第1話 収容所
青年は目を覚ました。六畳の部屋の中に二段ベッドが二つとかなり狭い部屋のレイアウトで、下のベッドには誰もいないからこの室内には三人寝ていることになる。他二人は未だ寝息を立てるなか、青年は個体識別番号表を首からぶら下げて部屋を出た。そのカードには『C』と書いてあった。
「ふわあ~」
気分はいつも通り最悪だ。できることなら時間いっぱい寝て、夢の世界に意識を閉じ込めておきたい。けれど一度目が覚めてしまってはそうもいかないのだ。これから始まる地獄のような一日に否が応でも気持ちが引っ張られて、二度寝なんてできるはずもない。代わりに顔を洗いに行くと、
「よ」
「おお。よお」
洗面台が空くのを待っていたらしい個体識別番号134が陽気に左手を挙げた。右手は肘から先がない。そんな134はCにとってこの施設で一番長い付き合いで、
「今日は特に顔色悪いなお前。土でも食ってんのか?」
「お前が血色良すぎるんだよ。人間の食い過ぎだ」
悪態を吐きつつも、二人ともニヤリと笑い合っている。134はいくつか抜歯されていて、不自然な歯の隙間が不格好だ。
「いやいやあれも慣れれば悪くないぞ。ゴキブリよか美味い」
あまりの神経の図太さに、Cは呆れるしかない。確かに生きたゴキブリを口の中にねじ込まれるのは最悪の気分だが、まともな精神じゃ人は人を食えない。
しかし134はまともでなく、ここもまともな場所じゃない。だから134は例え明日は我が身だろうといくらでも人の命を軽視する。
一方でCはまだまともな人間だからこそ、一向に寝不足で顔色も悪いままだ。
「お前みたいなやつに限って死なないんだよな」
「まあな。今日は誰が死ぬんだろうな」
134は楽しみにしているように後ろ手を組みながら言った。
Cは134とはもうすぐ五年の付き合いになる。この施設にやってくる半数は半年もすればいつの間にかいなくなっていて、もう半数も一年経てば消えている。二年生きられれば運がいい方だが、その中で五年という記録はメイとしては最長だろう。
134は『大天使』から愛されている。それは天使のエンターテインメントでも134が異色の図太さを見せて観客を沸かせているからだった。
134は例え同族であっても情け容赦なく殺し、自ら進んでその血肉を食らう。まさに134は殺されるべき人間だが、それゆえに殺されない。この天使の世界で生きるすべを見出している唯一のメイだ。
決してCの価値観とは相容れない相手のはずだが、残り物同士という腐れ縁からか自然と話すようになっていて、昔は気に入らなかった134の傲慢さも、長い付き合いで自分のいる世界とは別の思考として処理できるようになっていたから、生理的に受け付けなくとも憤りはなくなっていた。
それどころかこの施設で唯一友人と呼べる存在とすら思っている。
「お前の悪運も今日までかもな」
Cは次誰が死ぬかということに関心はなかった。自分は悪魔の混血として天使にとってそこそこ貴重なサンプルで、簡単には殺されないのを知っていた。それに、誰が死ぬかは全てあの『大天使』の気分次第で、考えるだけ無駄だ。
それよりもCにとっては定期的な人体実験が今日に予定されていることが問題だった。悪魔の混血は天使にとっては恰好の実験サンプルだ。腕や体の端を切断されるのは当たり前で、最近効きの悪い麻酔を打たれると吐き気を催すし、何より麻酔が切れると地獄を味わうことになる。体中が痺れてろくに動けず、麻酔時とは比にならない過酷な吐き気に襲われ、切断された部位は例え元に戻されていたとしてもこの世のものとは思えない激痛を訴えてくる。
Cは二週間前、前回味わった痛みを思い出してしまい、即座に頭を振った。なるべく考えないようにしないと心も体も持たない。
(痛みを思い出さないように、誰が殺されるかを楽しみにしておかないと)
なるべく他のことを考えるように自分に言い聞かせる。
「あの、誰が、その、殺されるんですか…?」
すると小さな声が聞こえた。見ればまだ年端もいかない少女が、自信なさげに縮こまっている。毎週日曜日、この日は大抵誰か死ぬものと決まっているのだ。
134は目線の高さを同じにして、優しい声で諭すように言う。
「そりゃあ分からん。くじ引きかも知れないし、指名かも知れない。なんにせよ嬢ちゃんはまだ死なねえさ。女の子はもうちょっと大きくなるまで生きられる」
「そ、そうなんですか…?」
その女児は僅かに顔を上げた。まだここに来たばかりなのだろう。その目には微かな希望が芽生えていた。
「ああ。まあ俺の知り合いは大きくなるまでに全身で寄生虫を育てたり、動物に喰われたり、犯されたりしてたけどな。生きるより死んだ方がましだ」
「ひっ――⁉」
この年齢の少女には非情な事実だが、希望を持って生きる方がよっぽどつらい。幼女は言葉もなく泣き出してしまった。そして134は自分で泣かせておいて、その少女の頭の上にぽんと手を置いて慰める。相変わらず何を考えているか分からない男だが、Cには一つ意外に思うことがあった。
「お前でも、死んだ方がましとか思うんだな」
「思ったこともあるってだけで今はそうでもない。どこも痛くないからな」
そういえば確かに最近の134は身体的苦痛を味わう側より、味わわせる側だ。同族に殺されるより同族を殺す方を選ぶ。体の痛みも、心の痛みも感じないのだろう。強がりではなく本心から、痛みを忘れてしまったのだろう。
Cは134を憐れんだ。
「痛いときは、俺が殺してやるよ」
すると134はけらけらと笑った。
「頼む、と言いたいところだけどお前、殺す『力』は使えないだろ」
「……まあな」
とそこへ、泣いている少女が訊ねる。
「あ、あの、Cさんって…」
「おう、こいつ悪魔」
134が勝手に答えた。
「四分の一な」
「四分の一?」
「じいちゃんが一人『悪魔』らしいんだ」
「あ、悪魔…!」
恍惚と言う少女はまたもや濡れた目を純粋に輝かせていた。この反応は初めてではなかったから、Cはくぎを刺しておく。
「悪魔って言っても俺は殆ど能力は使えない。せいぜい体が普通のメイより頑丈なだけだ」
『無能力』の『メイ』と殆ど変わらないのだ。
「で、でも、悪魔なら天使を――」「悪魔は正義の味方でも何でもない」
「えっ…」
よくある間違いで、ここに来たばかりの子供達は残酷な天使のことしか知らないから、天使と対をなす悪魔はメイに優しい種族と勘違いしてしまうことがある。
「悪魔は天使と同じくらいたちが悪い。メイのことをゴミとしか思っていない。俺が唯一使える能力もお前達メイを支配するためだけのものだ」
それはメイを言いなりにさせる能力だ。天使の世界では見世物としてしか使い道がない。
「昔はここに他の悪魔がいたけどな、そいつはメイを容赦なく殺しまくった。そんなもんなんだよ」
昔は自分自身悪魔であることに希望を抱いたりもした。悪魔は良い奴なんじゃないかと思ったりもした。けれど全くそんなことはなくて、悪魔という種族は本質的に天使と何一つ変わらないのだ。
「天使も悪魔も、メイにとって憎むべき敵なんだよ…!」
Cの激情を前に、少女は再びしくしくと泣き出してしまった。しまった、やり過ぎたと思ったときにはもう遅かった。誰かに身勝手に期待されることが腹立たしかったのだ。
134は興味を失ったように少女の頭から手を離し、にかっと笑った。
「腹減ったし飯食いに行こうぜ」
「……ああ」
一人泣く女児を背に、二人は食堂へと向かった。
キッチンには男のメイがいる。天使がわざわざメイのために飯など振る舞うはずもなく、適当に仕入れた安い食材をあのコックの男が調理するのだ。
頬は痩せこけ、背はひょろ長く、いつも同じ麻の服を着ていて、いつも黙々と料理を作る。天使に生かされている最年長で、歳は40だと噂で聞いた。本人は喉が潰れているから喋れない。個体識別番号も誰も知らない。
二人は食事を受け取ると、適当な机について口に運んだ。ショーでは時々人肉を調理してくれるその腕前だが、今はただのパンと豆のスープを出していて普通に美味しい。
134は左手でスプーンを持ち、慣れた手つきでスープをすくって淡々と口に運ぶ。元々右利きだったのを、数年前に右腕を自ら生食してしまったから今は左で生活している。自分の腕を切り落として食らうなんて芸当をして見せたのは異常としか言いようがない。
これから先のことはなるべく考えないようにして、Cは黙々とパンを噛んでは流し込む作業を続ける。頭の奥で鳴り響く警鐘を抑え込むのは骨が折れるものだ。
ただ、そんなときにもここには面白い人物がいて話題には困らない。
「ああ…、ああ、ああああ」
ただひたすら唸り、スープを飲むこともままならず座っている男がいた。
「54は今日もヤバいな」
「先週は盛り上がったらしい」
54番の顔は傷だらけで、あちこちに痣がある。54も聞こえるような声量でCは思ったことを口に出した。どうせ聞こえたところで言語をろくに理解できる頭は持ってはいない。
「薬漬けは嫌だなぁ」
「お前ならあり得るぞ。殺さない代わりに実験とか言われて」
134は楽しそうに言った。
「勘弁してくれ」
天使達はそうして苦しむメイの映像を配信して楽しんでいるのだと言う。姿形はメイと大差ないというのにそんな非道な行いができるのは、天使はメイを『人間』とはかけ離れたとして見ているかららしい。
肌の色の違いと能力の有無だけで、だ。
天使はメイを支配するための種族とよく言ったもので、支配しようと、蹂躙しようと意志を持ってするのではなく、等しく本能的にメイを虐げようとする。
そして今日も虫けら以下のメイが見世物として殺される。痛覚があってもいくら痛哭に叫んでもどんな天使もそれを滑稽なものだと笑う。
決して逃げられはしない生き地獄だ。
この天使の国は『シリジーナ』と言い、面積もかなり広く国土は半径約2000キロ、メイの国の正反対にある。特にここはその中心部で、首都の半径50キロは城壁までずっと栄えた街並みが続いていて、どこもかしこも人口密度が高く天使だらけだ。
いくら逃げてもひとたび散歩でもしている天使に見つかってしまえば殺されるか、飼われるか。野に放たれているメイがいれば、それを見つけた天使に所有権も処分権も移る。
よしんば遠くに行けたとしても聳え立つ壁を超えることなどできない。冷戦中の天使の国のセキュリティは非常に厳重で、決められた場所以外からは人や物は出入りすることができない。
というかそもそもこの収容所の敷地から外には絶対に出られない。だからここでは死んだ方がましだと思った奴らは自殺し、自殺できない奴らは痛みを忘れて生きるしかない。
「おかしい! おかしいおかしいおかしいおかしいおかしい⁉」
入口の方で誰かが狂ったように叫んだ。聞き覚えのある声にCが振り返るとそこには見覚えのある女がいた。おそらく98番だろう。この施設では比較的に古参の女で、いちいち施設のメイの番号を憶えてはないないCでも顔と名前が一致する女だ。
おそらく、というのは、その言動がCの知るものと異なっていたからだ。
「……あいつどうしたんだ?」
Cの記憶だと98はプライドの高い女だったように思う。意地汚く生きることに執着し、馬鹿な男を惑わしては自分のために死なせるような女だ。プライドが高いからこそ見世物として優秀なために生かされている女だ。
だがそんな98も今は長い髪を振り乱し、襤褸を纏っているが裸同然、その豊満な胸を惜しがる余裕もなく晒して発狂していた。
「知らん。脳でもいじられたんじゃね? 前から脱走計画立ててたからそれじゃないか?」
事情は知らないがついに98も死ぬのだろうなとCは感慨を覚えた。番号が若いほど昔から施設にいたメイで、二桁のメイなどもう殆どいない。覚えている限り54と98を含めてあと四人、そいつらとは134よりも長い付き合いだから思うところもあった。
ここまで生き延びたということは全員クズだ。そんなクズ共が死ぬことに関しては一向に構わないのだが着実に自分の死期も迫っているのだなと考えてしまう。
ちなみに頭がおかしくなるには二種類の原因があり、一つは54のように薬で、もう一つは人体実験による脳の改造の失敗だ。改造が成功すれば最高にイカしたメイが完成する。成功例だった奴は突然死したが、痛みを感じなくなって、恐怖も克服して、気分が高揚するのだとか。
つまり薬も改造も結果としてはあまり変わらない。
「おか、おか、おかかかか、おかかかかかかかかかかか」
何か探しているのだろうか、食堂にやってきた98は一しきり歩き回るとまたどこかへ行ってしまった。Cも134もぽかんとするしかない。
何がおかしいのか、考えれば枚挙にいとまがないし、そもそもここにおかしくない奴なんていない。
「お前、頭がおかしいってよ」
134はそんな胸糞の悪い光景を目にしても楽しそうに茶化した。
「お前のことだろサイコ野郎」
冗談めかしてはいるものの、Cは本心として134のそのメンタルほど異常なものはないと思っている。誰に何があっても次の日には変わらずけろっとしていて、こんな異常な生活に慣れきってへらへらと笑ってる時点で頭のねじが外れている。
Cは相手の目を見ればその人がどんな人間か分かるものだと考えている。例えばここで笑顔を見せるメイは大抵目が死んでいて性格がクズだ。目の前の相手を蹴落として出し抜こうとしているときも目を見れば分かる。
嗜虐的な笑顔を浮かべる天使は絶対に目も笑っていて性格がクズだ。どのメイを標的にして虐めようとしているかも目を見れば分かる。
だが、134は笑顔を見せるときはその目も本当に楽しそうに笑うのだ。メイのクズとも天使のクズとも異なっていて、相手を虐げようとする目を見せない。
そんな純粋無垢な笑顔でメイを殺して食らう。
ただ、そんな風に異常者と思っている相手のはずなのに軽口を言い合うのはなんだか面白くて、目が合うって笑ってしまった。互いにひいひいとひとしきり腹を抱えたあと、食事を終えた二人は、
「じゃ、行くか」
「おう」
席を立った二人は食器を片付けてから別棟に向かった。