マハーラージャ…
私はあのカレー屋〝マハーラジャ〟を知っている。
知っているというか前世で私が最後に商売をしたお店だ。
ボランティアを始めるまで従業員を使って経営していた。
正式には〝マハーラージャ〟高貴な王という意味だそうだ。
私の大切な友人が名付けた屋号だ。
それまで飲食店の経験は学生の時にバイトしてた焼肉屋で鉄板洗いの仕事をやったくらいしかなかった。
きっかけは22歳の頃に始めたBARに、客としてちょくちょく飲みに来るインドネシアから来たサリムという名の留学生だった。
お酒が好きなのか孤独なのかほぼ毎日来てくれていた。
そんな彼がある日突然パッタリと来なくなった。
しばらく来なくなり気にしていたら久しぶりにサリムが来店した。
いつまでたっても入り口に立っているのでカウンターでいいかと尋ねると、面接用紙を持って来て働かして欲しいと頼んできた。
この当時は外国人の雇用も少なく、なかなか受け入れ先がなく困っている様子だった。一生懸命カタコトの日本語で懇願する彼に根負けして雇うことにした。
彼は日本人と比べると無愛想で客受けはイマイチだったが、とても真面目で仕事もすぐに覚えた。
2年ほどうちで働いた頃、彼から来年卒業したらインドネシアに帰ろうと考えているという話をされた。
この2年で見違えるほど接客も上手くなり、客受けもかなり良く彼目当てで来店する客も少なくない。
正直惜しくて彼を手放したくはなかった。
しかし門出を祝うのが日本の魂だと、気持ちよく送り出す事をきめた。
すると、
「とても感謝しています!恩返しさせて下さい!」
と、サリムが得意料理を店で出したいと申し出てきた。
彼の律儀な気持ちに感激し、味見させてくれと頼んだ。
サリムが何を作るのかが楽しみで、全然使ってないずっと眠っていた厨房を隅々まで綺麗に起こした。
あちこちスーパーや市場を回って集めた材料を使い、
サリムは数時間かけて故郷の味を再現した。
それが〝マハーラジャ〟のきっかけとなったカレーだった。
〝何を作るのかと思えばカレーだと?!〟
彼の気持ちは嬉しいが、雰囲気を大事にしているBARだった。店内がカレーの匂いで充満するし却下しよう。
見るまで食べるまではそう思っていた。
しかし、初めて彼のカレーと対面した時は日本のカレーとの違いに度肝を抜かれた。
まず出てきたカレーに驚いた。
1つのお皿の上に小分けされた3種類のルー、野菜、チキン、そしてバターライスが綺麗に盛り付けてある。
この当時ではそれが珍しかった。
試食してみると私の知ってるカレーとは違う!
スパイスがベースなのにまろやかでしっかりとコクがある。後味はピリッとして刺激的だ。
野菜をドロドロに溶かして緑色のルーもある。
ルーの種類によっては辛さも調節できて辛いのが苦手な人でも食べられるものもある。
舌に自信があるわけではないがこれは日本人でも受け入れられる味だと確信した。
さっそくレシピを書いてもらって夜しか使ってない店で昼間のランチを始めた。
サリムは1日も休まずに私と昼も夜も働いてくれ、
〝インドネシア人がやってるカレー屋さんが美味い〟
と近くのサラリーマンやOLからも評判になった。
そのおかげもあってか昼のランチは大盛況で、遠くから来るお客も珍しくなく夜のBARの売り上げを越える時もあった。その反響もありBARの方もお客が増えていき、気づけばなかなかの繁盛店として有名になっていた。
しかし、そんな日も長続きしなかった。
道路拡張で立ち退き命令がでたのだ。
どこに異議申し立てをしても結果は何も変わらなかった。
だが私は挫けなかった。私には彼のカレーと立ち退き料がまだ残っている。
カレーを食べに来たお客の反応を見て、聞いて、私の確信は自信になっていた。
そうしてカレーだけを武器にして立ち退きで貰ったお金を元手に作ったお店が〝マハーラジャ〟の始まりである。
サリムが名付けた彼と私の王国だ。
サリムと一緒に1からお店を作って、インドネシアの郷土料理もたくさん教えてもらった。
留学が終わり私に〝マハーラジャ〟を託して彼はインドネシアに帰ってしまった。
彼がインドネシアに帰ってしまってからもいろんなお客や従業員と出会い、本当に大切なお店だった。
彼がインドネシアに帰って2ヶ月後、私はバイトで働いている女の子と交際を始めた。職権濫用はしていない。
しっかり相手を尊重して、何度もお茶に誘い関係を作ってから告白した。
とても可愛くてスタイルも良く身長も私の好みだ。
お店が忙しく私の休みは定休日の月に2回しかない。
その2日は必ず車で出かけて日帰りで遠出をした。
お店はその子が看板娘となり一段と繁盛して、2号店を出店するまでになっていた。
私の人生で2番目に輝いていた時だったと後になれば思う。
交際を始めて1年が経ち、お店の経営は順調だ。
馴染みのお客もついて営業中はお客が途切れず、休憩もとらないほど忙しい日もあった。
そんな時彼女が両親を紹介したいと言ってきた。
私は動揺したが覚悟を決めてご挨拶に伺った。
とても立派な門をくぐると、お城のように立派な家と広い庭が現れた。鯉が泳いでいる。その池が家の下まで続いている。
〝聞いてないゾォー!〟
想定外の規模に動揺を隠せない。
入り口に着き玄関を開けて入ると、一人暮らしできるほど広い土間で彼女の母親へ挨拶して手土産を渡す。
お母様のエスコートでいよいよお父様の元へ向かう。
襖を開けて居間に入るととても大きな杉のテーブルでお父様が待ち構えていた。木の柱がツヤツヤして光っている。
緊張は最高潮だか必死に振り絞って挨拶すると、さっきまでしかめっ面に見えたお父様の顔が笑顔になり、
「よく来てくれたね、足を崩しなさい」
話をしてみるととても気さくで優しい方だった。
数時間ほど4人で会話をした後、お義父さんと男2人でお酒を飲みながら意気投合し、結婚を前提としてお付き合いさせていただく事を認めてもらった。
この話は長くなるのでまたの機会に…。
その1年後、めでたく私たちは結婚する事となる。
私の住んでた地域は、結婚式にお金をかけるのが素敵な結婚式だという風習がある。
親族の協力もあり私たちも盛大に結婚式を挙げる事ができ、祝福の中私たちの結婚式は無事に終わった。
その次の年には子宝にも恵まれ、〝かなこ〟と名付けた女の子を授かった。
順風万端すぎて怖いほど幸せだった。
かなこが大学を卒業した年、バブル崩壊という恐ろしい時代に突入した。
十数年で儲けた資金を元手に株や不動産などにも投資していた私は、財産を失うだけではなく借金まで背負うことになってしまう。
かなこが卒業していた事だけが唯一の救いだった。
そして私の人生を輝かせてくれた〝マハーラジャ〟まで手放すことになった。
せめて大切にしてくれる人に買ってもらいたい。
そう思ったが、銀行に差し押さえられ私の思いなど聞き入れてもらえなかった。
確認するのも辛くて近づく事も無かったが、風の噂で同じカレー屋で店の屋号もそのままだったと聞いた。
なんだかわからないが嬉しかったのを覚えてる。
それから借金を返すため〝共済の輪〟を始めるまでは昼夜関係なく働き続けた。
借金は結局妻の両親が大半を立て替えてくれた。
しかし長い期間かかったが何とか存命のうちに完済した。
あの店にはそんな思い出がある。
しかし結果それが〝輪〟につながっていたとは思えない。
仕事ばかりでほとんど従業員や家族と過ごす時間しかなかった。最終的には経営破綻して手放してしまった…
到底輪につながっているとは考えにくい。
〝輪〟というものが経営する事だとしても中学生の私ではできることに制限がある。
考えても何も特にこれという答えは出てこない。
他に心当たりがあるとすれば、
前世で〝マハーラジャ〟を辞めた後、再起をかけて精力的に活動していた九州一帯を活動範囲とする
ボランティア団体
〝共済の輪〟
私が前世で企画から提案し結成した。
政府に関係のある友人、中学時代から地元の後輩との3人で最初は始めた小さなボランティア団体だったが、友人の連れてきた地元の有志の協力を得てすぐに規模が大きくなっていった。
後輩も組織を作るためにそれぞれ役目を分けて尽力している。彼もなかなかやり手だった。
私は何がこの街に必要なのかを事前に調査した。
ボランティアとはいえ創設するためのやるべき事は友人と後輩に任せ、団体ができてからは基本電話を待つだけが仕事の時もあった。
私はほとんど何もしてないただのお飾りだ。
根も葉もない悪い噂がたった事はあったが、私たちはまあまあクリーンな方だったと思う。
基本的には助成金、会員の方の会費、寄付、受託などでまかなっていた。
今だから言えるが一度だけ政治的な収入はあった為、完全なる白とは言えない。しかしそういった事は本当にキチンと断っていた。
私はボランティアとは口実でボランティアを本業の生業としていた。
32才からはボランティア団体一筋で生計を立て、プレイリーダーとして生涯現役でした。
気づいたら九州では最大数の会員数にまで大きくなった。
その輪をつくった中心は間違いなく私でした。
輪とはどういう事なのか?
同じ輪をつくらない。それが引っかかる。
同一の人間での輪って事なのか?
それとも同じ事をしてはいけないのか?
同じネットワークがダメだということか。
最初のメンバーは同じ年の友人と同じ中学の後輩。
私より先に死んだものはいない為2人とも生きている可能性はあるが、私は84歳で死んだ。
仲間が生きていても今の私からするとすごいおじいちゃんだ。
という事は同じことをしてはいけないという線が濃くなってきたな…。
中学生の私はこの程度まで推理できたら得意げな気持ちになった。
でも、ボランティアなんて溢れてる。
若気の至りだと思うが、私は少し運命に逆らいたくなっていた。
〝同じ輪…。〟
吉塚先輩は私たちの様な転生している人間が何人もいると言っていた。
私など一般的な能力しか持ち合わせていない。
そもそもこんなの何かの刷り込みで、現実的ではない。
もしかしたら私の子供の頃からの空想ではないのか?
しかしあの頭に起こる振動は説明できない…
どうして日本語で話しかけてきたのだ?
この現象は日本だけに起こっている事なのか?
私が選ばれた理由がわからない…
他人の脳に自分の記憶をダウンロードしたのなら本来生まれるはずだったこの体の持ち主はどうなってしまったんだ…
私はその子の人生を奪って存在しているのか?
頭がおかしくなりそうだ!!
親に相談したら私はどうなるんだ…。
反抗期とは恐ろしくなる。
〝制限〟にさえ反抗しようとしているのだ。
あの渦の中の恐怖が薄れている…
着替えようとポケットに手を突っ込んだら
吉塚先輩の番号が書かれた紙がクシャっとつぶれる。わらを掴んだ気持ちになった。
そうだ、とにかく電話してみよう。
そう思って電話の子機を持って二階に上がり、
書いてる番号にかけてみた。
普段他人に電話する事は無かったからコールの間ドキドキした。
「はい、吉塚です。」
吉塚先輩が出た。
「こんばんは、夜分に電話してすいません。吉塚先輩今電話大丈夫ですか?」
「大丈夫。あんた記憶が蘇ったみたいね。話し方が大人っぽくなったわよ」
「自覚がないです。謎が深まって何が起こってるのか理解できないんです。」
「ごめん、あたしもあなたが知りたい事全て知ってるわけじゃないの。でも明日起きたらもっとはっきり思い出すはずよ。あたしは寝てるうちに蘇ってたから。でも知ってる事なら教えてあげてもいいわよ。」
「ありがとうございます!今1つだけ聞きたいことががあるんですがいいですか?」
「どうしたの?」
吉塚先輩がそう言うと同時に
ガチャっ!
「ただいまー、帰ってるの?」
買い物袋のような物を置く音がする。
両親が帰ってきた。
親機が光っているので子機を使ってるのがバレてしまう。
なぜか知られたくないと思い慌てて言い直す。
「すいません、もし良ければ明日お時間作っていただけませんか?」
「いいわよ。そのかわりカラオケ付き合ってよ。おごってあげるから。」
行った事は無かったが知りたい気持ちが勝って、ためらわずに二つ返事で了承した。
「じゃ、明日の11時に駅の近くのマック前で」
そう言って一方的に電話を切られた。
「寝てるのー?お土産買って来てるよ!」
下から母の声が聞こえる。
電話には気づかれてない。子機を服の中に隠して下に降りると2人とも珍しくお酒を飲んで上機嫌。
父から今日参加した送別会の事を聞かれ答えていると母がお土産のケーキを皿に切り分けて出してくれる。
大好きだったチーズケーキにかぶりついて食べた。
いつもより感動が薄くなっている自覚がある。
変に思われたくなかったので一応いつも通りの反応をして、こっそり子機を戻し部屋に戻った。
やっぱり少し変化がある。明日になったら私はどうなっているのか?
なぜかこの時にはもう先ほどまでの受け入れたくない気持ちや不安は無くなっていた。
その日は風呂も入らず眠りについた。