一視させているのである。
その中に、ギュダと名付けられた者がいた。しかし、その名付け親は母ではなく、彼らを狩る新人類であった。ギュダは生まれつき歩き方に癖があり、それが当人も知らずに逃走に役立っていたため、何度も追跡者の手を逃れ、彼らから個として認識されるに至ったのだ。むろん、賛辞ではなく侮蔑の意味を込めてそう名付けられた。
しかし、ギュダと他の個体との大きな違いは名前だけでなく、その頭脳にあった。また、それが歩行や逃走術に影響を与えていると思われるが、当人にはわからない。得していると言えるが、その他者よりも僅かに優れた知性により、漫然と自分たちの現状、この生活にギュダは苦痛を覚えていた。
(トト、上行きたい)
(無理だ。必要もない)
(ここ暗い。出たがっている。行くべきだ)
(ダメだ。殺される。お前も)
トト。その個体を自分の父とし、親愛を込めてギュダはそう呼んでいるが、実際にギュダの父親かどうかは誰にもわからない。ただ、トトはギュダに対して、そのような振る舞いを見せることがあったというだけだ。
地下通路。パイプの隙間のその先、穴倉でトトは壁に背を付け、手持無沙汰であるように爪で地面を掻く。
(……焼かれてしまうぞ)
(そんなことない)
(焼かれる! 地上の光! 奴らの光以上! 奴らの光熱い!)
トトの剣幕にギュダは慄いた。だが時々、トトがこのように突然癇癪を起こすことは知っている。そんな時、ギュダは何も言わずトトの体にそっと手を添える。ギュダは知っている。トトの身体の中は苦しみで満たされていることを。
(でも、出たいはず。みんな、みんな)
(無理だ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。)
(じゃあ、なぜ生きている。なぜ命、育てている?)
(それは、そうすることで……)
(心。ここでそう感じている。そして満たされている)
ギュダは自分の胸を軽く叩いた。
(声、仲間みんなにかけておいて)
(お前がすればいい。そうしたいのなら)
(僕はすることがある)
(何を?)
(まず、僕が行かなければ)
(無理だ)
(トトは幼い僕に手本を見せてくれた。生きるための。だから僕はできるようになった。だから僕がそうすれば、みんなもできるはず)
(無理だ……。無理だ無理だ無理だ無理だ)
あるいは、このトトという個体はギュダの本当の父親なのかもしれない。体外へ放出されるその恐怖に満ちた思念は、連中に焼かれるギュダを想ったものであり、その苦しむギュダの姿に自分を重ね、痛みや死を味わっているのではなく、ギュダを失った後の自分のその悲しみや苦痛を強く感じているのである。
動物的な彼ら旧人類には見られない慈愛の本能であるが、もしかするとそれは新人類によって決めつけられ、無意識下にそう植え付けられていただけなのかもしれない。捕らえられた仲間を見捨てるしかない、その繰り返し訪れる悲しみから自分を守るための防衛本能。他者へ無関心を装っていたのかもしれない。
ギュダはそのことに気づくと、ますます体に力が湧くのを感じた。恐怖心が小さくなり、体の奥へ沈められていく。それは勇気というものだが、ギュダは知らない。
(大丈夫。頼んだよ、トト。これ、見せる。きっと大丈夫)
(ギュダ、ギュダ、ギュダ……)
ギュダはそれを大事に腕に抱え、パイプの間を登って地上へと向かった。
「どちらに媚びる? 俺かコイツか」
ギュダにはその言葉の意味が理解できなかった。尤も、身振り手振りで理解するだけの知能はあったが、見ることができなかった。
と、いうのも彼は自分の体を焼くようなそのライトの光に精神が蝕まれ、脳髄までも悲鳴で満たされていたのである。
「俺か、それともコイツか、ん? どっちがいい? んー?」
床に這いつくばるギュダは足で頭を押さえつけられた。ギュダは顔を傾け、その足の主を見ようとするができなかった。今、ライトは消えているが、未だに光が網膜に焼き付いており、ギュダの視力を奪っていた。
「お? コイツか? お前だとよ。はっはぁ! じゃ、頼んだぜ。しっかりと訊いといてくれよ」
その声が遠ざかり、部屋から出て行ったと理解したギュダはほっと息を吐いた。
『俺』か『コイツ』、ギュダは顔を動かして意思表示したつもりはなかった。そう見えたのか、ただ単に『俺』が『コイツ』に任せて休憩に行きたかっただけか。二択には正解したのか。なんにせよ、ギュダは『コイツ』と二人きりになった。
入り組んだ地下の迷路は長年に渡り、彼ら旧人類によって主に逃走経路として掘られた穴と隠し塞がれた穴で構成されていた。ギュダはそれを利用し、外に出た。幸運なことに夜であった。始終、暖かな地下と同じく、地上も暖かであったが、吹く風は地下にはないもので、怯えていたギュダは肌を撫でられるたびに身をくねらせた。
心臓はこれまでにないほど、地下で追いかけられているとき以上に早鐘を打っており、全身が粟立ちまた発汗、尿意を催していた。
極度の緊張からくる口の渇きと喉の痛みに、ギュダはこの空気が毒なのかと、身を強張らせたが、物陰で姿勢を低くするうちに徐々にだが慣れ始め、やがて行動を開始した。
誰かに会い、これを見せたかった。そうすればきっと、少なくとも悪い結果にはならないのでは。そう思っていた。
だが、最初に出会ったのが普段、ギュダたちを追いかけている連中であったのは不運でしかない。あるいは彼らが夜に外を巡回していることを知っていれば、遭遇を免れたかもしれない。
ライトを消した状態で背後から近づかれたゆえに、ギュダは反応することができなかった。
「実は、お前にギュダと名付けたのは俺なんだ。わかるか? ギュダ。それがお前の名だ」
ギュダは頷いて見せた。言葉自体を理解していたわけではない。だが、彼らが自分を目にしたとき、ギュダと呼ぶことを理解していた。それに、なんとなくだが、相手の口よりもその奥、脳からその思念と呼ぼしきものを感じ取ることができた。地下の仲間たちを相手するのと同じように。それが逃走を手助けしていたことをギュダは今知った。尤も、この事実は彼ら新人類にとって最も嫌悪すべきことであるとまでは気づくことはなかったが。
「ギュダ。あの花をどこで見つけた? 俺たちがお前を見つけた時、お前が腕に抱えていたその白い花だよ。他にもまだあるのか?」
彼はギュダのそばに置かれた花を指さした。その花こそが彼らとギュダを結び付けた存在。地下に比べ、地上は星明りや外灯で見えやすかったのはあったが、闇にボウッと浮かぶその白い花が彼らにギュダの存在を知らしめ、そしてライトを消し、ギュダに接近することを許したのだった。
「……それ、お前が育てたのか?」
ギュダは彼らの言葉を話せない。だから、その花が種から芽を出し、すくすく成長する様を身振り手振りで表現してみせた。
それは、魔法使いが魔法をかける前段階の仕草のようにしなやかな動きであった。
「……それはまずいことしたな」
ギュダは頷きかけてやめた。相手に伝わったことがわかり、喜んでいたが、その後から来る相手の困惑にギュダもまた戸惑ったのだ。
「この世界で自然の花は許されないんだ。病気をばら撒くからな」
そんなことはない。と、ギュダは言いたかった。自分たちはその花をあの地下で育てることに喜びを、希望を見出していた。
と、相手の言っていることが先程よりもはっきりと感じられたことにギュダは少し驚いた。それは相手がギュダに心を寄せているということだが、ギュダはそれを知らない。そして、寄せる理由も。
「どうやってそれを手に入れたんだ?」
(前から。命と一緒。紡がれてきた)
「……ああいや、訊かなくてもそれはわかっているんだ。地下には上から不要とされたものしかないからな」
彼がギュダを見る。そして言葉を続ける。
「それはな、麻薬と言うんだ。正確には麻薬のもと、か。この世界ではとっくの昔に禁止されたものでな。さっきのやつ、俺の相棒なんかは二十年前、いやもっとか、まあ昔、使用しているのを俺にバレた時なんか泣いて見逃してくれって頼んできたもんだよ。今じゃ俺より偉そうに振る舞って、まあ実際、奴が先に昇進したんだが。ああ、若かったんだな。今じゃ、堂々と注射してるよ。もちろん、周りに仲間しかいない時だけだがな。他の同僚や、あとお偉いさんたちも愛用しているようだ。はぁ、まったく……よくあれで市民に誠実なんて顔ができるもんだね。まあ、お前にはわからない話だろうが」
(花。白。争わない。平和)
ギュダは花を指さした。白と平和。ギュダはそれがなぜか結びついていることを知っている。花を育て、愛でているときの心の安寧か、それとも遥か昔からそういった意識が受け継がれてきていたのか、ギュダは知らない。
「みんな、木や花が毒だという認識、そういう世界で生きているからまずいんだよ、この花の存在は。消さなきゃならないんだ。知っている奴はな」
彼がギュダを見る。ギュダは彼の思念が伝わってくるのは、彼が自分に同情しているからだと知る。トトのように。自分の死を哀れんでくれている。ただ、その死を与える役目を担っているのが彼であることはギュダはまだ知らない。
「なあ、ギュダ。今、お前がいるこの塔のこの部屋はな、尋問室……それに拷問室なんだ。そこの床のドア、ああ、俺らが入ってきたところだ。で、下の階にあるスイッチを押すとシャッターが開き、部屋全体に外の光が入るんだ。上、下、前、後ろ、左、右、すべてだ。わかるか? 光だ」
(平和?)
「お前たちは光が苦手なんだよな。だからお前はこれから地獄の苦しみを味わうことになる。確実に死ぬと思う。ああ、俺は知っているんだ。だから、その花がどこにあるか案内してくれないか? わかるか?」
ギュダは首を横に振った。
「これだけか? 他にもうないのか? 確かめたいから連れてってくれよ、仲間のところに。意味わかるか?」
ギュダは首を横に振った。
わからないのか、それともわかった上で断っているのか。彼はギュダの思念を感じ取ることはできない。だが、ギュダのその白濁した目に力がこもっていることには気づいた。そして哀れんだ。お前たちが仲間想いじゃなく、もっと卑劣な生き物だったらよかったのに、と。
彼が去り、ギュダは部屋にひとり、横たわる。何を待っているのか。夜明けか。死か。解放か。この場合、どれも似たような意味だ。
話し声がする。遠いため、また言葉が違うからかギュダの理解には及ばなかったが、何かを揉めているようだった。
先ほどの男が自分の処刑を拒んでいるのだろうか。いや、違うな、とギュダは思う。そして蹲る。
ギュダは日の出を、朝が来たのだと思う。花が開くような息吹を感じたからだ。それはこの街の住人が目覚めたからだろうか。ギュダは知らない。
ギュダは熱さを感じる。目の奥に。そして体全体に。この壁の向こうから太陽が自分を見ているのだとギュダは思う。
声がする。いよいよだとギュダは思う。
シャッターが一斉に開いた。
ギュダの目の前に光の世界が広がった。
白、それに銀。光の中に光。四方と天井のそのガラスの向こう、降り注ぐ太陽光。さらに塔の四方にあるビルの上部に設置されている鏡に反射し、凄まじい光がまずギュダの目を刺し、そして体を焼いた。
ギュダは目を手で覆い、頭を床につける。苦しみから逃れようとする者は皆その祈り、あるいは許しを請うような姿になるのだろうか。ギュダは知らない。今、彼の中にはただ苦しみしかない。
悲鳴は喉が萎み声が嗄れて早々に引っ込んだが、脳内では絶えず続いていた。
嘆き、嘆き、ギュダは救いを求め、そんなものはないことを知る。そして、死だけだと思い直す。そしてまた思い直す。
ギュダは芋虫のように這い、床の熱さにまた悶え苦しみ、そして手で探る。
ギュダは見つけた。白い花。その根を掴み、あの地下を、トトを想う。
ギュダの心にほんの僅かに安寧が訪れる。もう、いい……とギュダは思う。
しかし、ギュダはふと気づいた。この間も悲痛な声が脳内で轟いていることに。そしてそれは一つではないと知ると、ギュダは立ち上がった。窓の方へ近づく。
白い世界。そこにギュダはトトを、仲間たちの姿を見つけた。尤も、目はとっくにその役割を成していないため、感じ取ったのだ。身を焼かれ、悲痛に耐えるいくつもの思念が飛んでいるのを。
ギュダは彼らと同じように花の根をそっと手で包み、顔の前に掲げた。
外では騒ぎが起きていた。陽のもとで彼ら、旧人類を目の当たりにした市民たち。旧人類のその姿は彼らに自分たちの罪を知らしめた。金と権力を持ち、また病人であった彼らはその原因である自然を、そして賛同しない者、健康的な者たちを徹底的に排斥した。
病の苦しみから逃れるために麻薬に溺れ、そして、体を改造し、大部分が機械になった今。彼ら旧人類は自らが捨て、遠ざけてきたものその象徴であった。その仲間意識さえも。
平和。今がそうではないのか。真に取り戻す日はいつか。彼らに疑問を植え付けたのだ。
やがて、訪れた暗闇の中、ギュダは声を聞いた。
先ほどのあの男の声。トト、それに仲間たちの声。どちらも慈愛に満ち、ギュダは平和を知った。