傘
ようやく、掃除が終わった。結局、大杉は戻ってこないし、美緒も戻ってきてすぐ教室を出て行った。何でも、先生に呼ばれたとの事。
しかし、何で僕が一人で教室を掃除しにゃならんのだ。全く納得いかない。掃除当番は何の為にあるんだ。不満を抱きながら、カバンを持つと電気を消してから教室を出た。戸締りは――大杉の奴がしてくれるだろう。全く学級委員長なんて損な役回りだけだ。
折り畳み傘を右手に持ち、鼻歌混じりで歩みを進める。人とすれ違う事も無く、正面玄関へと辿り着いた。流石にもう人は残っていない様だ。
「ハァ……。何で俺が」
「あっ、赤坂君です」
「あら。今帰りなの?」
木村と高橋の二人。同じクラスの仲良し二人組みだ。
「ど、どうしたの? こんな時間まで残って」
慌ててそんな言葉を口にすると、高橋の方が穏やかな笑みを浮かべながら答える。
「雨脚が強いから、少し弱まるのを待ってるのよ。赤坂は?」
「ぼ、僕は掃除をしてたんだよ」
「ふえぇぇっ。今まで掃除してたんですか。大変ですね。委員長も」
「そ、そんなこと無いよ」
テレを隠す様に、顔を背けた。正直、僕は木村の事が好きだ。だから、褒められるのは慣れていても、流石に好きな子に褒められるのはどうも歯がゆい感じがする。
顔が妙に熱い。やばい。緊張してきた。何を話したらいいんだろう。悩めば悩む程、頭の中は真っ白になって行く。
言葉に詰まっていると、高橋の方が意味深な笑みを俺の方に向け、
「どうしたの? 赤坂君」
「い、いや。な、ななな何でもないよ」
「どうかしたんですか?」
あまりの慌てっぷりに木村が心配そうな表情を向ける。その目が可愛らしい。マジで、そんな目で見ないでくれ。心臓が破裂してしまいそうだ。頭がショートしてしまった様に、脳内が真っ暗になった。脳内の電源が完全に落ちた。
機能が停止したロボットの様に立ち尽くしていると、目の前を高橋の手が上下に往復する。
「赤坂くーん。大丈夫?」
「ふぁい……ふぇいきれす」
呂律が回らない。そんな僕を更に心配そうな目で木村が見つめる。その視線に脳内の機能が更にショートする。
「あーぁ。ダメよ。杏ちゃん。ほら、もっと離れて」
「ふぇぇぇぇっ。どうしてですかぁ。私、嫌われてるんですかぁ?」
木村の目が涙で潤む。そんな木村をあやす様に、高橋が何やら耳打ちをする。すると、木村の顔が見る見る赤くなり、
「はうううっ。赤坂君のエッチです!」
などと、突然叫ぶと、随分遠くまで離れていった。
『赤坂君のエッチ』
その単語が脳内を巡り、僕はショックで気を失いそうになる。そんな僕を支えたのは、高橋だった。
「大丈夫?」
「……ダメ。もうダメだ……。僕の人生は終止符を迎えた……」
「まぁまぁ。大変ね」
他人事の様にそう口にする高橋。全く、誰の所為だ。
ショックの大きさに、思わず膝まずいてしまったが、気力で体を持ち直す。
「たぁーかぁーはぁーしぃー」
擦れた声で高橋に掴みかかると、高橋はニコッと大人びた笑みを見せる。
「どうかした?」
「お前、木村に何を言った」
「あら? 気になるの?」
気にならないわけが無い。好きな子に『エッチ』と、言われたんだぞ。それで気にならない奴の顔を見てみたものだ。
しかし、相変わらず他人事の様に楽しげに微笑んでみせる高橋は、
「大丈夫よ。ちょっとした伏線を引いただけだから」
「伏線?」
「そうそう。杏ちゃんには、『赤坂は雨に濡れる私達を想像しているの』って、言っておいただけよ」
「だけじゃないだろ。それでだけで十分嫌われるだろ……。お前、知ってるだろ。俺が木村の事好きだって」
そう。高橋は僕が木村の事が好きだと知っている。いつ頃か忘れたが、言われた。
『杏ちゃんは結構鈍いから大変よ』
と。何故、バレたのか分からないけど、高橋曰く『赤坂は分かりやすい』との事。僕ってそんなに分かりやすいのか、と本気で悩んだことがある。
「それで、さっきの伏線の事だけど」
「ああーっ。もうダメだ……」
「聞いてる? 赤坂」
「うううっ……たぁかぁはぁしぃ。お前だけは許さないからな……」
高橋を睨むと、引き攣った笑みを見せる。そして、木村の方に顔を向け、
「杏ちゃん。赤坂が傘貸してくれるんですって」
「ふえええっ。ホントですかぁ? 赤坂君。優しいです」
さっきの言葉は何処へやら、木村は僕のすぐそばまで来て、僕の右手を握り締める。その瞬間、僕の脳内で巨大な爆発音が轟き、思考がまた停止した。