第10話 慰め
それから六日後、一日の仕事を終えたCは一人で夜食を口にしていた。よく分からない青い葉っぱの収穫をしたが、それがこのスープに入っているこの葉っぱらしい。味はよく分からない。品種もどうでもよかった。
周囲がやけに騒がしいのは今日これからワン達が地上へ向かうからだった。十九時。天使の寝ている時間を狙っているらしく、帰還予定は五時間後と言っていた。なんらかの異常が発生すればその時刻には還れないだろうと、あらかじめ聞かされていた。
人混みの中心には手ぶらのワンと、弓を背負った次郎とミア、その体型より膨れたリュックサックを背負う土人のゴンザロに、少し離れた位置に森人のロレンツィオがぼーっと立っていた。そんな彼らが談笑しているのを見ていると土人の厳しい眼差しが向けられた。その唾棄するような視線は今に始まったことではなく、土人に限ったことでもない。
なるべく人混みの方には目を向けずにスープをすすっていると、
「最近、目の隈が酷くなってるけど大丈夫?」
ノエルが話かけてきた。ノエルはいつも着ている縒れた服は変わらないが、身の丈の倍程もある長い棒を後ろ手に持っていた。周りは黒い金属で何らかの補強がなされているが、刃のようなものはなく、先端後端の見分けも付かない無骨なものだった。
Cはそれに驚かされていると、じっと見てくるノエルの質問を思い出す。寝付きが悪いのは今までずっとそうだった。大した問題じゃない。
「ああ、まあ。それは?」
「棍。槍だと天使を殺しちゃうかも知れないから。刃物はつけてないの。持ってみる?」
首を縦に振るとあぐらをかいている所にその棍を手渡された。ずしりと重みが伝わってくる。
「これ、大きくて目立たないか?」
「ノエルの役割は次郎とミアの護衛だから。殆どワンがやってる」
「……まだ、戦ったことないのか?」
地上に行くなんて言っても大したことはないんじゃないかと思ったCだが、
「まさか。天使と対面することはないだろうって上に行ったメイはみんな畑を耕してる。暗闇で見えないのはメイも変わらないよ。いつどこから天使が出てくるかも分からない」
大人しくノエルに棍を返した。ノエルはそれをくるくると弄ぶように振るう。ぶんぶんと風を切る。
「そういえば、俺がリベラに来たときにいなかったのはどうしてなんだ?」
「女の子にはそういう日もあるからね」
「は?」
Cが聞き返すと、ノエルは服をひらひらと詰まんで見せた。
「でもこの装備じゃ天使の電撃の前だと意味ないんだよね」
「……」
「だから遠ければ弓で狙撃するか逃げる。近ければこれで殴る」
「捌ききれなければ?」
ノエルは躊躇なく答えた。
「死ぬ」
「まあ、そうだよな」
殺し合いなら強い奴が勝つ、数が多い方が勝つ、当たり前のことだ。有利な状況をつくるのが戦略で、こいつらは生き残ってきたのだから心配はいらないのだろう。
Cはふと、ノエルがずっと墓場にいるとユーゴが言っていたのを思い出した。
「死んだのは、どんな奴だったんだ」
ノエル相手ならどうでもいいことでも気軽に聞けたのだ。するとノエルは三メートルはあるだろう長棍は抱えたまま隣に座って来て、にぱっと笑った。
「ここに来る前にずっとノエルを助けてくれた人。優しい人だったから死んじゃった」
ノエルは腰を浮かして拳一つ分間を詰めてきた。
「ノエルが培養施設から逃げたあと偶々拾ってくれたの。ノエルにとってお母さんみたいな人だった。記憶はインプットされてたけど産まれたばかりだったから」
「女だったのか」
ぼんやりとノエルが眺める向こうでは次郎と女が熱い抱擁を交わし、その隣ではワンとカミラが微妙な距離感を保ちながら言葉を交わしていた。
「うん。それからずっと二人で逃げてた。その頃は地下下水道には天使の目もあまりなかったから殆どそこで隠れて、夜になったら隙を見て外から食べ物を盗ってきて生きられてた」
「二人で逃げられるのか」
「途中まではね。でも結局は無理だった。ここの都市は壁が覆っててどこにも隙がないの」
Cも機密だらけのこの国が情報の洩れないよう厳密に人と物の往来を制御しているのは知っている。
「下水道は?」
「探知機があったの。土人対策なのか、そもそも下水道におびき寄せられてたからなのかは分からないけど、それで天使達に見つかっちゃった。使われてない下水道だったから大丈夫だろうって油断もあったのかも」
「それで死んだのか?」
「ううん。そのときはなんとか逃げることはできたんだけど、それで私達のことがバレちゃったの。最終的に下水道の捜索が進んで全部囲まれちゃった。リベラの助けが来たんだけど、その人は最期は私をかばって、ほんとに何でもないような一瞬で、死んじゃった」
最後の言葉にはノエルの後悔が滲んでいる。
「……」
Cには引っ掛かることがあった。ノエルの言う『その人』は、ノエルと行動を共にする前は一人で天使から逃れられていて、天使達に見つかっても逃げることができたと言うが、そんなことはただのメイには不可能に決まっている。
「それって、種族は?」
そしてまた一つ。ノエルは腰を浮かして間を詰めてきた。息がかかるような距離で、ノエルはその無垢な瞳を向けて言った。
「四分の一が悪魔」
誤魔化したり茶化したりすることなく、真正面からそう言った。
「――」
Cは言葉を失う。
(ああ、だからか)
ノエルが付きまとってくる理由はそれだったのか、それが解決して腑に落ちる。理由もなく話しかけてくることはないとは思っていたが、そんな理由だったとは想像もつかなかった。
どこまでも利己的な感傷だ。それも種族が同じだからというそれだけで、姿を重ねて見ようとする。Cには理解できない考え方で、ノエルがそんな風に非論理的なことを考えているとはもっと思わなかった。
しかしだからと言って自分が何か損をすることもないから気にしなくていいはずだ。
「失望した?」
ノエルは見透かしているように覗き込んで来る。その瞳はどこまでもまっすぐで純粋だった。下らない感傷だと一蹴するには真摯過ぎた。
「どうして今このタイミングで言ったんだ?」
「初対面でそんなこと言ったら気持ち悪いでしょ」
「まあ」
「でも今はノエルのこと知ってるでしょ」
「……まあ、そうかもしれないな」
「でも一番の理由はね」
Cの思考に整理がつく前にノエルは告白した。
「今度はノエルが守るよって、言いたかったから」
「……っ⁉」
鈍痛に似た衝撃が走り、Cは頭が真っ白になった。
(守られる…? 俺が…?)
守るとか、守られるとか、そんな言葉産まれてから一度も聞いたことがない、全く縁遠い概念だ。きっとそれは余裕のある人間しか使うことが許されないはずのもので、そうでなければ偽善的な言葉でしかない。
そもそもこいつはそんな寒い言葉を使う奴だっただろうか。Cは次から湧き出る疑問も言葉に出来ず愕然としていると、ノエルは満足気に立ち上がった。Cは咄嗟に呼び止めていた。
「待てよ。俺はお前に守られる筋合いはない。……俺は、お前を助けたその人でもなければ、今後お前のために何かするつもりもこれっぽっちもない。……やめろよ」
自分のあずかり知らないことがきっかけで誰かが助けようとしてくれる。それを甘んじて受け入れた方がお得だと思えるほど単純な脳みそはしていない。こいつが何かを期待したとしても応えるつもりもないし、こいつの自己満足に付き合ってやる必要もない。
ノエルは振り返ることなく答えた。
「ノエルはシーで自分を慰めてるだけだよ。駄目?」
「……」
Cはすぐに答えることは出来ず、その華奢な背中は遠ざかっていく。
(なんだあいつ…)
ただの悲観主義者だと思っていた。必要なことを諦めたり、無駄なことを考えたり、いらないことで突っかかってきたりするだけのつまらない人間だとすら思っていた。
(なんだよ、俺…)
そうやって自分に都合がよくなった途端、手のひらを返すように相手の評価を変える。人に勝手に期待されることを嫌がっているくせに、自分に都合がいいときだけそれを許す。そういう人種が一番嫌いだったはずなのに、それが自分だった。結局自分も現金な奴だった。
自分が利用されていたのだと憤るより、ノエルの下心を理解して安堵を覚えてしまっている。嬉しかったというわけでも、嫌だったというわけでもないけれど、心が軽くなったような気がしてしまった。




