主婦の頭の中23
爽やかな朝だった。こんなに緑がキラキラと輝いて空気が澄んでいるのを感じた朝はいつぶりだろう。
息子を幼稚園に送るために、3年間送迎していた同じ道とは思えなかった。同じ朝でもこうも違うのか。
昨晩あまり寝ていなかったのに、まるで10代の頃に戻ったように体は跳びはねられるくらいに軽く、自然と凄いスピードで自転車を漕いでいた。
昨晩は夜で暗かったせいもあって、団地の何号棟だったか迷い、しんに電話をした。
すぐに出てくれて「外に出ているよ」と笑顔の声が聞こえてくる。
感じよく受け入れてくれている声だった。
すぐにしんの姿を見付けた。
近所なので人目を気にしつつ敷地内に入った。自転車をしんに言われた場所に止めて、家に入る。
数時間前にもいた一番奥のリビングダイニングの部屋に案内される。また1,2時間程料理の話でもしていたのだろうか。あまり記憶にない。
白いソファに移動したのは覚えている。私の右横にしんが来た。
それから一瞬の沈黙の後にしんが「僕達の手ってなんだか似てない?」と言って私の右手を見つめている。私は天井に自分の手をかざした。するとしんは、その私の手を取り「ほら、なんか似てるよ。指とか…」と言った瞬間ぱっと私の手を握った。
そこから私が少し恥ずかしがりながら上目遣いでしんの目を見ると「よりこの目綺麗で、見てたら僕もうダメだ」としんが言った後にもう唇が迫ってきて自然と合わさった。抵抗などしなかった、罪悪感もなかった。どうなるんだろうというワクワクした気持ちしかなかった。
子供のことも、夫のこともまったく頭からは消えて結婚していることも忘れていて、ただただ男に身を委ねてしまった。
心地良かった。こんなにも罪悪感なく罪を犯すものかと不思議に思った。しかし止める気はなかった。行くところまで行ってしまえ。服に手が入ってくる。
忘れていた気持ちが何年かぶりに蘇るような心地よさがあった。いやらしさよりも、撫でられてる猫になった様な気持ちが。
それから「よりこの頭が良いところも、もう駄目だ」と男が言った。
目が綺麗だと言われたことも嬉しかった。結婚してからそんなこと言われることなんてない。あってもママ友のお世辞くらいだろう。
しかしそれ以上に頭がいいと言ってくれたことに喜びを感じた。
私は高校までしか出ていないので、学歴にコンプレックスを持っていた。いや、高校までだとしても一生懸命勉強した記憶があったり、納得していればコンプレックスはなかったと思うが、私は努力して受験勉強したこともなければ、入学してからも一生懸命勉強したこともなかった。その私に頭が良いと言ってくれた。何か、救われたような気持ちになったのだ。
この人なら何かわかってくれるのではないか?唇を合わせながら、目をつぶった暗闇の先に、何か希望すら見えていたようだった。
ただ単に男の口説き文句の一つだったのかもしれない。しかし、その真意を知りたくなってあえて「私バカだよ」と、否定して確かめた。
すると「AIの頭の良さなんていらない、よりこみたいな頭の良さがいいんだよ」と男が言った。
何か、その言葉に浸っていたら
「あっちの部屋に移動しようか?」としんに言われ、私はただ頷いた。
その時その男を好きなのかどうなのかわからなかったが、その決定的な誘いは嫌ではなかった。いや私はむしろ嬉しかったのだろう。
あの女の子は私と違ってかなり抵抗したようだった。一体どんな気持ちだったのだろう。抵抗した相手とどうしてまたあって、結局するに至ったのだろう。
私はただ嬉しかったのに。
誰でもいいわけでもないけど、好きかと言われたらその時点ではわからなかった。
男もそんな気持ちなのかなと思っていた。会ったばかりだし、人妻だから本気で好きなんてことはないだろうが、きっと異性として惹かれる気持ちがあるんだろうと。
それはただの欲とは違うのだろうと。
また「初めて見たときから、惹かれてた。美人だよ、よりこ」と言われて広いベットでそのまま最後まで。この時間が終わらないで欲しい。終ってしまったら何かしらの現実が待っている。怖かった。
終わった後私は焦るような気持ちになった。
簡単にしてしまって、簡単に捨てられたらどうしよう。一回で捨てられたらどうしよう。ただ、部屋に性別の違う者同士いたからこうなっただけなのか?と。本能的な行動だったのだろうかと。
私はもはや割り切る事なんて出来なくなっていた。
男は逆かもしれない。もう味見が済んだらいらないかもしれない。
そう焦りながら男の顔を見ると「墓場まで持っていくんだよ」と私の家庭の心配をしてくれている。
私は家庭のことなどすっかり頭になくなっていたので、静かに頷いた。
男が「これから、こうやって会えるといいね。人の気持ちだから、変わることもあるかも知れないけど、一緒に料理したり話したり、よりこと、楽しく過ごしていけたらいいな…。」そう言った。
その言葉で、ああ私は一回で捨てられることはないのだ。ただ本能的な行動だったのではなく、これからのことも考えてくれて取った行動だったのかと感動すら覚えて嬉しさでいっぱいになった。
私は男に抱きついた。
もうその時にはすっかり男を好きになっていたのだろう。