第21話 幸せ
「……行こう」
何も聞こえない、何も見えない暗い穴の中で、やがてCは平静を取り戻し、歩き出した。だがノエルの反応がない。
「ノエル?」
「こっち」
声のする方へ向かえば硬い物を蹴った。車椅子だった。手繰ってそのハンドルを握り、暗闇の中を感覚を頼りに歩いた。
「ここって、どこに繋がってるの?」
「天使の協力者がこの向こうにいる。そいつならワンと連絡を取る手段を持ってる」
「そうなんだ」
ノエルには驚いた様子はない。ワンが天使と通じているとは予想がついていただろう。だがその声はいつもより疲れていた。
「……」
もともと俺達は二人を見捨てようとしていた。だがあまりにも突然で、目の前で失ってしまったことで、ようやくCは自分の罪深さを思い知った。
凸凹道の上り坂で車椅子を押すのはなかなかの苦労で、途中からはノエルを背負った。
「もっとしっかり掴まってくれ」
「うん」
ぎゅっと背中に伝わる体温。
「……っ」
思っていたよりずっと楽になった。
「きっとみんなが幸せになれる世界があるよね」
「……」
ノエルは楽には生きられない。弱っているのを見ているとこちらも気分が参ってくる。
「あるに決まってるだろ。その言い方だとないと思ってるみたいだ」
「……うん、そうだね」
俺達が幸せになれる世界はきっとある。根拠はなく、目の前で悲劇が起きたばかりだというのに、それだけは間違いがないのだと確信していた。
(……俺はこんな前向きな考え方をする奴だったか?)
ふと自問する。ノエルに『変わった』と言われたが、そのとき以上に心境の変化を実感している。
生まれてからずっと天使に従い続け、つい二カ月前までも天使に抗うことなんて概念は頭の中に存在すらしていなかった。天使から逃れることなど夢にも見なかったことで、天使と戦うことは死ぬことに等しかった。
リベラに来ても戦わせようとする連中ばかりで、ここはリベラとは名ばかりの不自由な世界だったはずだ。
(いつからだ? 何があったからだ? どうして俺はこんな風に考えるようになった?)
ワンに助けられたからか? 次郎が死んだからか? 魔法を使えるからか? 134が抗ったからか? ノエルがいたからか? フィンが尊敬してくれたからか?
考えごとをしながら黙々と歩いていると、暗くて見えない足元のせいで躓いた。転びそうになったのをギリギリで堪え、再び足を前に踏み出して気付く。
(……俺は運が良かった)
全部が全部、偶然が重なった結果だったのだろう。悪魔の混血として生まれ、134が天使に抗ったのを目撃し、窮地をワンに助けられ、口うるさかった次郎が死んで、ノエルからどうしようもない人間の本性を聞かされ、フィンがあまりにもいい奴で。そんなことが蓄積した結果として今の自分が存在している。
前向きになれたのはただの幸運だった。不幸中の幸いだった。
全部のおかげで、生きることが前よりも楽になった。
「……お前は、絶対に死ぬなよ」
「……え?」
「諦めるなよ。今度は俺が、お前の代わりに戦うから」
「……っ」
耳元でノエルが息を呑んだ。
『何もできないから諦められる』
両足を失ってから、ノエルの瞳の奥に暗澹とした淀みが見え隠れするようになった。そしてそれは今、ありありと悲しみを映し出している。
「うん。ありがと」
草臥れた声音で、ノエルはぎゅっと背中を掴んだ。
ひたすら歩いていると機械類の駆動音が薄らと聞こえて来た。ほんの少しの空気の変化だが、いくらか涼しくなったように感じられた。
手のひらに小さな炎を起こしてみると、コンクリートの壁と錆びついた鉄扉が見えた。
「ここだ」
近づいてそのドアノブを捻る。
「……鍵がかかってる」
「貸して」
今度はノエルが手を出してガチャガチャと試行する。誰がやっても変わらないと思うが、そのとき鍵が外れた。
「あら、生きてたの?」
「……っ」
向こうから大天使の女が現れた。Cは不意打ちに怯みかけたが、すぐに警戒する。どうやらリベラが襲撃を受けたことは知っているらしい。
「ワンは?」「そっちのコは?」
声が被ったのを、Cは先に答えてやることにする。
「ノエルだ」
「ふーん。アナタが…。可愛い」
天使は愉快そうに目を細める。背中のノエルは無反応だった。
「ワン達は今どこにいる?」
「じきに登って来るわよ。ワタシに相談しないとアナタ達は何もできないもの」
「無事なのか?」
「ワンはね。でも殆どのリベラのコ達は天使に捕まって、楯突いたメイちゃんは殺されたわ。もう台無し」
アナスターシャは肩を竦める。その軽いノリがこの大天使を信用しきれない理由だった。
「確認させてくれ」
「え? 嫌よ?」
おちょくるような反射的な否定だが、Cはそれにわざわざ取り合う必要がないことは心得ていた。
「お前が差し向けたんじゃないだろうな」
決して嘘を言わせないように、嘘に惑わされないように大天使を見据える。あのとき嗤って誤魔化されたことが、Cの中でずっと引っかかっていた。大天使への疑心を晴らさなければ、先のことを考えられない。
大天使は口の端を上げた。
「最初から言っているでしょう? アナタ達は大切な存在なのよ?」
「神に誓うか?」
「……」
大天使は口端を下げ、すっと目を細めた。先ほどまでの余裕に満ちた歪んだ笑みはどこへやら、本気の蔑みを浮かべた冷徹な目をする。
「神に、誓うか?」
神とは、天使が崇める存在のことだ。天使の国の絶対の法、『聖典』を規定しているのも『神』とされている。『神に誓う』とは、天使の間ではしばしば使われる言葉ではあるが、
「ねえ、シー。疲れたから、おろして」
大天使の肝心な返答をノエルが遮っていた。確かに、ノエルはずっとしがみついていなければならなかったのは大きな負担だっただろう。こっちも人一人背負って長い坂道を歩き続けたから非常に疲れている。
だがこのタイミングで言い出したのは、明確に遮る意図が感じられた。
「地面でいいよ」
見た所この部屋に座れるところはない、ノエルを硬いリノリウムの床に座らせた。
「……それで、……喉が渇いた、何かないのか」
Cが話を変えると、天使は何事もなかったように、ただ愉快そうに口元を弓なりに歪めた。
「唾液でも飲めば?」
「……」
「ぷっ、冗談。水道水くらいならアナタ達にも入れてきてあげる」
そうして天使は部屋を出て行った。念入りに鍵まで閉める。ノエルが口を開いた。
「あんな協力的な天使、始めて見た。態度は悪いけど」
「そうだな」
「99%信じてもいいと思う。大天使がもし裏切っていればただじゃ済まないし、潔癖の天使が地下にノエル達を放しておくとは考えられない。でも天使がメイと協力してるって言うのは、プライドがあるんだと思う。まして神様を出されちゃ、そう簡単には頷けない」
ノエルの言うことは妥当だ。だが、
「その1%が問題なんだ。俺達には考え付かないような、悪質な何かが隠されているかも知れない。……確証が、欲しい」
「あの天使の不興は買わない方がいいって思ったの。もし彼女の意思でリベラが作られたなら、生殺与奪は彼女が握ってる。もし大天使よりも高い階級の意思でリベラが作られたなら、彼女の不興は関係なく殺されるけど、99%信じられるなら、協力できる間柄になってた方がいいでしょ」
「……そうかもな」
ノエルの屁理屈だったが、それを聞くことができたのは不思議と嫌ではなかった。どちらが正しいということもないが、ノエルの言うことも一理ある。
「それに天使を信じきるよりも、少しでも疑っているべきだよ。彼女も気付かないうちに間違った情報を渡してくることもあるんだし」
「……」
それに関しては何も反論できなかった。今回天使に襲撃されたのは、主天使ザドキエルの能力に関しての情報が足りず、勝算を見誤ったためだったのだから。情報不足に気付かないまま行動に移し、結果フィンとイルゼと、それ以上の犠牲を生んだ。
すると鍵を開き、大天使が戻って来た。
「はい、水」
「助かる」
二つのコップを受け取って、一つをノエルへと手渡した。毒見も兼ねて一口舐めると何の変哲もない水道水だった。思えば水道水を飲むのは二カ月ぶりだった。
「ところで、アナタ達はどうして助かったの?」
冷やかしや面白半分で聞かれているように思えて答えるのは嫌だったが、情報共有はする必要がある。
「俺達は、フィンとイルゼと一緒にいた。二人がここまで来る道を開いて、閉じた。お前は事前に察知できなかったのか」
「出来てたら伝えてたわよ。残念だけどワタシのところに情報が来るまでは時間がかかるの。でもまあ恐らく今までのボヤには反応していなかった座天使のラファエル様が動き出したのよ」
「……っ」
座天使とは天使の九つの階級の中で三番目に高い階級だ。よほどのことがなければその名を聞くこともない殆ど伝説上の存在で、Cは身を固くする。大天使は首を振った。
「まあいいわ。それよりどうしてロレンツィオ君とゴンザロ君が反応できなかったのかしら? そっちの方が問題よ」
座天使が出張ってきたことは、話題を変えるにはあまりに大きな問題に過ぎる。だが、リベラを防衛していたはずの森人と土人が全く対処できなかったことも確かにおかしい。
「ま、何も知らないCに聞いても仕方ないけど」
大天使は嘲笑する。
「ワンと通信したんじゃないのか?」
「したわよ。でもあんまり大事なコトは直接話した方がいいもの。盗聴されればそれこそ終わりよ」
「……はあ、そうか」
Cは渋々納得する。一刻も早くリベラに何が起きたのかを知り、その原因を取り除くべく次の行動に移さなければならないのだ。
しばらく座り込んで体を休めていると、バンバンと鉄扉を叩く音がしてドアは乱暴に開かれた。
「C! ノエル!」
優男の顔立ちを泣きそうに歪めたワンがいた。その大声にノエルも目を覚ます。
「どっちも無事だ」
「……っ、そうか、良かった…!」
寝ぼけ眼のノエルの分まで答えると、ワンは安堵して、感極まったように顔を伏せた。そして気付いたように顔を上げて、希望に縋るように再び問う。
「フィンとイルゼは…?」
「俺達の代わりに、死んだか捕まっただけかは分からない」
「……⁉」
Cも未だかつて見たことのないほどワンは打ちのめされた表情をしている。
『安心しろ! 俺が二人を守る! リベラが二人を守る! 絶対に死なせない!』
ワンは二人どころか、リベラすら守れなかった。しばらく顔を伏せたまま、動かない。頼もしいはずの背中も途方もなく哀れで、Cもノエルも言葉を発さない。だが、
「ワン、まだ悔やむ時間はないわ。何があったのか話しなさい」
容赦のない言葉だが、ワンは訥々と語り出す。
「単純に、物量に押し切られた。それだけだ」
酷く沈鬱に喉を震わせる。
「襲撃はリベラの各方向、五箇所から行われた。ロレンツィオからそう報告を受けた。ゴンザロは対処にあたったが手が回らなかった」
五箇所からの襲撃、それは天使の作戦が用意周到だったということだ。
「事前に固めていた防壁でも襲撃を止めることはできなかった。避難は間に合わず、沢山の仲間が天使に捕縛された。ミアやロビンを始めとする訓練生達が勇敢に戦ったが、抵抗した者は殺されてしまった」
「へえ、そういうこと」
大天使はワンの懺悔を意に介さず納得して頷く。
「ミアが、死んだの…?」
ノエルが目を見開いて硬直していた。ワンはほんの少し顔を上げて前髪の隙間からノエルを見ると、決壊した。
「ああ! 死なせてしまったとも…! ミアは、仲間をかばって死んだ…! 俺が…」
涙交じりに吐き出して、肩を小刻みに震わせる。
「俺が不甲斐ないばかりに!」
顔を手で覆い、慟哭する。
「ワン」
アナスターシャが鋭く刺すように、名前を呼んだ。ワンの方はぴくりと反応し、震えが止まった。
「アナタはいつ、ワタシの失敗の責任まで負うほど偉くなったのかしら?」
アナスターシャは冷ややかにワンを見下ろしていたが、Cの目にはどうしてかワンを励ましているように映ってしまった。と思えばしかし、両者ともそれ以上言葉を次ぐことなく、ワンが涙の始末をするだけだった。
「すまない、もう大丈夫だ」
「……っ」
ワンは毅然と立ち上がった。先ほどまでの哀れで小さく見えた背中は、虚勢に過ぎないはずだが大きくなった。アナスターシャは調子を変えず問う。
「じゃあ早速だけど、リベラの現状を話して」
「……ああ。ヨウは俺とゴンザロとCと、ノエル。運よく逃げられたメイは、……十人だ。その中で戦える者は一人もいない」
「なっ、ロレンツィオは⁉」
ワンは一瞬だけ眼光を鋭くしてから首を振った。
「まじか…」
あそこまで魔術に熟達した森人ですら、こんなにあっけない死を遂げるとは。
それにリベラには百人以上いたはずだ。それがたったの十人しか生き延びることができなかったとは信じ難い。
「ふうん、それなら一番生存確率が高いのは一か八かこの都市を抜け出すコト、かしら」
「……詳しく聞こう」
「時間が経てば経つほどリベラは不利になるじゃない。ワンは死ぬし、天使はますます対策を強める。実際、土人の奴隷を使って穴掘りを始めてるようね。それにしばらくは能力を持つ人間の獲得も期待できない。リベラによる被害が大きくなったせいで天使も自分の財産が盗まれるのを心配してどんどんちゃんと囲うようになってるの」
「捕まった仲間を取り戻して、新しい仲間も加わって、新しいリベラでも上手く――」
「上手くやっていけないわ。今のリベラが最強よ。アナタより強い奴隷なんてよっぽどのことがなければ現れないし、アナタ程度に役に立つには少なくとも八種族のいずれか五人は欲しいところね」
天使は考えを淡々と語り、足を組み替える。
「つまりこれからリベラが良くなる未来はこれっぽっちも考えられないってコト」
「ロレンツィオがいない状態で、俺達が先に進むことは難しい」
「それこそ地下生活が難しいじゃない。どこから水を入手するの?」
「新しく森人を仲間にすれば――」
「リベラを立ち上げてからそんなことなんてできなかったでしょう。無理なの。森人も土人も貴重なんだから」
アナスターシャもワンも考えることは同じだった。一方は受け入れて、一方は抗っている。
「無能のメイちゃんも数が減ったんだから今がチャンスよ」
「いや待て。壁の天使はどうする? あいつも主天使だぞ⁉」
主天使ザドキエルに嚙みついて痛い目を見たのが現状だ。壁を超えるというのはつまり、今回と同じように主天使に挑むことに等しい。
「このまま燻って死ぬのとどっちがいいのかしら?」
「だからって勝算もなければやってられないだろ!」
「ないこともないわ。ねえ、ワン」
「……」
ワンは何も答えない。
「おい、ワン…?」
様子がおかしいことに気付く。ワンは俯いたまま不自然に小刻みに震えていた。
ノエルが問う。
「ワン、泣いてるの?」
「泣いて…?」
よくよく見やれば嗚咽しているようにもとれる。寝転がっているノエルの位置からはもっとしっかり顔が見えるはずだ。
「……行こう」
ワンは歯を食いしばって、震える拳を握りしめた。
「残された仲間と、遠く離れたところに逃げよう」
「……っ」
アナスターシャからの説明を聞いた帰り道、誰も言葉を発する気力もなく沈黙のなかを歩く。行きとは違い、ワンがライトで暗闇の先を照らしているはずだというのに耳鳴りがする。
ノエルを背負って歩くのは尋常じゃなく疲れるが、ノエルの指名だった。限界が来る前にワンに代わってもらいたいが、それ以上にワンの精神的な疲労が嫌な程伝わってくる。
「ワン、お前が死んだらその眼は俺でも使えるのか?」
「……この眼は人の在り方を歪ませる代物だ。普通の人生が送れなくなる。俺は…」
消沈した声音だった。
「本当は俺は、リーダーなんて柄じゃなかった。アナに出会ったときはどうして俺がって思ったさ。内気で泣き虫で、希望がない世界だった。だからこの眼に適合したときもひたすら泣いた。俺は、死にたくない。普通の人生が送りたかった」
「?」
「殺伐とした蔑み合いの世界から逃れて、仲間と切磋琢磨して、仕事に就いて、美味い飯を食べて、柔らかいベッドで寝たい。そうだな、幸せな家庭を築きたい。俺の生まれはどうにもならないからせめて、俺が幸せな世界を作ってやりたかった」
その声音は僅かに明るくなった。気のせいかも知れないようなほんの少しの変化だが。
「……っ」
どうにもならないことを考えるなら、嫌なことより楽しいことの方がいい。本当にそうなんだろう。ワンは自分の心を守るために理想を語っていた、憐れむべき理想論者だ。
こいつはもうすぐ死ぬ。
「安心しろよ。俺達がお前の分まで幸せになってやるから」
「C…」
ワンは呆けたように名前を呟いた。
「言い方」
ノエルが耳元で釘を刺す。そりゃあそうだろう。俺だったら他人の幸せよりも自分の幸せの方が何万倍も大事だ。こんな風に言われるのは嫌だ。
だが、ワンは破顔した。
「C、ありがとう…!」
噛み締めるように感謝した。ライトの光を反射して瞳が煌めいた。




