第14話 勇気
「ワン! てめえ隠してやがんな!」
土人が吠えた。悪魔のクオーターの少年はピクリとも動かない。
「それが、俺は何も隠していないんだ。今調べている最中だが、悪魔に関する情報は少ない」
ワンの表情は晴れない。腰を抜かした訓練生達はへたり込む。
「ありゃあただの『預言』じゃねえぞ!」
「悪魔の能力は『甘言』と言うべきだ。訴えかける心理現象も厳密には異なる」
「御託はいらねえ! さっさと調べろ!」
「そのつもりだ。だが、どうだった? Cは悪い奴じゃない。万が一があっても悪いようにはしないだろう」
「ああ認めてやる! あいつは使えるぞ!」
土人は肩を怒らせて帰って行った。ワンがゴンザロの魔術で気絶したCを介抱しようとしたとき、
「ワン、待って」
呼び止めたのはミアだった。
* * *
Cはじんじんと刺激する頭の痛みで目を覚ました。
(……土人に意識を飛ばされたのか)
状況を思い出してから身を起こすと、
「おはよ」
陽気な声のする方を見れば半身ほど離れた場所でノエルがにぱっと笑った。
「おい、ここって…」
「ノエルの部屋。ゴンザロに頭ぶん殴られて気絶しちゃったんだって」
何がどうなってこんなところに運ばれたのか。
「悪魔の本能が暴走したんだと思うよ。あの人もたまにそんなことがあったから」
あの人とは、ノエルが自分と同一視している悪魔の混血の話だろう。
「本能…」
Cは言葉を繰り返す。本能という言葉がしっくり来てしまった。
「本能って何だよ」
手を開いて、閉じて、あの時の感触を思い出す。快感だった。思っていたよりも力を使うのは気分が良いものだった。今まで散々蔑んできた奴が驚愕したのが、恐怖したのが気持ち良かった。だが、自分が本能なんてものに支配されていたと思うと気分が悪かった。
ノエルはあっけらかんと言ってみせた。
「天使と同じだよ」
「……っ」
「本能でメイを虐めたくなったんでしょ。悪魔も天使も本質的には同じだもん」
天使とメイが、見下してくるあいつらが同じということには同意する。
(俺も、同じなのか…⁉)
Cはノエルの元へ詰め寄ったが、相手は怪我人だった。
「……お前の悪魔は、どうやって力を使ってたんだよ」
「戦う相手は天使だから大丈夫だと思うよ。シーはあそこにいたメイ達を意識し過ぎてただけ。普通にしてたら困ることはないよ」
ノエルにはからかう様子はないが、自分が小さい人間だと言われているような気がして嫌だった。本能なんてものに支配されていれば奴らと同じになってしまう。
(……絶対にあんな奴らにはなりたくない)
「嗜虐本能があるのはメイだってそうだよ。誰だって虐めるのは楽しいし、滑稽に思えば笑うでしょ。シーはここに来て最初のうちは誰からも白い目向けられてたし」
「……」
「でもそういうことする人って自分がしてることに気付かない人ばかりだから、自分が嫌だって気付いたシーなら大丈夫だと思うよ」
「……?」
慰めようとしているのかと思えば、
「そういう生き方は楽じゃないけど」
「……」
ノエルのそういうところがネガティブなんだと思う。『本能』という一言で終わらせてしまうから悲しくなる。
きっと皆自分のために生きているだけなんだろう。その結果がこの終わらない戦いだった。
「それで、結局どうなったんだ。ワン達はどうすることにしたんだ」
「やるって」
「……そうか」
「森で待ってるって」
部屋の外を照らす光の強さから推測するに、昼を過ぎて夕刻に差し掛かっている頃だろう。かなりの間意識が沈んでいたようだ。長居する理由はない。
「そうか、じゃ」
「ちょっと待って」
「?」
呼び止めたノエルはしかし、大きな黒瞳でじっとこちらを見たまま、言葉を選んでいるのか何も言わない。
「……ううん、何でもない」
消え入るように薄い唇を動かした。
「どっちだよ…」
坂を上る。窮屈な土穴の中では、先頭を歩く土人が持つ灯りが目印だった。後の道も先の道も暗くて見えず、どこに進んでいるかも分からない。一本道だから迷うことはなかったが、リベラがどの方向にあるのかは既に分からなくなってしまった。ただ転ばないように足元を注意するしかない。
時刻は深夜。外からの光の一切を遮断する穴の中では、昼夜など分かるはずもない。
誰も喋ることはない。次郎がいればやかましかったかも知れないと、リベラに来た日のことを思い出す。ただ息を切らす呼吸音だけが聞こえてくる。歩き続けて何時間経ったろうか、疲労の蓄積は厄介だった。
「……」
本当は少し帰りたくなってきている。天使が悪辣な存在であることには疑いようはないが、思えば自分は収容所にいた大天使以上の階級の天使を直接見たことがない。
見たことがないから怖い、Cはそんな本能に打ち勝つべく登っていた。
(死にたくないな…)
作戦概要はワン達五人と練りに練った。浮上地点と潜土地点は複数地点に決めてあって、建物内の構造も完全に頭に入れてある。どうせ感知システムには引っかかるからスピード勝負だ。奴らは上質なセキュリティを有してはいるが常駐している天使は四人、管轄のザドキエルはいない。
ワンは地上に帰還するときに秘密を話すと言った。だがこのときCはワンの話の根拠はあまり気にならなくなっていた。
本能に負けないように、今までの自分という殻を破るために、こんな異常な行動を取っているのだ。
「はあ、はあ、はあ」
想定外のことが起きてもよほどのことがない限りは死にはしない。だが、よほどのことでも起こり得るから気が抜けない。
怖いけれど、地上へと向かう足は止めてはならなかった。
リベラを出立する前に、ノエルと言葉を交わしていた。
「死なないでね」
最初の一言はそれだった。何も返さないでいると、彼女はその真剣な表情を崩した。
「どうして戦う気になったの?」
透明感のある肌はほんのりと紅潮していた。居心地が悪かった。
「どうして来てくれたの?」
暇だから。それだけだ。
時間になって広場の方へ向かうとワン達は大勢から見送りを受けていた。
「C」
振り向けば唇が厚くて間抜けそうな、親しみやすい顔つきをした男がいた。ユーゴはニヤニヤと笑っているが、意地の悪さはない。
「意外だったよ。ひと月も経ってないうちに収穫なんてさ」
上手いことを言っているつもりらしい。とは言えユーゴには世話になったのは確かで、その明るさの裏に複雑な思慮が隠れていることも知った。
何しに来たんだと聞く。
「ただの見送りだって。期待しないで待つって言いに来ただけだ」
「頑張って!」「ありがとう!」「絶対に帰って来てね!」
自分がこんな熱烈な見送りを受ける方になるとは思わなかった。俺は俺がしたいと思ったことをしているだけで、感謝される筋合いはない。ロビンも最後まで声を張っていた。
「C、期待してるわ」
カミラが手を振る。別に期待していようと期待していまいと構わない。自分が決めた行動を誰かに押し付けることはしたくない。
足を持ち上げ、地面を踏みしめ、登る、登る、登る。
「地下十メートル」
森人が言った。その地上が近いという合図で、全員通信機を耳に装着する。
本能ってやつはたちが悪い。当たり前のようにそこにいて、誰も疑問に思うことがない。確かにそこにいるはずなのに、いることに気付いてすらいない。みんな自分が本能と衝動に支配されていることを知らなかった。
自分一人の直情的な本能に従うだけでは誰も幸せになれないことを知らなかった。次郎も、ロビンも、天使も、ノエルも、俺も、幸せにはなれなかった。
やがて土人が足を止めて明かりを消すと、その頭上は開かれ、先から微かな光が入り込んだ。ワンが先陣を切って全く音を立てることなく足を忍ばせる。ミア、Cと続いた。穴が塞がれると最後まで地下に残っていた森人と土人の姿は見えなくなった。
森人は地上に向かうまでの索敵要員で、戦うことはない。魔術の気配を感じることに長けた種族だからだ。土人もその図体の通り機動力に欠けるため、地上へ出ることはなかった。
「……」
静かだ。蛍光灯の不安定な光がずっと奥までリノリウムを照らす。館内図は一応頭に入れている。まともな建築物なんてものを見るのが久しぶりで、そう遠くない過去の情景を思い出して気分が悪くなる。
(本当に地上に出てきたんだな…)
足音を消して壁を伝うようにしてワンとミアに続く。目の前を歩くミアはゴーグルとナイフを装備していた。弓は狭い場所には向かないと判断したものだった。
各々武具が音を鳴らさないように注意しながら歩く。Cは何も装備していない。まともな装備なんてしていたら隠密行動なんてできない。今着ている服には一応防刃効果があるらしいが天使は刃を使わないからただの気休めだった。
いつどこから天使が現れるか分からない。見つからないように、遭遇しないように徹底する。否でも激しくなる鼓動を必死に落ち着かせる。そうしないと手が震えて頭がおかしくなりそうだった。
下手に動き回れば監視カメラに補足されてしまうだろう。動線は最短に、慎重に進む。
いくつかの部屋を通り過ぎる。見たところ物置だったが、やがて風合いの異なる一つの部屋の前でワンが足を止めた。
「……」
通路に面している部分はガラスの張られており、そこにいる何かを監視するための部屋だとは分かった。しかしそこには誰の姿も見当たらない。何か物々しい機械が設置されているがそれが何のためのものか皆目見当がつかない。
ワンが首を振り、他の部屋へ向かうことにした。今いる地下の五階はおよそ見回り、次に地下の四階を目指す。とそのとき、ワンが突然進路を変えた。
「……っ⁉」
足早に階段とは逆方向に曲がる。心臓が跳ねた。
「どうした…⁉」
「天使の足音がした」
「……っ」
獣人のワンは五感が鋭い。魔眼の力とも言っていた。Cはその事実をしっかりと認めて、なんとか自分を落ち着かせる。
天使は耳が良いわけでも鼻が利くわけでもないから気付いてはいないだろうが、こんな夜中に見回りをするくらいにここが重大な機密を持つ施設ということだろう。
「C、呼吸を落ち着かせるんだ」
「分かってるよ…!」
さっきから自分の呼吸音だけがやけに大きく感じられている。それがよくないことだと分かってはいるが、意志に反して体が言うことを聞かない。
(これだから本能ってやつは…!)
しばらく歩くとワンは再び足を止めた。
「天使は階段を昇った。戻ろう」
Cは酸素が回らない頭だったが、それを聞いてぎょっとした。
「まて、数が増えたら危険じゃないのか…⁉」
「まだ諦めていい段階じゃない」
ワンの言葉が簡潔なのはいつものことだ。だが今はその声音にも緊張を帯びていて、言葉数の少なさがかえって不安にさせる。
再び歩き出すワンとミアの背に、Cはぽつりと呟いた。
「……や、やってられるか」
奴らはただ殺す。ただ奪う。話し合うことも分かり合うことも出来ない。例え話し合ってもその腹の中じゃ相手をどう虐めるかしか考えていない。そんな腐った欲求が顔全体に張り付いている連中だ。
「俺はもう、帰る…!」
「C…」
ワンは同情するようにこちらを見た。が、
「駄目」
ミアがそれを許さなかった。
「状況は何も変わってない。元々こういう作戦。全員でずっと計画したのに、今更引っ掻き回すことは、許されない」
ワン以上に口数の少ない女だ。ただ黙って従うだけの人間かと思っていた。
「……」
そんなん知るか。そう答えてしまえたらどんなに良かっただろう。しかしミアの言うことはもっともだった。状況は変わっていない。元々常駐の天使四人がこの建物内のどこかにいることを想定して作戦を練って、同じ階に四人いる可能性も考慮していた。
論理を放棄する人間は自分が一番嫌いだった。最初から加わらなければよかっただけの話なのに、この道を選んだのは自分だ。全部自分の責任で、それを誰かに押し付ける奴も大嫌いだ。
「……分かった」
頷いて、元来た道を引き返し、階段へ向かう。内心舌打ちをしながら。
(危ない。頭がどうかしてる…)
――臆病者。
散々覚悟していたはずだったのに、今更ながらに天国が怖くなってきた。奴らの張ったレッテルもあながち間違いじゃない。
――天使を全員ぶっ殺す。
(お前は何を考えてそんなこと言えたんだよ)
あのとき134が大天使の眼球に刃を突き刺したのを思い出すと、不思議と心が落ち着いた。勇気を貰えているようだった。




