梅折りかざし、君を恋ふ 〜後宮の妃は皇子に叶わぬ恋をする〜
円窓越しに見えるのは、春雨に濡れる緋色の梅。
机一つさえ残さず伽藍洞になった房の中から、張 琳伽は内院をじっと眺めている。
前の皇帝の後宮妃の一人であった琳伽は、今日この後宮を去る。その後の生き方は、自身で自由に決められるものではない。後宮を出たその足で出家し、尼となるのだ。
後宮から妃嬪が一人残らず去ったあと、この場所は新たに即位した皇帝の後宮として一新される。
親子ほど年の離れた前皇帝に仕えて寵愛を受け、最後は徳妃まで昇り詰めた。
ここ数年は前皇帝の居に近い翠耀殿で過ごしていたが、前皇帝の崩御後はこの梅華殿に戻って来た。ここ梅華殿は、琳伽が後宮入りした十五の時から約六年ほど過ごしていた思い出深い場所である。
「張徳妃さま、お茶をお持ちいたしました」
何もないこの房に、侍女の声がぼんわりと響き渡る。
「ありがとう。今日は雨が降って冷えるわね」
「そうでございますね。せっかく梅の花が綺麗ですのに」
琳伽が後宮を去った後、この梅華殿にも新帝の妃が入ることになるだろう。毎年琳伽を楽しませてくれた内院の梅の花も、次に巡ってくる春の頃には、別の妃に向けてその緋色の花を開くはずだ。
◇
——今から十一年前、琳伽は後宮へ入った。
張氏一族の出世を助けるために、まるで献上物のように差し出された。
前皇帝はその頃既に四十を超えて多くの妃嬪や皇子がおり、まだ年端もいかない 琳伽は皇帝の伽に呼ばれることもなかった。
後宮という鳥籠に閉じ込められた一羽の雀。
孤独な雀にとっての愉しみは、春の訪れを告げる内院の梅の花。そして、梅華殿の隣の殿舎に住まう淑美人の皇子、逞峻と過ごす時間であった。
「琳伽、梅の花が咲いた! 早く来て!」
「逞峻様、分かりました。すぐに参ります」
梅華殿の円窓の外から、皇帝の三番目の皇子である逞峻が琳伽を呼ぶ。
琳伽は十五歳、逞峻は九歳。
弟よりも年下の逞峻は、琳伽にとっては目に入れても痛くないほどに可愛い存在であった。
「わあ、本当ですね。緋色の梅は初めて見ました」
「琳伽はここに来て初めての春だものね。私が琳伽のために、梅の花を折ってあげよう」
逞峻は懸命に背伸びをして梅の花に手を伸ばすが、九歳の少年には高すぎて手が届かない。琳伽は逞峻を抱き上げ、花に手が届くように高く持ち上げた。
「琳伽、届いた!」
「梅の花は折れましたか」
「ほら、ここに。琳伽、少し身をかがめて」
琳伽が言われたままに少し身をかがめると、逞峻は手に持っていた梅の花を、高く結い上げた琳伽の髪にそっと差した。
「わあ……梅の簪でございますね」
「そうだ。琳伽、嬉しい?」
「はい、とても嬉しいです。梅の花は大好きですし、逞峻様が一生懸命取って下さいましたので」
「それでは、来年も梅の花が咲いたら、琳伽に簪を贈ろう」
まるで春の日差しを浴びて光る水面のように、逞峻の瞳は希望に満ちて輝いていた。
◇
翌年の春。
琳伽は十六歳、逞峻は十歳。
その年も逞峻は梅の花には背が届かず、嫌がる逞峻を琳伽が抱きかかえ、梅の花のついた枝を折る羽目になった。
更に翌年。
琳伽は十七歳、逞峻は十一歳。
梅の花に手が届くか届かないかという瀬戸際であったが、結局逞峻は自分で梅の枝を折ることはできなかった。
琳伽が逞峻を抱き上げようと伸ばした手を見て見ぬふりをして、「来年は必ず自分で折るから、今年は琳伽が自分で折りなさい」と言い、拗ねて殿舎へ引っ込んでしまった。
琳伽十八歳、逞峻十二歳。
漸く逞峻は自分で梅の花に手が届くようになり、折った梅を琳伽に渡し、照れくさそうにその場を去った。
そしてその翌年。
琳伽は十九歳、逞峻十三歳。
「逞峻様、いつの間にか私の背丈を超えましたね」
「……男とはそういうものだ。琳伽、梅の花はすぐにしおれてしまうから、次は梅の花を模った本物の簪を贈ろう」
十三歳の少年の言葉に、琳伽はしばし息を飲む。
簪を贈るという行為には、「自分の伴侶になって欲しい」という意味がある。
逞峻がその意味を知った上で、簪を贈ると言っているのかどうかは分からない。
しかしいずれにしても、皇帝の妃である自分が皇子である逞峻から簪を贈られることを是とすることはできない。
これまでだって梅の枝を簪に見立て、毎年のように逞峻から贈られていたと言うのに。
いざ本物の簪を贈ると言った逞峻の言葉に、琳伽は心乱されるのであった。
◇
琳伽は二十歳になった。
逞峻は、十四歳となったはずだ。
この年は皇帝に四番目の皇子が誕生した祝いとして、梅見の宴が催された。
皇帝と皇后が座る横には、久しぶりに見る逞峻の姿。
上の二人の皇子が早世し、逞峻は皇太子となっていた。当たり前のようにいつも傍にいた逞峻は東宮へと移り、この半年は一度も顔を合わせていない。
皇帝、皇后、そして逞峻。
その三人の左右には、美しい装いに身を包んだ四夫人に、皇帝の寵を得た妃たちが並ぶ。
琳伽のような下っ端の妃嬪は、余興として舞を披露することになっている。雅楽に合わせて薄絹の被帛を揺らめかせながら、琳伽は舞の振りに合わせて逞峻へ視線を送った。
この半年で随分と精悍な顔立ちに変わった。
上敷をかけた長几に隠れて全身は見えないが、琳伽を少し越す程度だった背は、きっと随分と伸びていることだろう。
『次は梅の花を模った本物の簪を贈ろう』
昨春の逞峻の言葉に心乱され、次の春が来るのが怖いような待ち遠しいような複雑な気持ちで迎えた夏の終わり、突然訪れた二人の別れ。
仮にも皇帝の妃という立場で、逞峻の言葉をどう受け止めれば良いのか。そんな気持ちも、今となっては杞憂に過ぎない。
皇帝の後宮妃と、皇子。
六つの歳の差。
色んな障壁を口実にして、琳伽は自分の気持ちから目を逸らしていた。
もし自分が皇帝の後宮妃でなければ。
もう少し歳が近ければ。
逞峻が簪を贈ろうと言った申し出を、素直に受け止めることができたのに。
(せめて皇太子となられた言祝ぎの代わりとして……)
琳伽は逞峻に向かって、叶わぬ想いを込めて精一杯舞った。
◇
梅見の宴の翌日のこと。
梅華殿の琳伽の元に突然届いたのは、皇帝からのお召しの報せであった。皇帝が、宴で舞を披露した琳伽を目に留めたらしい。
琳伽が後宮に入ってから、既に五年の月日が過ぎていた。
妃の一人でありながら、妃ではない。
いつしかそんな錯覚をしていた自分に気付き、琳伽は唇を噛んだ。
夜になり、支度を整えた琳伽は皇帝の居所である宮に向かう。後宮の端の端にある梅華殿から皇帝の宮までは、灯りを持った侍女についてしばらく歩かねばならない。
途中、しとしとと降る雨音に紛れた小さな物音に振り返ると、東宮殿の遊廊に佇む影があった。
(あれは……逞峻様)
琳伽が皇帝に召されたことを耳にして急いで来たのか、肩で息をしながら立っている。まだ夜は肌寒い季節だというのに、薄衣一枚の寝着姿であった。
琳伽が想像した通り、彼はもうあの頃共に梅の花を愛でた逞峻ではなかった。背は伸び、少年時代のあどけさは消えていた。
きっと今なら、琳伽の手の届かないほど高い所にある梅の花にも、易々と手が届くだろう。
(見ないで)
皇帝の元に向かう姿を、逞峻には見られたくない。
琳伽は侍女が持つ傘の陰に顔を隠し、逞峻に背を向ける。
止まりたくとも止まれない。
止めたくとも止められない。
足早に歩く琳伽の傍で、咲き始めたばかりの梅の花が雨に濡れていた。
◇
「朱花。輿の準備ができたかどうか、様子を見てきてくれる? 私も少し一人で、この梅華殿に最後の別れをしたいの」
「かしこまりました。また後程お迎えに参ります」
侍女の朱花を行かせたあと、琳伽は雨の降る内院に出た。
木の幹に手を当て、緋色の梅を見上げる。
二十歳の頃に皇帝から見初められ寵愛を受けたが、琳伽は子を産まなかった。子がいる妃は、後宮から出ることは叶わない。
(私にもし前皇帝陛下の子がいれば、このまま後宮に残されて逞峻様の近くに居られたのだろうか)
雨に濡れた梅の花にそっと触れながら、琳伽は逞峻の顔を思い浮かべた。琳伽が二十六になったということは、逞峻は二十歳。
この場所で梅の花を愛でた頃の逞峻は、琳伽に梅の簪を贈った逞峻は、もういない。
「張徳妃様、準備が整いました」
戻ってきた朱花が、琳伽に向かって礼をする。琳伽はもう一度梅を見上げ、それから朱花に向き直って笑顔を作った。
「朱花、ありがとう。参りましょう」
琳伽が一歩踏み出したその時、ふとそれまで降っていた雨が止まった。驚いた琳伽は、そのまま空を見上げる。
琳伽の目に入ったのは空や雲ではなく、傘だった。
◇
(黄色の傘……梅の模様?)
後ろから傘をかざした人の方に琳伽が振り返ろうとすると、それを静止するように首元に太い腕が伸び、そのまま抱きすくめられる。
驚いた顔をした朱花がもう一度礼をして、足早に走り去った。
「張 琳伽」
「はい……」
琳伽の耳元で、低い囁き声が聞こえる。
朱花が驚いて走り去ったということは、この背後の男の正体はあの人しかいない。
「皇帝陛下。おやめください」
「琳伽……なぜ私に挨拶もなく去ろうとしたのだ」
「申し訳ございません。ですが私は前皇帝陛下の妃。もう既に後宮での役目は終わっております。どうぞお放しください」
腕の力が緩んだ隙に琳伽は抜け出し、一呼吸整えてから、うしろを振り返る。
皇帝の象徴である龍の刺繍の入った上衣、大帯にかかった碧の佩玉。傘を片手に立っていたのは、とうの昔に琳伽の背丈を超えた、二十歳になった逞峻であった。
「まだ時はあるだろう。ここでは雨に濡れる。中に入ろう」
「輿を待たせておりますので」
「遅れると伝えてある」
琳伽の返事を待たず、逞峻は琳伽の頭上に傘を寄せ、背中を押して殿舎の中へ入るように促した。
◇
何もない房の中で、二人は向かい合って座る。
前皇帝の妃が既に後宮を出た。ここ梅華殿だけではなく、他の殿舎も大半がもぬけの殻である。この房からどこまでも続く静寂の中に、春雨の音だけが響く。
琳伽と逞峻が共に時を過ごしたのは、もう何年も前のこと。今更対峙したとて何を話せばよいかも分からず、居心地の悪さから琳伽は円窓から外を見た。
つい先ほどまで同じ場所から景色を眺めて心を静めていたのに、今は目の前に逞峻がいるからか、やはり心は落ち着かない。
「琳伽」
逞峻が衣の裾を直しながら口を開く。
「……どこの寺に向かうつもりだ」
散々もったいぶった挙句、行き先だけを尋ねて来た逞峻の言葉に、琳伽は呆れて目を開いた。
わざわざ皇帝が従者も付けずに誰もいない後宮に現れ、琳伽の去り際を引き留めて置いてこんな話だ。行き先だけが知りたいのなら、あとから何とでも調べようがあるものを。
せっかく梅の花とも別れを済ませ、逞峻への想いを断ち切ったところだったのに、これでは未練が残ってしまう。
琳伽は苛立ちながら逞峻の問いに答えた。
「行き先は、温恵郡の慶鵬寺でございますが」
「出家……するのだな」
「はい、私には子がおりませんので。尼となって前皇帝陛下の供養をしながら余生を過ごしたいと思っております」
「そうか……」
そしてまた、二人の間に静寂。
目線も合わせようとしない逞峻に、次は琳伽が口を開いた。
「陛下。もうそろそろ私は参ります。雨の中、輿をいつまでも待たせるわけには参りませんので」
「……待て! こんなことを言いたかったわけではないのだ。これを……」
◇
先ほど気にしていた衣の裾の近くから、紫色の手巾に包まれた何かをごそごそと取り出してきた逞峻は、膝を立てて琳伽の傍に近寄る。
琳伽の右手を開かせ、そのまま中身ごと、手巾を静かに握らせた。
「陛下、これは」
「あの時の約束を守れず、申し訳なかった。私に力がなかったばかりに……」
逞峻の表情は苦悶に満ちている。
約束とは何のことだろうか。
そして、逞峻に力がなかった、とはどういうことか。
「兄二人が相次いで亡くなったことで、母が何か謀ったのではないかと疑われていた」
「淑美人様が? まさか、上の皇子様たちは流行り病が原因で身罷られたのです。淑美人様が何かを謀ったなどと……!」
「もちろん母は何もしていない。しかし皇后陛下は、ずっと母のことを疑って辛く当たっていた。そんな時に私が琳伽を下賜して欲しいなどと、言い出せなかった。そんなことをすれば琳伽にまで害が及ぶと……」
逞峻の言葉に、琳伽は右手に持っていた手巾をぐっと握りしめる。自らの知らないところで、逞峻は自分のことを想い続けていてくれたというのか。
幼い頃の口約束とは言え、琳伽にとって逞峻のあの約束の言葉は大切な思い出であり、支えであった。出家して尼になっても、その約束を心の糧として生き続けようと思っていたのだ。
琳伽の両目の奥から、熱いものが込み上げる。
「陛下、私のことをそのように想っていてくださったのですね。しかし、私はこれから出家する身。今生で私たちが結ばれる道は、なかったのでございます」
「何を言うのだ」
「来世でもし再びお会いできたならば、その時は……皇太子と皇帝の妃という立場の差も、この六歳という年の差も。私たちを縛る枷が一つもありませんように。そんな出会い方をしたいものです」
こぼれそうな涙を逞峻に見られたくなかったが、顔を隠せばすぐに涙の雫が落ちてしまいそうで、琳伽はまっすぐに逞峻を見つめる。
右手には更に力が入り、手巾の中にある固いものが手のひらに食い込んだ。
◇
「琳伽、それを受け取って欲しい」
「……なんでしょうか」
鼻をすすりながら、手巾をゆっくりと開く。
中からは、梅の花を模った簪が顔をのぞかせた。
「陛下」
「気に入ったか」
「……陛下、子供の頃にお伝えしておくべきでしたが、簪を贈るというのは求婚する意味があります。たった今、今生のお別れを申し上げたばかりではありませんか。私のことはどうかお忘れください」
「その簪を持って、慶鵬寺に行くがよい」
「陛下!」
琳伽が声を張り上げるのと同時に逞峻は琳伽の腕を引き、そのまま倒れて来た琳伽を深く抱き込んだ。
逞峻の胸にすっぽりとはまって抜け出せない琳伽は、梅の花に手が届かなかった逞峻を抱き上げた日々を思い出す。あの頃とはすっかり変わった包容力のある大きな胸と腕に包まれ、琳伽は観念して目を閉じた。
「今は、琳伽を手放すしかない。しかし、その時が来たら必ず迎えに行く。この簪を持って、待っていて欲しい」
「……これから尼になろうとしている女に簪を贈るなど、女心を分かっていないにもほどがございますよ」
逞峻は琳伽の髪を愛おしそうに撫で、項に唇を寄せて囁く。
「髪なら、また伸ばせば良い。張徳妃の髪は、一度尼になって全て捨ててしまえ。そうすれば、その後に伸びた髪は全て私だけのものだ」
雨が上がり、梅の花を濡らす雫が日の光を受けて煌めいた。
待ちくたびれたのか、恐る恐る琳伽の様子を見に来た侍女の朱花に、琳伽は小さく手を上げて合図をする。
そしてもう一度梅の花を見上げてから、ゆっくりと梅華殿を背にして歩き出した。
<おわり>