悪魔
背後から声が聞こえた。
きっと千葉の奴が俺に対して言った言葉だろう。
だが、そんな言葉など耳に入っていない。怒りで周りが見えていなかった。本来なら怒るべきでは無いのかも知れない。泣いたと言っても、振られて泣いたかも知れないからだ。
それでも、俺は奴が悪いと決め付け、奴を探す。真相を聞く為に。
校舎を歩き回る。雨で湿った廊下は、歩くたびにキュッキュッと、音を起てた。嫌な音だが、今は全く気にならない。
暫く歩いた後、聞き覚えのある声が聞こえる。
「なぁ、いいだろ」
「あ、あの、止めてください」
女性の声と、あの男の声。
「どうせ、暇だろ。俺達と付き合えよ」
「そうだぜ。退屈させないぜ」
続けて別の男の声が二つ。奴の友人だろう。しかし、両方共下品な声質だ。
「あ、あの、ほ、本当に急がしいので――」
「いいのか? 俺の誘いを断ったら、周りの女からどんな仕打ちを受けるか」
奴の言葉に、残り二つの下種な笑い声が響く。最低な奴だ。仕舞いには脅迫。そんな奴に淡い恋心を抱いた和葉は――。
本当はここで俺が怒るのは全くのお門違いだ。それでも、コイツだけは許すことが出来ず、俺は奴の前に姿を見せ、言葉を発していた。
「嫌がってんだろ。手を放せよ」
辛うじて怒りを堪える俺は、奴の顔を見ない様に僅かに俯き加減で立っていた。今、奴の顔を見たら怒りが爆発してしまうからだ。俺は基本的に、非暴力主義だ。出来る限り話し合いで解決できればそれで良いと思っている。あいつとは違うのだ。
俺の存在に奴の友人二人が気付き、ゆっくりと歩み寄る。
「オイオイ。誰だか知んねぇが、調子にのんなよ」
「ここに居るのが、誰か知って言ってんのかよ」
名前も知らない二人組みが、俺の周りをチョロチョロする。目障りだが、ここは我慢する。別にそこまで気にする様なものじゃない。自らを落ち着かせる様に息をゆっくりと吐く。
「お前に話がある」
声を震わせ言った。すると、奴は鼻で笑い、静かに言う。
「俺の方は話なんて無いんだけど、てか急がしいんだけど」
「嫌がってる女の子を脅す事が……か?」
俺の言葉に僅かに動揺したのだろう。井上の手を振りきり女子生徒が俺の横を駆け抜けて行った。これで、心置きなく話し合える。
「チッ。テメェのせいで逃げられたじゃねぇか」
「どうしてくれんだよ」
その他の二人が俺に突っかかってくる。全くうるさい。でも、まぁいい。とりあえず、奴と話を進めよう。
「井上。お前、今朝和葉と何を話した」
「あぁっ? 今朝? さぁて、何の話だっけな」
「テメェに関係ネェだろ!」
突如頭部に激痛が走る。一瞬視界が闇に包まれたが、すぐに意識は戻った。
「イッッ……」
右手で額に触れると、ヌルッとした感触があり、それが血であるとすぐにわかった。俺は殴られたのか。背後に目を向けると、男の一人がホウキを持っていた。それで、殴られたのだろう。俺の血が僅かに付着している。
イッテェ。頭が割れる様にイテェ。コイツ、何してんだよ。マジで。
色んな感情が湧き上がり、俺は自然とホウキを持った男を睨んだ。
「な、何だよ。やんのか?」
男の声が僅かに震えている。そして、もう一人の男が気付く。
「お、オイ。や、やべぇって。こ、コイツ――」
「何だ? 何ビビッてんだよ」
豹変した男の態度に、ホウキを持った男がおどけた様子でそう問う。すると、震えた手で俺を指差し、
「こ、コイツ、あの噂の悪魔だ……」
「悪魔って、ま、まさか……」
ようやく、ホウキを持った方も気付いたらしい。俺が人の皮を被った悪魔と呼ばれている事に。恐怖に顔が引き攣り、ホウキを握り締めたまま硬直する。
そして、俺の視線に気付いたのか、震えた声で言う。
「し、知らなかったんだ! ゆ、許してくれ!」
捨て台詞を吐いて男達は逃げ出す。人を殴っておいて、知らなかった、で許されるわけが無い。だが、今はとりあえず、井上だ。奴と話をしない事にはどうにもならん。
額から溢れた血が右目を塞ぐ。傷は浅い様だが、頭と言うのは大袈裟に血が流れるものだ。
振り返ると井上が尻餅を着いていた。先程の二人の会話で、おおよその事情を知ったのだろう。おまけに手を出しちゃいけない奴に手を出した、と言う事にも気付いたのだろう。表情が先程とは正反対だ。
「や、止めろ! お、俺は、わ、悪くない。俺は悪くないんだ! 山本の奴が一方的に――」
「一方的にどうした?」
少しだけ声色を変えて尋ねる。すると、「ヒッ」と、情けない声を上げて言葉を続ける。
「こ、告白を、お、オーケーする代わりに、お前と縁を切る様に言ったんだ。そ、そしたら、急に怒り出して――」
半べそ状態の井上。流石にこれ以上やると、本気で泣き出してしまいそうだ。俺も別にそこまでするつもりは無い。それに、元々話しを聞きたかっただけで、ここまで大事にするつもりは無かった。だから、最後に忠告だけする事にした。
「もう和葉には近付くな。いいな」
「わ、分かった。ち、近付かない。だ、だから」
「――消えろ。今すぐに」
俺の言葉に悲鳴の様な声を上げ、井上が走り去って行った。実に甘いと自分でも思う。それでも、平和的に解決出来たので良しとしよう。
「たく……。イ…テェ……」
急激に体が重くなり、俺はそのまま意識を失った。