ウツロ池
住宅街から少し離れたところに、その山はある。山とはいえそれほど高くはなく、外周を散歩するのに四・五時間もあれば足りる程度の山だ。
ただ、この山には良くない噂があり、近隣住民は誰も近寄ろうとしないし、子供たちにも近づかせなかった。
ある寒い冬の日、山の近くの広い空き地で、カツヒロとヨシユキの兄弟は凧上げをしていた。その日はよく晴れていて、風の強い日であった。
二人は空き地の手前で遊んでいたが、強風に煽られ、空高く昇ろうとする凧に引かれるままに、気づけば山の側にいた。
凧上げとは難しいもので、風がなくても飛ばないが、強すぎると凧の糸が切れてしまう。凧の動きに合わせて糸を緩めたり、引っ張ったりと調整するのである。
この日はいささか風が強すぎた。このままでは糸が切れてしまう。二人は焦りながら凧を操るうち、山のすぐ側へ来てしまったのだ。
やばい。ここにいることを村の誰かに見られたら、絶対に叱られる。二人は、何とか凧を下ろそうと格闘した。
二人の心配もむなしく、ついに糸が切れてしまった。凧はあっという間に空へ吸い込まれ、そのまま消えてしまうかと思いきや、急に力を失い、今度はひらりひらりと落ちてきた。右へ左へと揺れながら、やがて山の中へと姿を消してしまった。
「あーあ、どうしよう……」
実は、凧は二人の父が子供の頃に作ったものの一つで、一番良くあがると、常日頃自慢していたものだった。
「勝手に使ったのがばれたら怒られる。取りに行こう」
「でも、山には魔物が出るってじいちゃんが……」
「ばかだなぁ。あんな迷信を信じてんのか? こんな小さな山なんだぞ。今なら誰も見てないし、天気だっていい。俺は父ちゃんに怒られる方が恐い」
ヨシユキは兄のカツヒロに言われ、「なるほど、そうか」と、一緒に山へ入った。大丈夫、凧を拾ったらすぐに山から出ればいい、と。
しかし山は外から見るのとは違った。草木がこれでもかと生い茂り、獣道も見当たらない。数日前に降った雪が所々に残り、枯れ草も冷たく湿っている。そんな中を踏み込み、小枝を振り払いながら進んだ。オナモミ等のくっつき虫がついて、チクチクして不快になる。小枝が服に引っかかり、顔や手の甲に跳ね返って小さな傷も出来た。
外はあんなに明るかったのに、大小様々な枝葉のせいで、兄弟が今まで見たどんな日影よりも暗く感じた。あんなに聞こえていた風の音も聞こえない。何だかとても狭いところへ潜っているかのようだ。
……どれほど歩いただろうか。樹木に行く手を阻まれ、大きな段差を迂回して進んでいたから、時間の感覚が無くなっていた。
おかしい。こんなに広い山のはずがない。そう兄弟が不安に思い始めたところ、突然ひらけたところへ出た。
そこには池があった。二人はしげしげと池を見た。薄暗い水面がゆるゆると揺れている。ふと見上げると、そこだけぽっかりと、トンネルの出口のような明るい空が見えた。背の高い木々が空間をおおっていて、まるで閉じ込められていて、そこにしか出口が無いかのようだった。
そのとき「兄ちゃん、あれ!」、と弟のヨシユキが真正面を指さした。見ると池の向こう岸に生えた木に、凧が引っかかっていた。
二人は凧が見つかったことで安堵し、池の縁をまわりこんで取りに行こうとした。水辺の草の葉は細く薄く、そして鋭い。足元はぬかるみ滑りやすく、雑草が行く手を阻んで歩きにくかった。
「うわっ!」
カツヒロの後ろでヨシユキが悲鳴をあげる。慌てて振り向くと、ヨシユキは尻餅をついていた。
「大丈夫かっ、ヨシユキ!」
「兄ちゃん、……」
ヨシユキは情けない声を出す。見ると尻が泥水にはまっていた。
「大丈夫か。冷たいだろ? 早く立った方がいいぞ」
暗い色の水が、じわじわ服に沁み込んでいくのが、伝わってくるかのようだ。ヨシユキは身をよじって立ち上がった。尻はびしょ濡れで、枯れ草がいくつかくっついていた。
カツヒロは弟を元気付け、自身も靴裏の泥や、疲れて重くなってきた足を引き上げるようにして、凧の方へと歩を進めた。だが足取りは重く、踵が濡れた石の上を滑り、転びはしなかったが足首をひねってしまった。
「痛っ」
「兄ちゃん、大丈夫!?」
「ああ」
兄として反射的に返事はしたものの、ズキッという痛みが脳天にまで響く。
二人は言葉にせずとも途方にくれ、さっきより少し暗くなったように感じる上空の、トンネルの出口を見上げた。あともう少しで凧を手にして、ここを出ていけるのに……。カツヒロはそう悔しく思い、唇を噛んで小さな空を睨んだ。
そのとき、空がキラッと光った。
「あれ、何だ?」
カツヒロの呟きにヨシユキも応じる。
「なんか今、光ったよね」
しゃりん。
続いてどこからか、かすかに鈴のような音がした。音の出どころを探して二人は辺りを見回した。
「あっ! 兄ちゃん、あれ!!」
ヨシユキが淀んだ池の中央を指差した。空からの光が真っ直ぐに落ち、中央だけ、ぽっかりと明るく光って見える。そしてそこは石を投じたかのように、あるいはそこから水が湧き出ているかのように、波紋が起こっていた。水面が光を受け取って波紋となり、光を運んで広がっていく……。
ざざざざざ。波紋が風を運んでくる。
ざざざざざ。光を、熱を運んでくる。
「「うわあっ!」」
ついに光が池を越え、二人にも迫ってきた。眩しい。反射的に目をつぶったが、それでも尚眩しい。
「「わあーーーーーーっ!!」」
二人は何が起きているのか分からず、叫ぶことしか出来なかった。池の中心部から吹く風が光と共に、この狭い空間を駆け抜けていく。服に着いた泥があっという間に乾き、こびりついた砂や枯れ草、くっつき虫等をはがしていく。眩しくて眩しくて二人は、目を固く閉じ腕でおおった。
光は二人を追い越し、木の幹をなぞり上げ、やがて空のトンネルへと戻って行った。
音が止んで辺りを見回すと、残り雪がいつの間にか消え、それどころかぬかるみも乾いていた。
「何が起きたんだ?」
「どうなってるの?」
二人はこわごわと話しながら、辺りの様子を伺った。
「兄ちゃん、今のうちに帰ろうよ」
「ああ、そうだな……」
帰ろうとした二人の目に止まったのは、次々と芽を出す草花だった。足下から新芽がどんどん生えて来る。樹木も新しい葉を付け、枝を伸ばしてゆく。時間が早回りしているかの様な速度だ。
足下の草花は、次々に可愛らしい花を咲かせていく。若葉はあっという間に、濃い色の大きな葉っぱになっていく。
ついっ、と、樹木に絡みついた蔓が凧を持ち上げ、他の樹木へと手渡しのように凧を運んできた。カツヒロはそれを恐る恐る受け取った。
目的の物は手に入れたが、二人は不思議な光景に呆気にとられ、けれど不気味さも感じていた。どんどん育つ植物から、絶え間なく葉や枝の擦れ合う音がする。それが四方八方から響いていた。濃い緑の、夏の匂いがしていた。
蕾をつけては次々に色とりどりの花が開く。かと思えば花弁が落ち、小さな実になり、熟し、辺りは甘酸っぱい果実の匂いに包まれた。
目まぐるしく変わる季節を、二人はただ眺めていることしか出来なかった。
「帰ろう」
不意にカツヒロが言った。
「えっ。でも、美味しそうな木の実の匂いがするよ。兄ちゃん、オレ喉かわいた」
「そんなの、家に帰ったらお茶を入れてやる。これ以上ここにいたらやばい」
「でも、こんなに綺麗なのに」
「だからやばいんだ! 綺麗な花や生き物ほど、毒があったり、トゲがあったりするんだぞ!!」
「……分かった、帰ろう」
カツヒロが踵を返すと、ヨシユキも後をついていった。名残惜しそうに、何度も池の方を振り返りながら……。
来た道を見つけられず、下へ下へと降りた。斜面を下りきれば道へ出られる。そうすれば家の方向が分かる筈だ。そう二人は励まし合いながら、木の枝をかき分けながら歩いた。
山を縁取る道へ出たころには、足が棒になっていた。ほっとして道端へへたり込む。そこは空き地とは反対側だったが、彼らの行動範囲内なので、問題は無かった。
「お前ら、どうした?」
しゃがれた声がした。振り向くと老婆が立っていた。この婆は変わり者で有名で、子供たちは山と同じくらいに恐れていた。
「あ、あの、俺たち……」
「お前ら、田邊んところの子だろ。そんな所とこに座ってっと、ケツが汚れちまうぞ」
婆はじろじろと二人を見る。目を細め、頭のてっぺんから足先まで、何度もその目が往復した。
「ついてきな」
そう言うと婆は二人に背を向けた。短い言葉だったが有無を言わせぬ物言いに、二人はただ従うしかなかった。
婆は、山からそう遠くないところに住んでいた。だが、こんなところに家などあっただろうか、と二人は頭を傾げた。
家と呼ぶには、余りにもこじんまりとした佇まいの建物がそこにあった。
婆は家へ入ると湯を沸かし、熱いお茶をいれてくれた。初めてお邪魔する家で二人してかしこまって座り、湯飲みを両手でそっと触れ暖を取った。思ってたより体は疲労し、冷えていたようだ。指先から伝わる熱さが心地よかった。
このとき柱時計が三回音を鳴らした。昼食を終えてすぐ遊びに出かけ、あれだけ歩き回ったのにまだ三時だったことに二人は驚いた。
「こんなもんしか無いけど」
と、出来たてのきなこ餅の皿と、たくあんが乗った皿が二人の前に置かれた。遠慮して手を出さずにいると、「余っても、固くなって捨てるだけだ」と言われ、いただくことにした。足を崩していい、と言われたのでその通りにした。
温かくてやわらかくて、甘すぎず、ほっとする味だった。お茶もほどよく冷め、付け合わせのたくあんも美味かった。
「それで、何を見た?」
二人が食べ終わるのを見計らって、婆が言った。
「な、なんのこと?」
「とぼけなくていい。見たんだろう? ワシは見た。山から光が登って行った。ワシは何度も見たことがある。あの池に秘密があるんだ」
カツヒロとヨシユキは顔を見合わせた。普通の大人だったら、山へ入ったことを怒るだろう。それなのに、自分が何度も山へ入っている、というようなことを婆は言ったのだ。
「……あの光は、なんなの?」
ヨシユキが切り出すと、カツヒロも質問したくなった。あれだけの体験をしたのだ、誰かに話したくなるし、疑問を解消してくれそうな人物が現れたのだから、そう思うのは自然なことだった。
「あの風も。それから春になったり、夏になったりしたけど、あれは何?」
婆の目が光ったような気がした。
「やはりそうか。あれは今日だったか……」
婆はぶつぶつと一人言をしゃべり出した。その顔の表情は力を無くし、皺が急に深くなったように感じ、カツヒロはドキリとした。
「そうさな、ここだけの話にしてくれるか? まあもっとも誰かに話したところで、誰も信じやしないだろうが」
二人が頷くと、婆は細々と話し出した。
昔々のことだ。この辺りの地主のところに、赤ん坊が生まれた。赤ん坊は女の子だった。とても可愛らしい子で、最初は「女の子は働き手にはならん」と言っていた周りの者たちも、その子をとても可愛がった。その子は大病もせず、すくすくと育った。
十才を数える頃には、村で評判の美しい娘になった。その頃には「将来はうちの嫁に」などと、口約束を求める大人が娘の家にやって来た。
しかし、親や親戚、友人や使用人から愛され可愛がられて育った娘は、次第に高慢になっていった。自分を取り巻く環境……我が儘を言って叶えて貰える環境が、当たり前だと勘違いしたのだ。
娘の性格の悪さに、だんだん周囲の者たちは呆れ、こそこそと噂話をするようになった。娘は怒り、癇癪を起こして暴れた。それゆえ、ますます人は遠ざかっていった。
ある夜のことだった。その夜は冬だというのに蒸し暑く、娘はいつまでも寝つけなかった。
月が煌々と輝く夜だった。雨戸の隙間から光が筋になって漏れてくる。娘は寝るのを諦め、少し散歩をしようと思った。そうは言ってもまだ電気など無く、夜はもののけの時間と恐れられている時代のことだ。少しだけ、庭を少し歩くだけ……、と娘は寝巻きに半纏を羽織り、そっと雨戸を開けた。
夜半の庭はいつもの庭とは違って見えた。月光が妖しく庭を照らし、建物の影は色濃く地面に落ちていた。
ふと見ると色白の娘の手は、尚も白く輝いていた。まるで自分の手では無いようだ。そのとき娘は、昔従姉妹のねぇやから聞いた話を思い出した。
「これ、内緒の話よ。あの山のどこかに池があって、夜中にその池を覗くと、とても美しいものを手に入れられるらしいの。でもね、どこからか魔物が現れて、その美しいものを奪ってしまうのですって」
子供だましの、お伽噺である。どこの村にも、そんな話の一つくらいはあるだろう。幼い頃は恐ろしかったが、そのときはそう思った。
そして思った。この白く輝く私の手よりも美しいものがあるのなら、一目見てみたい……、と。
娘はそっと門戸を開け、山へ行ってみることにした。大丈夫、こんなに明るい月明かりだもの。魔物だって、明るいところへは出てくる筈がない。そんな変な自信を持って。
庭ではあんなに明るい月明かりだったのに、山の中では役に立たなかった。足元はよく見えないし、乾いた枝は鋭く容赦が無かった。娘はあちこちに引っ掻き傷を負いながら、それでも諦める気にはならなかった。
そして遂に見つけた。水面に月が浮かぶ池を……。池のふちはぬかるんでいたが、娘は気にせずひざまづいた。そして、そっと池を覗きこんだ。
池の水鏡には、自分が映っていた。色の白い顔。見開かれた黒い瞳。癖のない長い黒髪。きゅっと結ばれた形のいい唇。
池の底に何か見えないかと、娘は姿勢を低くする。水面に近付けば近付いた分、自分の姿が、月の光の反射が目に飛び込んで底の方まで見えなかった。
そのときだった。
ざざざざざ、と木々が音を立てた。娘は驚き、魔物が出たのかと慌てて立ち上がろうとした。池の中央から強い風が吹き、娘は均衡を崩し池へ落ちた。
寝巻きが冷たい水を吸い重くなる。池の底で足が滑り、立ち上がれない。娘は慌ててもがいた。
ざざざざざ。突然、風が強く吹いた。
不思議なことが起こった。池の水が体の下へ回り込み、気づくと娘は水の上に座っていた。あんなに重かった寝巻きや半纏が、いつの間にか乾いていた。
水はぐんぐん盛り上がり、くにゃりと捻れて池の端へと流れ池の中へと戻っていく。娘はその上を滑り、地面へと着地した。
また風がざざざと吹いた。今度は池の上の月光が、中央から四方八方へと駆け回り、やがて天空へと抜けて行った。
辺りには静寂が戻った。娘は神妙な気分になり、きっと美しいものとは月光と池の水が起こす不思議な出来事のことに違いない、と思った。
娘は、もう一度池を覗いてみて、それで帰ろうと思った。また池の端へ座り、先程と同じように池を覗いた。
そこには老婆の姿があった……。
「美しいものは娘じゃった。だが娘の心は醜かった。だから魔物は、美しいものだけを奪っていったのじゃ」
二人は婆の話に聞き入っていた。
「でもオレたち、何も奪われてなんかいないよ?」
「さあて、それは夜ではなく昼間だったからかもしれないし。そもそも魔物が気まぐれなのかもしれないし」
婆は両手で湯飲みを持ち、ぐいっと一口飲んだ。
「ワシはあれから、ずっと奪われたものを探しているのじゃ。あの光を捕まえようと、何度もあそこへ行った。けれど光を捕まえることは出来なかった……」
「お婆さん。お婆さんはひょっとして……」
「もう帰った方がいいぞ。そろそろ暗くなり始める。親御さんが心配するだろう。親が心配してくれる、それはとても幸せで、ありがたいことなんじゃ。あそこへももう行かんがいいぞ。次は酷い目に合うかもしれんから」
二人は顔を見合せ、お礼を言いお暇した。
外は美しい夕焼けだった。いつの間にか風が止み、ほんのり梅の香りが漂っていた。
おしまい