二人の母
妄想は温かく、現実は冷たい泉。
あたしの心は波に揺られて、あの人の心には届かない。
行かないで、捨てないで
喉から零れそうな言葉は現実では出てこなくなる。
それを言ってしまえば全てが終わる気がして…。
あの人を守れないような気がして。
ごめんなさいと去るあの人の背中しか見つめる事が出来ない。
これはあたしの弱さ?
これはあたしの痛み?
黒い影が浮かんできて、あの人の顔も黒にしか見えない。
でもね、不安定なあたし、病弱なあたしを包み込んで、愛してくれたの。
母親より母らしい人。
記憶は少ししかないけれど、あの人が何度も何度も自分の身内ならと思った。
母には悪いけれど、あの人が母なら幸せなんだろうと、何度も何度も夢想した。
ごめんなさいとは言わない。
だってこれはあたしの心の呟きだから…。
それに今でもあたしが母の本当の娘か何て分からないし…。
いつも言っていたね。
あの女からかおるを奪われると。
狂ったように暴れて、あたしの首を押さえつけて、殴って。
最後には足に縋り付いて、捨てないでなんてよく言っていたよね。
あたしはね、例え血のつながりがなかったとしても、あの人を選ぶ事はないから。
もしあの人があたしの本当の産みの母なら、二人とも特別なんだ。
今のあたしだから思える事だけど、当時のあたしには無理だね。
ここまで大人になれたって事かな?
でも、ごめんね。
正直本当の事を話してほしかった。
皆に言っておくね。
金さえ積めば、戸籍は隠せるんだよ。
産まれる前にね。
だからあたしは誰の子供か自分で分からないんだ。
大人になったあたしはね、母の昔の言葉を思い出していたの。
『お前は私の子供じゃない、あの女を向かいにくる……捨てないで』
小学生の頃はね、6年間の中で半分以上行けなかったんだ。
正確に言えば行かせてもらえなかったんだ。
『お前に義務教育など必要ない』
そう怒鳴り声あげて、暴れた母をよく思い出す。
いまでも、夢に見て、悪夢にうなされるくらい。
どんな理由があれども、暴力はいけないときれいごとを言う人多いけどね。
暴力を振るう人は振るわれてきた人なんだ。
ある日新聞を読んでね70%がそうらしいよ。
悲しい事だから、心が痛むのだけどね。
あの人もそう、あたし以上の幼少を生きてきた。
あの人の人生もかなりえぐいものだよ。
あたし以上に、苦しみ、狂った純粋な人だった。
頭の線がおかしくなってね、自分の事さえも分からなくなって。
薬がないと生きていけなくなったんだ。
一生戻らないと宣告されたから。
だから母がどんなにあたしを苦しめて、傷つけたとしても、捨てはしない。
あの人の悲しみを一番理解しているのはこのあたしだから。
例え、本当の母じゃなくともね。
学校に登校出来た時にね、母子手帳が必要だったの。
あたしは母に聞いた。
「お母さん、学校で母子手帳ていうのがいるんだって」
そう聞くと表情が修羅になり、固まったの。
沈黙は数秒。
でも何時間も沈黙しているような重圧を感じた。
母はね、調子のいい時は暴力を振るわない。
まだ安定している時だったから、よかった。
『…そんなもの昔に焼いたよ』
必要ない、見たくない、お前に関係ない。
それ以上は聞けなかった。聞かなかったんだ。