第10話 サキュバスのおうちと“元”勇者
「着いたよ。上がって上がって~♥」
そう言って俺の腕に組みついて来るスー。従者であるサーヤは別の準備があるのか、屋敷の二階へと上って行った。俺はスーを振り払い、背中に背負っていたシアに声をかける。
「立てるか」
「………っ」
シアは頷くと、屋敷の玄関口にストッと降り立った。不思議そうに周りを見回している。
俺も同じように見回してみた。
玄関からすぐにリビングが見え、隣にはダイニングキッチンがある。
「どぉ? サキュバスのお家って」
「思ってたより新鮮味がないな」
「ちょっとぉ!?」
思ったことをそのまま口に出した。
何というか………普通だ。
中産階級の市民の家よりは立派であろうものの、それだけである。
この屋敷が特別なのは、ほとんどその立地によるものだ。
「正直、まさか、谷らしい裂け目が終わるところまで歩かされるとは思わなかった」
そう。俺達は、『サキュバスの谷』の端、谷が終わる場所まで、川の上流へ上ったことになる。遠くない場所からドドドと大きく水の落ちる音が聞こえてくる。大瀑布といっていいものが近くにあるからだ。
スーの住む屋敷は、谷の始まりにある大きな滝、大きな川が谷に落ちる場所のすぐ傍にあった。
玄関から滝の方を見ると、ちょうど谷が始まっており、ずっと遠く、霧に閉ざされる場所まで渓谷の景色が一望できる。
「ここ、すごいでしょ」
「ああ。この辺は霧も濃いからかなり理想に近い要害なんじゃないか」
「そうじゃなくて。ここから見える景色」
「家からの景色も絶景だな。見事なもんだ」
玄関から見る外への感想もそこそこに、俺は土足のまま屋敷に上がり込む。屋敷―――といって、その様相はまさしく人間のものと変わらない。一軒の邸宅だ。谷の壁面に穴をあけた他の家とは一線を画するものとなっている。
この邸宅が、ここ『サキュバスの谷』ではほぼ唯一、地上部に頭を出した建物となるわけだが―――
「この家の裏手には何があるんだ?」
「山だねー。霧が濃いし危ないから、誰も入れないんだー」
周囲を霧と山に囲まれた地形。集落自体は巨大な谷を形成している。渓谷という言葉から想起されるほど長閑な景色ではなく、ただ侵入者を拒む天然の要害だった。こうしてわざわざ人間の建てるような屋敷を構えるのも理解できなくはない。
「何か飲む~?」
「何でもいい。シアには温かいものを頼む」
「はぁ~い♥」
スーは俺達にリビングのソファに座るよう促しつつ、そう言ってキッチンの方に引っ込む。ここリビングは、玄関から上がってすぐのところにあり、隣はダイニングキッチンとなっている。カウンター越しにキッチンの方からカチャカチャと茶を準備する音が聞こえてきた。
水は川のものを利用し魔法で浄水しているのだろう、魔石(魔法の記録された特別な石)が効果を発揮した時の独特の発動音がヴゥンと鳴り、その後でまた音が鳴ると水が沸騰した音を立てる。
「おまたせ~」
やがてティーセットなどを持ってきたスーがリビングの席に腰かける。テーブルを挟んで向かいのソファに座り、こぽこぽとティーカップに茶を注ぎ始めた。
芳香を楽しみつつ、俺はくゆる湯気の中に顔を埋めてカップに口をつける。
「………美味い」
「でしょ~?♥」
得意げにスーは笑った。
「シア」
俺は飲んで数秒待ってから、シアの方にも声をかける。
「―――っ」
シアは俺の所作を真似て、ふぅふぅと冷ましてからカップに口をつけた。
「―――!」
ほぅ、と一息吐いて、シアは目を見開いた。美味しいのだろう、それから一口、また一口と飲み、舌の上で転がしてその風味を楽しんでいるようだった。
どうやらこの茶、ただの茶葉エキスの抽出物でなく、砂糖のようなものも入っているようだった。疲れた身体が喜ぶ味だ。
「余り物で悪いけど」
スーは茶の他にも、プレートをテーブルの上に置いた。プレートの上にはクッキーのような菓子が載っている。俺がまず一つつまみ、美味いと述べてからシアに口をつけさせる。
シアは、はむはむもそもそとクッキーを食べた。一つ食べ終わると、遠慮しながらも物欲しそうにして、プレートから目を離さない。
「いいよ、食べて。余り物だし、なくなったらまた作るだけだし」
「だそうだ。シア、遠慮するな」
「~~~~っ!?」
シアの目が輝いた。プレートの上のクッキーは余り多くはないが、一つ、また一つと口に運んで、クッキーを全滅させにかかっている。
俺はその様子を横目に見ながら、出された茶を飲む。
「このクッキー、お前が作ったのか?」
「そうだけど?」
「…………」
「な、何よ」
「意外だ」
「ちょっとぉ!?」
本当に意外だと思った。
「美味しいからさ」
「………っ、あ、ありがと………じゃなくて! 意外ってどういうコト!? すごく失礼なんですケド!」
「こういうことをするのはサーヤの方じゃないのかと思ったんだ」
「サーヤ? あの子は、まぁ………ね。得意なことは他にいっぱいあるもの。メイドとしては有能よ」
「どこがだ。クビにしたらどうだ?」
「ちょっと、サーヤのこと悪く言うのはやめてよ」
「悪い、口が滑った。ところでアイツ、クビにしたらどうだ?」
「もうっ………!」
軽口を叩きながら、カップの茶はどんどんと量を減らしていく。
ついにカップの底が見え、俺はカップをテーブルに置いた。
「―――しかし、この茶も美味いな」
「………そ? ソーブティーっていうお茶よ」
「ああ、これソーブティーか」
「………」
俺は知ったかぶりをした。この世界の茶など何にも知らないからだ。
ただ、スーの反応からするに、少し下手すぎたようだ。
「………アンタ達、王都の方から来たみたいだけど、王都の人間じゃないんでしょ?」
「実はそうなんだ。よく分かったな」
なんだか色々と確信があるような話しぶりだ。
「アンタ、格好はその子と同じで奴隷みたいだったけど………そんなに強くて奴隷なわけないし。荷馬車に隠れてたけど、物盗りっぽくはないし。ほんと謎だらけ」
「だろうな」
「………話したくない?」
「成り行きとはいえ世話になっている身だ。話せることは話すさ」
「じゃ、話してよ。それとも話せないことだったりとか?」
「話すのは構わないが、一つ条件がある」
「じょ、条件!? また!?」
「俺からの質問には疑問を抱く前に答えてほしい」
「気になることは聞いてくれていいけど……え、どゆコト?」
「………いや、いい。何でもない」
俺はまだこの世界での人間や亜人種含めた魔族の価値観というものを理解したわけじゃない。話が理解できる流れ者、という最低限のラインは、はみ出さないようしっかりと守らなければならない。
目の前のスーという女は、サキュバスのクセに男性経験がなく、俺の精気を吸うにもまだ尻込みしているようだからな。一線を越える判断を迷うのは向こうも同じということだ。
さて、では目の前の女に聞くことは―――無数にあるが、怪しまれない範囲で、できる限り知り得ることを知っておきたい。
「まず―――お前達と人間との関係だ」
「関係も何も、さっきここに来るまで話した通りよ。スー達『桃色族』と人間の傭兵団とで、過去に争いがあった。それくらい……かな?」
「ああ、それはいい。だがそれが、お前達『サキュバス』っていう種族全体の話じゃないだろ?」
「それはそうだけど………でもスーはそれ以外のサキュバスのこと、よく知らないし」
「………ふむ?」
なに? 知らないのか?
「だけど、基本的に縄張りは侵さないよ。スー達なんて、放っておいても滅亡するのは分かりきったことだし………他のサキュバスが干渉する理由がないもん」
「そうだったな。お前達の血はまさに風前の灯火だったな」
「!? ちょっと!」
「まぁ、滅亡しないために、俺をここに呼んだんだろ」
「………っ!! そ、そうだけど…………っ!」
スーは赤らめた顔をそらし、モジモジと股をこすり合わせるように動かしている。借りてきた猫のようになってしまった。俺は極力、彼女の下半身から視線を遠ざける。
「今までこの谷から外に出なかったのは賢明だったな。天然の要害であるここは、おそらくお前達の先導がなければ迷うところだろう。あの霧の魔力残滓………霧に魔力を込めると毒に変わるとか、そんなところか。アレもアレで、かなり有効な守りだろうしな」
「……!? そ、そんなことまで分かるの!?」
「まぁな」
「す、すごぉ…………!」
スーは輝いた目でこちらを見てきた。褒められて悪い気はしないが、別になんてことはない話でそんなことを言われると少し背中が痒くなるな。
“元”勇者としての経験―――元の世界で魔族を散々駆逐してきた経験が、こんなところで……よりにもよって魔族に褒められる要因となるとは。皮肉なもんだ。
「そんなことまで分かっちゃうんだ………。だったら、もう………アンタからしたら、スー達バカだって思うよね。今の今まで、どうしようもなくて。こんな風に行きずりの男を巻き込むことしかできない………」
少し驚いたのが、スーが彼女自身の行動にかなり自覚的だったということだ。
過去の傷が癒えたのかサーヤの激励か、とにかく何らかの心境の変化があって、あの森での俺達の出会いに繋がったと考えられる。
「そうだな。変な男に引っかかってもおかしくない行動自体は、バカだとは思う」
「…………」
「だが今までのお前達を、その想いを、愚かだとは思わない」
「………え?」
「お前達が―――お前達を守ってくれた者達のことを想い、そしてその想いと自分達を大切にしたが故の行動だろうからな」
「…………」
スーの目は俺の目を見ている。
抱えている迷い、どうしようもない憂い。
その潤んだ瞳は何か、覚めない悪夢の中で、救いを求め揺れているようだった。
長い間―――霧に覆われたこの谷で、亡くした一族を想いながら。
喪に服すには、十年というのは余りに長い時だろう。俺が同じ十年の間何をしていたか―――楽しいことも辛いこともあったが、“何もない”ことはなかった。
その“何もない”を半ば強いられてきた彼女達の心の状態は、俺が知るわけもない。
「貞淑一途なサキュバスなんて聞いたことがないが―――少なくとも、俺はお前達のような在り方が間違っているとは思わない。それも多分、お前達の持つ“愛情”の発露なんだろうしな」
「あっ―――アイジョウ!?!?」
スーは目を丸くした。紅潮した顔、唇をわなわなと震わせている。そんなに驚くことだろうか。確かに、自由だの平等だの正義だの平和だの愛情だのは、クサい演出の常套句だろうが。
「………俺は、お前達のように愛情深いヤツが嫌いじゃない。きっと、綺麗な心を持っているんだろう」
「なっ、にを――――言ってるの!? 嫌いじゃない!? 綺麗!? はぁ!? 何様よ!!」
「落ち着け。もちろん文句はあるぞ、サキュバスの発情癖なんかは―――」
「そっ、それは言わなくていいでしょ!!」
心というのは不思議なもので、それ自体が完全に独立したものではない。大なり小なり、他者の存在に依存している。それは自己という存在が鏡を通して初めて確認できるのと同じで、つまり、自己の存在を肯定するには他者の存在を必要とするのだ。
スーやサーヤは昔からの付き合い、同じ一族で、いわばもう一人の自分のようなもの。俺のような完全な部外者、つまり“他者”からすれば、十分に“身内”だ。
それでは形の上で自分達を肯定してやることはできても、そこに説得力は生まれまい。
この、純真であり健気であり、一途であり、そうしたことと同じくらい頑固だったサキュバス二人。これは………
こういうのは、報われなければならない。
「お前達が卑下するほどじゃないってことだ。むしろ、俺からしてもそういう心持ちは立派だし、好ましいもんだと思うけどな」
「―――いっ、言いたいこと言ってくれちゃって! 嫌いじゃないとか、綺麗だとか……す、好きだとかっ。な、なに、まさか………口説いてんのっ!?!?」
そうきたか。まぁ、肯定する台詞ばかりだと、そう取られてもおかしくないか。
あと「× 好き」→「〇 好ましい」だ。そこを間違うから勘違いしてんのか?
しかしながら、そんなスーの茹で蛸のように真っ赤な顔がサキュバスにしては新鮮で、しばらく見とれる。本気で恥ずかしがってるのか。
「よく生きてたな」
「……っ、は、はぁっ!? どういう意味!?」
「そのままの意味だ。今までよく耐えたよ。お前と話してみて―――お前達の想いが、朴念仁の俺にすらよく伝わって来たからな」
「…………………っ!!!!」
スーは口をパクパクとさせる。何か言いたいのに言葉が出てこない。
肯定されなかった。肯定されたことがなかった。二人だったが、孤独だった。
死んでいった身内の想いをただ胸に、霧深い谷で長い間過ごしたサキュバスの女。
俺に共感しろというのは無理だが、俺には理解してやることはできる。
そうしてやることが、少なくとも今は、コイツらの救いにはなるんだろう。
「そういえば、“なぜ”昨日だったのか聞いてなかったな」
「……え」
コイツ―――サキュバスだてらに純真無垢で貞淑一途な、スーという女。そんなヤツが、なぜ今日(日付的には昨日)、人生初の男漁りに出向いたのか。ここまでの流れで、そこに何らかの理由があるのではないかと思った。
「それは………」
言い淀む。何か言いたくない、言いにくい理由なんだろうか。
「………ぅび……から」
「は?」
「誕生日だったから!!!」
ああ、そういうことか。
「十八歳の、誕生日っ!」
「お、おう。分かったって。誕生日だったんだな」
テーブルにドンと両手をつき、こちらまで身を乗り出すスー。
同じソファで隣に座るシアがびくりと肩を震わせてこちらを見ている。
「誕生日、おめでとう」
「―――――――――え」
俺はこちらに近づいたスーの頭に手を載せた。優しく、撫でるようにする。
「つっても、昨日になるんだよな。一日遅れだし、祝いの品があるわけでもないが。そんな行きずりの男でよければ、祝わせてくれ」
「~~~~~~~~っ!!!」
「~~~~~~~~っ!!!」
こんな感じの会話の雰囲気、やり取りが少し懐かしいな―――なんて俺が和やかな思いに浸っていた時。
目の前のスーが、これまで見たことのない、険しいような、怒ったような、絶妙に微妙で複雑な表情を浮かべていた。
俺の言葉に、何か引っかかるものがあったのか、スーは首を少し引いて何かの感情を抑えた。今、何かの言葉を呑み込んだか……? 落ち着け、どうどう………
ていうか何でシアも一緒の表情をしているんだ。お前もか? 何で?
「スー、十八歳の誕生日おめでとう。俺と一歳差だったのな―――」
「――――――――き、かも」
「………なんて?」
俺に頭を撫でられるのが恥ずかしくなり、ソファに座りなおしたスー。モジ、と股を少しこすり合わせるような仕草を見せつつも、何やら俯きがちにぶつぶつと言っている。少し怖いな。
こういう時の女は、手ごわい魔物が発するものとは別種の、何だか分からないが未知の迫力ってものがある。その正体は未だに謎のままだ。
「――――――――キ」
「? 言いたいことがあるなら、悪いがもう少しはっきり―――」
蚊が遠くで飛ぶほどの小さな声。聞こえなかったので耳を傾けようと、俺はソファの上で少し身を屈めたが―――
「好きっ!!!!!!!!!」
「―――は」
ばっ、と音がして、身体にふわりとした感覚がのしかかった。
跳びつかれたと気付いたのは、一瞬後だ。
視界に桃色の長い髪が揺れる。
ソーブティーなどとは違う、何か甘い花の香りが鼻腔をくすぐる。
スーが俺に跳びついた勢いに耐えられず、俺の座っていたソファが後ろに倒れた。
殺気など微塵も感じなかった。まさか――――俺は不覚を取ったと思ったが―――それは、否。
「――――スキ、スキ、スキっ、好きっ、好き!」
「…………」
そんな言葉を耳元で連呼されていた。
肩の力がヘナヘナと抜ける感覚。駆け出しの頃以来かもしれない、こんなに身体の力が抜けるのは。
隣を見ると、ひっくり返ったソファに、俺と同じような姿勢でひっくり返ったままのシアが見えた。
「…………」
ぽかんとした表情でこちらを見るシアと、目が合う。
お互いに何が起こったか、いまいち理解できていない。
「好きっ、すん、すんすんすん、はぁ、好き………すんすんすん―――」
「こら」
「あイタっ!?」
「ニオイを嗅ぐんじゃない」
落ち着くよう促しつつ、俺はスーをどかそうと試み――――おい力強ぇな!? この世界の魔族ってなんか強くねぇ!?
「はぁ、はぁ、っ、はぁ、はぁ、すん、すんすんすん、はぁ―――っ」
俺の匂いを嗅ぎ、興奮したように呼吸を荒げ、早くなった心拍がその豊かな胸を通してこちらまで伝わってくる。
スーの挙動が危険域に突入したことを、俺の頭のどこかの何かの警報がしきりに訴えている。
「落ち着け、な? 離れろ、な?」
サキュバスの性欲が食欲などと同じようなものであるという知識はあるが、俺はサキュバスではないので本当のところは分からないし、そもそもこの世界のサキュバスを、どの程度、元の世界のサキュバスと同じく扱って良いのかも分からない。さっきも言ったが、貞淑一途なサキュバスなんて見たことがないからな。
スーは俺の胸に顔を埋めたり、俺の首筋にまで口と鼻を持ってきて匂いを嗅いでくる。胸はともかく、首筋はやめてほしい。吸血鬼を思い出す。ヤツら、面倒がって良く血の吸いだせる首筋を噛むが、時々、その首の組織を噛みちぎっている姿も見てきたから違和感が半端じゃない。吸血鬼ってのは、基本的に眷属にした人間や吸血前の人間などを盾にすることが多かった。言うなれば人質のスペシャリスト。勇者や公僕の天敵だ。
………。
「―――すっ、はぁ、ふぅ、すんすんすん、ふぅ、くんかくんか、すぅ―――」
いい感じに思考は逸れても、スーがくんかくんかと俺の身体を嗅ぐ吐息が聞こえてくることで現実に引き戻された。
「おい、そろそろ………」
どうにも好意を持たれているようなので、無理矢理引き剝がすか迷っていると―――
「お、お嬢様ッ!?!?!?」
ヤツが来た。
●●●●●
「―――コホン。それで、説明していただけますね?」
「説明もなにも………」
スーは今、二階へと上がって行った。『お手洗い』らしいが、どう考えても、ぐっしょぐしょになった下半身を拭いたり着替えたりするためだろう。当然深くは追及しない。代わりに今、俺達の向かいのソファには、彼女の従者であるサーヤが座っている次第だ。
少々気がかりなのは、俺の隣に座るシアの目が少し死んでいることくらいか。まぁ色々あって疲れただろうし、そっとしておくか。
「………あなた、さてはお嬢様の純真さに付け込んで誘惑しましたね?」
「俺がアイツを? バカも休み休み言え」
「お嬢様のあのような顔、あのような姿………ッ、は、初めて見ました。一体何をなさったのです!?」
スーという女は、ある種のフェティシズムを感じさせるかのような必死さとねちっこさで俺の身体を嗅いできたかと思えば、そのせいで濡らした股をどうにかするため離れて行った。
展開が目まぐるしいが、こうしてみると一連の出来事が生々しすぎるな。
「お嬢様に何かあったら、私は………ッ!」
ギリ、と歯を食いしばってサーヤはその先を呑み込んだ。
こちらを見て、そしてほどなく目を逸らす。
よく見ればその顔、目元には、泣いたような跡が見えた。
涙は悲しい時だけに流れるものではないが―――今さっきで何か感情の振り切れる物事を見聞きしたのだろうか。
スーを止めるタイミングも良かったしな―――
「何もなかったよ。聞いてたんだろ、さっきの話」
「―――ッ!?」
「だったら分かる筈だ」
サーヤはやはり聞いていたようだ。なら誤解の生じる余地などない筈だが―――。
「まさか、あ、あのような………ッ! 口説いているも同然じゃないですか!」
同然なのだろうか。言いがかりはやめてほしいところだ。
しかし、ここでは否定しないでおく。
「口説いていたとして、何か不都合なことでもあるのか?」
「ど、どういうことです!?」
「どうせこれから俺の精気を吸うんだ、気持ち良く吸えるに越したことはないと思うが?」
「だとしても………!」
「何しようがどうなろうが、どうせ一夜限りだ」
「あ、あなたまさかッ!?」
「スーもそれは理解している筈だ。向こうが言っていたことだ、『精気を吸ったらお役御免』ってな」
「…………ッ」
「どうした? 何か反論があるなら言ってみろ」
「だから、だからって、お嬢様の心を弄ぶような真似は許しませんよ!」
「弄ぶ? まさか。そんなことはしないさ」
どうだか、とサーヤは腕を組んだ。
「もし、もしだ。もし、そうなったとしたら―――お前がスーの代わりになるか?」
「………ッ!! あなたという人は………ッ!!」
「なんだ、代わりに相手してくれないのか?」
「分かりましたッ! 相手させていただきます!! お嬢様が弄ばれるよりは、私としても―――」
「真面目に答えなくていい。冗談だ」
「~~~~~ッ!!!」
自分で自分を抱くようにして胸を背ける。ふむ、身体だけならスーと同じようにスタイル抜群だと思う。性格で損をするタイプだ。まぁ、本人はそれでいいと言うだろうが。
「わっ、笑えない冗談です……ッ!」
「まぁそう怒るな。何も悪い話ばかりじゃない。お前がこの屋敷にある書物や、お前自身の知り得る知識を渡してくれるなら、それで用は足りるからな。俺はすぐに出て行くし、この屋敷の場所も喋らない」
「その話、信ずるに値する証拠は」
「ない。俺の誠意に期待してくれ」
「どの口が………ッ!」
俺とコイツは水と油だ。俺がコイツを揶揄っても、コイツは楽しさなど微塵も感じないだろう。そして揶揄う俺も、余り良い気分にはならなかった。
思うに、俺はコイツに対して、スーと違って頭のカタい、要領の悪いヤツというイメージを抱いているからだろう。そしておそらく、それは当たっている。
戦闘技能に至っては例外かもしれないが、その他の面で不器用そうな印象が拭えない。家の中でまで戦闘用の所作、歩き方をしているのは俺を警戒しているからだとしても、なら尚更、俺とスーとの話し合いに同席すべきだし、まして立ち聞きなど相手の不興を買うかもしれない行動は絶対に慎むべきだ。やるのだとしても、絶対にバレてはいけない。
家での普段の二人の役割や作業の分化というものを俺に見せる意味はないからな。スーの指示でもないところを見ると自然体だろうか。
「で、どうなんだ。この屋敷の蔵書は。お前の知る知識を俺にくれるのか、くれないのか」
「―――それで、お嬢様には―――!」
「一度、精気をやるだけだ。それ以外にスーをどうこうするつもりなんてない。俺は元々、知識・情報を収集したら、それが終わったタイミングで消えるつもりだった。これが俺の思惑だ。どうだ、満足か」
「……………いいでしょう」
一応ちゃんと答えると、理解したサーヤは俺の目を見て頷いた。あっさりとしたものだ。心なしか、その瞳がキラリと光っている気配がする。わずかな魔力の気配―――気配が小さすぎるから、もしかしたら種族特性や特殊スキルによるものもあり得るか。魅了でないところをみると、この場面で使うものは限られてくる。
「俺に並の魔法は効かないぞ」
「…………! わ、分かっていますッ!」
とは言いつつも、サーヤはそれをやめる気はないようだ。開き直って、光る瞳で堂々と俺の目を見つめる。何の作用があるのかは言ってくれないか。
「それにしても………知識……に、情報ですか。何についての?」
「色々だ。魔法とか、魔族とか、勇者とか、それらの文化、一般常識についても、知り得ることを」
「変わったことを知りたがるのですね………」
怪しむものの、深入りする気はないらしい。一晩だけというのは、本当に魔法の言葉だ。相手の行動を抑制させる魔力があるな。
「俺は流れ者だ。この辺の人間じゃない。もっと言えば、遠く、遠く―――とても遠いところから流れてきた。だから余りこの辺のことについては知らないんだ」
「それは―――いえ、きっと余程遠いところなのでしょうね」
「ああ。遠い」
「………分かりました。私達が谷にこもってから初めての男の来客です。お嬢様と一晩だけということですし、協力できることは協力致しましょう」
「悪いな」
「………あの」
まだ何かあるのか。俺はソファから上げかけた腰を下ろす。
「本当に―――他意はないのですよね?」
「? 他意だと?」
「………自慢ではありませんが、私達は世間知らずではあります。あなたを見ていると……随分と垢抜けていらっしゃるように見受けられました。失礼ですが、私としてはあなたが嘘をついていないという証がほしいのです」
「証………証、か」
出会い頭の戦闘で一応は力を見せたつもりだったんだがな。コイツの心は折れていないってことか。
俺が力を持ちながら、それでも力ずくでなく“話し合い”に出ていること。それで俺の人間性ってものを示すことができれば、コイツは納得するかもしれない。
余り深入りしない姿勢のようだが、ここは多少なりとも事情を共有した方がこの後の話が円滑に進む。この辺がコイツとスーの違いだろうな。決して理解した気にならない慎重さ―――根底にある、人間不信の類だ。
「なら―――コレは」
俺は手のひらを上に向けた。
なんてことはない動作。
「ま、まさかッッ!?!? そ、それは―――――!?」
しかし、そこで繰り広げられた光の劇を見て、サーヤは自身の目を疑っているようだった。
「魔力の支配!? 魔力の操作ではなく!? しかも、魔力が目に見えるなんて!?」
「見えるのは、光を発するように手を入れたからだ」
俺の手のひらでは、淡い白に輝き、自由に形を変える魔力の塊が―――それこそ、犬や猫、猪や牛に形を変え、今まさに鳥になって羽ばたこうとする、魔力の光る塊が存在していた。
シアに見せてやると、喜んで触ろうとするが……そうだろうそうだろう、触ろうとして触れるものではない。今はただの淡い光だから、指を突っ込んでも何にもならない。少し暖かく感じるだけだ。「今はただの光だ」と教えてやる。
「それ、花火だ」
「なにを――――くっ!?」
鳥の形を成した魔力塊は、手のひらから解き放たれ、リビングの天井へ近付いたところでフワリと弾け、キラキラとした光の粒子を発散し、消えた。淡い光に目を背けたサーヤと、魅入られた様に呆然と見続けたシアとで反応は対照的だったのが面白い。
光っていた粒子はやがて光を失い、無色透明の、意味のない魔力残滓になる。
「魔力ってのは目に見えないもんだ。その基本は変わらない」
この世界でも、ある程度元の世界の常識が通じることが分かる。
「詠唱もなしに………光にして、しかも様々に形を変えるなんて………!?」
「珍しいか?」
「珍しいなんてものじゃありません! それは………その力は………ッ!」
しかし、シアはともかく、サーヤの方が思っていた反応と違う。
俺を見るサーヤの目には、侮蔑とか疑念とかそんなものでなく、むしろ恐怖一色に塗りつぶされているようだった。ソファから立ち上がって歩こうとし、足をもつれさせてソファに転ぶ。
おいおい……動揺し過ぎだろ。なぜなのか聞かせろ。
「この力………なんだ?」
「それは―――――千年前に現れたという最悪の災厄たる存在、『魔神』の力ではありませんかッッ!!!」
あ、それは聞きたくなかったな。
※8/31 [主人公の誠意の証とやらについて] サーヤの疑念と主人公の方針転換についてが描写不足であると判断したため数行程度補足しました。