不完全な楽譜
「やぁ、ツバサ。こんないい天気にすまないね。」
彼の、あるいは彼女の言うとおり、良い朝だった。
ベッドから身を起こすより早く、枕元の黒電話に促され__『やぁディア、実はいま紅茶を入れたところでね』なんて演技めいた口調だった__私は急ぎ顔を洗って寝室棟の外、ガーデンの中心にあるサンルームへと呼び出された。
「ジュビリーさん、おはようございます。」
「ふむ、たたき起こしてしまったかと思ったけど全然眠そうではないね」
私を呼び出した主は、緑や本に囲まれて優雅に紅茶をたしなんでいた。
陽の光がたっぷりと降り注ぐ植物園のようなサンルームで一人、まるで書斎にいるかのように本の山に囲まれた姿は、ただ美しいとしか形容できず、私は今日にいたるまでその性別を知ることができないでいる。
「いい天気なので目覚めの気分も爽快ですから」
「そうかい」
私はずれてきた大きな眼鏡の位置を直した。手をあててくいっと数センチ持ち上げたところで、優雅に紅茶を傾ける万能人ジュビリー=ボロウがまさか【ダジャレ】を言ったのではないかと思い至るが、数秒経ってしまっていたので、私はただ小さく首を傾げた。
「…………。」
「……。」
しかし、何故だろう。きりりと姿勢を正して、自分が起き抜けに呼び出された理由が繰り出されるのを待っていれば、年齢不詳の無邪気で無垢なきらきらとした瞳を向けられていた。
「あの、もしかして、不肖ながら、なんですが」
「うんうん」
食い気味に身を乗り出して、ジュビリーは私の言葉を促した。
「なんだい?言いかけずに。もったいぶらずに言ってごらんよ。ここには私と君しかいないんだよ。ツバサ。愛すべき(ディア)ツバサ」
必要以上に口数が多いのは、いつものことだ。私は聞きなれている。それよりも、数秒どころか数分さかのぼってダジャレを指摘するという行為に私は抵抗を覚えていた。でも、「さっきのあれ、」とかいうのは納得いかないので、あくまで簡潔に聞き返すことにする。
「さっきのはダジャレですか?」
気持ちの中では渋々だったが、私は敢えて生真面目に問うた。
「あぁ、私の自信作で処女作だ。」
ジュビリーは瞳を輝かせる。処女作だ、と言われても。
「処女作……?」
「あぁ、処女が作ったから処女作だ。」
「ぶっ」
唐突なジョークに、私はあからさまに取り乱した。せっかくもち上げた眼鏡が鼻の上にまでずれて、よけていた前髪が顔にかかる。ジュビリーは私を見て息を吐くように笑みを浮かべた。いつものことながら、余裕たっぷりで愉快そうだった。そんな余裕そうだけれど、貴方は処女以前に女性なのですか。
「かわいいね。いや、愛しいよ。」
「年頃の女子をからかうのは止めるべきです。」
「そうかそうか失礼、処女は君の方だったか。」
「…………。」
イエスともノーとも言えない、但し、もうきっと私は十分に態度で【YES】と言ってしまっているだろう。恥ずかしい。というか、小さな子供の時から私のことを知っていて、今更そんなことを聞いてくるなんて、この万能人は今朝の私をどうしたいのだろう。
「ジュビリーさん、私をこの植物園に呼び出した用件って、私を辱めることだったんですか?」
「もちろん、可愛がることだとも。」
微妙にかみ合わない。そして、性別によっては十分に問題発言でもある。……私は数年間、ついぞ聞くことができなかった質問を、ほんの思い付きですることにした。
「あの、ジュビリーさん。貴方は、男なんですか?女なんですか?」
「どちらに見える?」
改めて私はその容貌を上から下へ眺めた。失礼かもしれなかったけれど、「どう見える?」と訊かれた今はある意味でチャンスでもあった。背中までまっすぐ伸びた髪は緑がかっていて、長い前髪は片目を隠している。時折伏せられる瞳の上には長い睫毛が影を落としている。声は中性的だが、華奢ですっと伸びるような立ち姿は、どちらかと言えば女性のようだ。
「……女性に、見えます」
「そうか。いい返答だ。なら、君は私を女性として扱うがいい、ツバサ。」
「いいんですか」
「あぁ、構わないとも」
植物園のようなサンルーム、その中心に白いデスクを置き、本棚など使わずに周囲には数十、数百と革張りの本が積み重なっている。万能人とかつて呼ばれたジュビリー=ボロウはその中心で優雅に紅茶をたしなんでいる。一言でいえば__美しい。人種も性別も調節してただ美しさのイデアがそこに生きているような存在だった。
彼女と出会ったのは数年と言わず、ほとんど十年くらい前だったはずなのに、彼女の容姿は何一つ変わらずにそこに在り続けている。
「……ふぅ。しかしいい朝だ。いつものことながら、ツバサに簡単なお願いがあるんだ。」
一段落ついた戯言の応酬ののちに、今更私はジュビリーに向かい側に座るように促された。
「とは言え。朝ご飯もまだだろう。ビスケットを食べるといい」
「……いただきます」
今、私が座っているこのサンルーム兼書斎は、【ジュビリーガーデン】と呼ばれる施設の一角だった。
英国に居を構える広大な敷地を持つ孤児院、ジュビリーガーデン。しかしそれは表向きの話だった。その実は、いわゆる天才を守り育てる世界一堅牢なシェルターだった。しかし、目的は天才の養成ではなく、あくまで保護だと創設者は言う。
創設者__すなわち【万能人】ジュビリー=ボロウ。私の向かい側に座る美しい人、その人だ。
「ツバサ。君は天才ときいてまずどう思う?」
「それは天才とは何かって話ですか?」
「そうだ。幼い時から彼らの中で生きてきた君は、改めて【天才】とは何か考えることができるかい?」
天才とは。
天才と呼ばれる子供達とは。
__Gifted Child
ジュビリーガーデンで生活する子供たちは、それぞれ様々な才能に長けている。絵画、音楽、医学、パズル、暗号解読……。皆に共通して言えるのは、才能がある一定量を凌駕しているが故に、所謂、天才と呼称されていることである。
「……私の少ない経験から言えば、ガーデンの外側の人間は__それはきっと一般的な人間だと思うのですが__自分を理解を超えた才能を目の当たりにしたとき、基本的には称賛することを厭わないものだとおもいます」
「基本的には、か。」
私の思考を先読みするようにジュビリーが反復する。私はビスケットをお皿に置いて頷いた。
「はい。すごいねって。__【とてもできないよ。自分とは違う。】って。」
経験則から一般化した、一般的な人間像を私は思い浮かべる。
百人いたとしたら、そのうち何人が以下の言葉や似たような感想を述べただろうか。
天才は到達不能だ。
天才は理解不能だ。
天才は別世界の存在だ。
天才は才能が生み出した悲劇だ。
天才だって努力をするものだ。
天才が努力したら到底敵わない。
天才は、平凡な人間の失敗の理由だ。
天才なら仕方ない。
__平凡な人間なら仕方ない。
九十九人。
百人いたとしたら、九十九人はそう言うだろう。
天才はいくらかの賛辞の言葉を引き換えに、都合よく自称一般人の、正当化の道具、言い訳のダシにされるものだ。それが言葉にされようと、内心にとどまろうと、同じことだ。先に待ち受けるのは、必然的に疎外である。
才能ある人間は__とりわけ天才は__つまり、百人のうち九十九人には疎外され、残りの一人からしか同じ人間として扱ってもらえないということだ。言い換えれば、平凡を自称する人間の中にも、天才を疎外しない者が一パーセントは存在するということになるが、確率は掛け算だ。両者が出会う確率となると、それは限りなくゼロに近い。
なぜなら、天才を疎外しない平凡な人間が一パーセント存在したところで、天才と呼ばれる人間はそもそも一パーセントも存在しないのだから。
「随分と悲劇的に聞こえるけれど、じゃあツバサ、君にとっては天才とはなんなんだい?」
確かに、ここまでの考えは一般化したものだった。私にとって天才とは何なのだろう。幼少期から共に過ごしてきた家族のような皆が天才と呼ばれる以上、「家族です」と答えれそれなりに正解なのだろうが、それにしても、天才と家族というのもそれこそ一般化しすぎていて気持ちしっくりとこない感がある。それにジュビリーガーデンは広すぎて、全ての天才と家族という訳ではない。
「……私は右利きなので、左利きの人間を見た時の感覚に近いです。左利きの人間を前にしても、楽しいか、苦労するか、うらやましいなぁ、別にうらやましくないけれど、とは思いませんから。」
「ははは。つまり君は天才をどうとも思ってないってことだな」
「……つまらない答えですみません。ひねり出したつもりなのですが」
「いいや。それでいいんだ。だって、君の話で言えば、ツバサ__君こそが天才を疎外しないたった一パーセントの選ばれし人間という事になるんだからね。私たちの存在が、天才の彼らに天文学的な奇跡をもたらしているんだ。」
「天文学的な奇跡……ですか。」
天才と呼ばれながらも、天才を疎外しないたった一パーセントの人間に出会えた幸運な子供たちが、ここジュビリーガーデンには集まっている。とはいえここは表向きには孤児院であって、間違っても孤児である彼らを幸福と称すことはできまい。幸運であっても、幸福ではない。
私はカップにミルクを次ぎながら、辺りを見回した。南国の緑が生い茂る。ガラス窓の向こうにはバラの木や噴水が見える。とても孤児院とは思えない、貴族の宮廷のような庭だった。ついでに言えば門には門番が交代制で勤務しており、ゲートや扉にはそれぞれ厳重なセキュリティが施されている。世間からは隔絶されているし、いろいろな意味で常軌を逸している。
軍事施設のような広大な敷地の中心で、ジュビリーは穏やかに私に微笑みを向けた。
「ここはただの孤児院じゃない。美術館であり、植物園であり、私個人としてはバラ園のようなものであってほしい。だからハウスではなくガーデンなんだ。ここは世界一堅牢な庭だよ。あらゆる目と炎から逃れながら、天才たちは花開くんだ。」
万能人のジュビリー=ボロウは夢を見た。それは、天才を守り育てる場所をつくること。彼女は、足を組みなおしながら私の頬を指先で突いた。
「私は万能であるゆえに、ゼロなのだよ。だから君たちが愛しい」
「私は天才ではありません」
ジュビリーガーデンは天才を守り育てる場所。それは分かっている。だが、例外として私の存在があった。他の子どもたちと同じく通称で呼ばれ育ってきた私はしかし、天才を語った後に明かすのは忍びないが、私は秀でた才能は持っていなかった。施設に来た理由はあっても、才能はない、いたって平凡な人間なのである。
「たしかに君はほかの愛すべき天才とは違うが……」
私は「ツバサ」と皆に呼ばれている。フルネームは知ろうとしなかったので未だに知らない。ツバサ・ナントカというらしい。両親は日本国籍だったらしいのだが、私自身は英国国籍だ。だからと言ってどうという話でもないのだけれど。
「君は特別なんだよ、ツバサ。」
__特別。
そうなのかもしれない。こうして世界でたった一人の美しい人とお茶を一緒にのんで、朝ご飯を食べられる程度には。
「そうですね。こんな高い茶葉をいただけるなんて。」
「誤魔化さないでいい。君は、【彼】の影を見続けている。あるいは今でも、その背中が見えているんだろう」
不敵なもの知り顔で私を小突くことを止めないジュビリーから、私は視線を逸らす。【彼】というのは、とっくにこの世を去ってしまった、私の命の恩人のことだった。
私も孤児ではあったのだが、他の天才たちとは違って、【ある天才に助けられ、彼に憧れたから】ここにいる。
「あの人は………」
__特別。
それこそ【彼】は特別だった。万能人とも肩を並べ、戯言めいていたものの名探偵と呼ばれ、唯一無二の頭脳を持っていた。彼には分からないものも、敵もいなかった。ガーデンにいるどんな天才たちも、彼と肩を並べることは出来ない。
「……あの人の背中はいつでも見えてますよ。あの人はいなくなってなんかいません」
「その背中を、天才たちのなかに見ているのかい?」
「みんなのことは関係ありません。私の在り方が変わらないだけです。」
私は、【彼】の背中を追っていた。でも、そうなれるだなんて一度も思ったことは無かった。だから相棒だったり、助手だったり、名目はなんでもよくて、とにかく隣に在る存在であろうと必死だった。
ジュビリーはここで初めてずっと微笑みを湛えていた表情を崩した。ことりとカップを置き、多少の憂いを表に出したように私に揺れる瞳を向けた。
「ツバサ、君は所謂、「前を向く」つもりはないのかい?」
それが試すような、しかし答えを期待していない戯言だという空気を感じ取りつつも、私は万能人である彼女からそんなありふれた言葉が発せられたことに愕然とした。
「前を向く?」
私は逆鱗をつかれたように頭に血が上るのを感じて、あえて紅茶をくるくるとかき混ぜた。砂糖を追加してさらにもう一口。
「前を向く?」
スプーン一杯程度の砂糖では紅茶は大して甘くはならなかった。
「そうだよ。あるいは変わろうとか、一人で生きていこうとか、そんな感じだね。」
二回も確認する様に口にしてしまった私に、ジュビリーはただ肯定した。それ以上、付け加えようとはしない。私の解釈に任せられている、ということだ。やはり戯言だ。そう思うことで、私は心を落ち着かせて言葉を選ぶことができた。
「私にはその言葉の意味が分かりません。本を読めば物語の中でよく見かけましたが、いつも読み流していました。でもこうして自分がそうあるべきかと問われてしっかりと考えたところで、皆、よく意味を分からずに言っているか、単に悲しみという感情を脱することを大げさにそう語っているようにしか思えません。……悲しみを脱するには寝食や娯楽をあてがえば十分です。だったら「元気をだせ」という言葉のほうが適切ではないかと思うのです。……そうでなければ……とっくに自分とともに歩んでいない誰かを振り返るあまり後ろ向きになっているとでも言いたいのなら……過去を忘れたり解釈することが正しいことだと言われているように思えてなりませんので、私は拒否します。どちらにしても、その言葉は嫌いです。」
少し、言葉が過ぎてしまっただろうか。無闇矢鱈に心のうちを吐露するべきでないことは、なんとなくの常識で持っていたので、私はそう思うことができる程度に頭が冷えた段階で、気まずくジュビリーを見上げた。
愉快そうに笑っていた。瞳の中に、所在なさげな自分が映り込んでいる。だが、所在なさげだから、どうしたというのだろう。そんな反発を覚えた瞬間に、私は数分前の自分の予感を思い出す。
あぁ、そうだ。初めからこれは彼女が楽しむだけの時間だったのだ__と。
ならば、一ミリも訂正する気持ちはない。断固として拒否する。
気合を入れる様に眼鏡をぐっと持ち上げたところで、ジュビリーがふふっと笑った。
「ディア、私は願うよ」
一拍の間を置いて、ジュビリーは私に再び手を伸べる。
「君には変わらないで欲しい。……少々、残酷なことかな?」
「……別に構いません。私があの人を忘れるときは、死ぬ時くらいなものです。」
「構わない、か。はは、むきにならないでおくれ、ディアツバサ。だから君は特別なんだ。壊れていること__それを欠落と呼ぶような輩は美しさを分かっていない。私は君のその歪さをずっと眺めていたいんだ」
美しいかどうかではなく、美しさを解すかどうかが正しさの基準であるかのように、ジュビリーはただ美しく笑った。つまりは、彼女の言う世間一般というのは、彼女にとっては正しくないものだということになる。故に、ジュビリーガーデンの塀はこんなにも堅牢なのか。
「君の歪な在り方は、いつだって彼らの隣にいることに向いている。」
ようやく本題に入ったというように、ジュビリーは懐からひとつの便せんを取り出し、私に差し出す。あぁ、やっぱりそうなるよな、と私は無言で受け取る。
「それで、」
私はつい、ジュビリーの目も見ずに事務的に聞き返す。
「今度は誰の相棒役になればいいんですか?」
◆ ◆ ◆
「この部屋ですね。」
「ぬぃ……早く終わらようね、ツバサー」
小さな白い少女が、ドアの前で私を急かす。
舞台はジュビリーガーデン。現場は開かずの間。
探偵と助手のように、私とエスター=フローリック__通称“エス”は、小さな謎を解くためにペアを組んでいた。
もちろん、探偵はエスの方だ。
天才の利き腕じゃない方になるのが私、右手であり左手、いつでもあなたの最高のパートナー、お好みのワトソン君、相棒もバディも助手もすべからく私ことツバサの役目だ。
「ぬぃ、ワトソンくん?ツバサはシャーロックホームズが好きなの?」
「いえ、読んだことは無いのですが。」
「じゃあ今度聞かせてあげるよ!」
聞かせてあげるとは。読んであげるとか貸してあげるではないのだろうか。
「だって全部覚えてるもん、かさばるから本はもう読まないよー」
探偵役の少女は、寝起きのようにパジャマを着崩して、結ばない長い髪の毛は、銀色のリボンのように彼女の腰で揺れていた。彼女自身も眠そうに大きな青い目をこすっている。こんな外見で、彼女はジュビリーガーデンの中では知能テストでも知識テストでも一位の座を譲らないのだ。得意分野は謎解き。いわゆる推理。既にジュビリーのコネクションを通していくつもの犯罪捜査を引き受けているそうだ。
「開けて開けて!」
光沢のある赤みがかった木製のドアを、ざらついたスズ色の鍵でがちゃりと開錠する。ジュビリーガーデンの寝室棟の最上階の隅に位置する部屋だ。倉庫として実質開かずの間になっているこの一室は、屋根裏部屋と呼ぶべきなのかもしれないが、入ったことがないので果たしてこの部屋が屋根裏なのか知らなかった。
「うわ、ごほっ、うわはっ、ごほっ。」
「………ふうん、意外と明るいんだねー。」
勢いよくドアを開けると、風圧で埃がそのまま風となって吹き付けてきた。木の香り、埃の香り、そしてペンキ屋塗料のような香り。むせる私を壁にして無事のエスは、部屋の明るさに驚いているようだった。
思っていたような開かずの間の倉庫にしては明るい。埃が舞う部屋を、白い光が放射状に照らしていて、きっと写真だったらそれなりに美しいだろう。
部屋はちょうど、外から見れば時計塔のような三角屋根部分に位置していたようで、カーテンの無い嵌め込み式の窓からちょうど光が差している。そっか、あの部分の内部はこうなっていたのか、と私は感心する。
__そして、あった。
視線を巡らせるまでもなく堂々と中心で存在感を放つのは、大きなグランドピアノだった。
「すごいですね、これ!飾っとくだけでも出せばいいのに。そう思いませんか?」
部屋に踏み入れ、より近い位置でそのグランドピアノを見回す。埃をかぶっているだけで、全然古い感じがしない。しいて言えば、ずっと放置されて弦やら何やらが劣化しているかもしれない。少なくとも、外見上は古いピアノには見えなかった。
「ここは空気の通りがいいとは言えないけどね。太陽光も当たるし……木製のピアノの保管場所としては最悪最悪、ガッデムだよ。」
エスは無邪気に室内とピアノをいろいろな方向から眺める。彼女はほ長いリボンのような銀髪をくるくると指先でいじりながら、なんとも丁寧で分析的な皮肉を口にした。
「このピアノ……ジュビリーさんが使ってたのでしょうか」
「うぬぅ……ジュビリーなら何でもできるからねー。というかさっき、向こうにトロフィー見つけたし。」
長い袖からちょこんと出た指先が部屋の隅を指さす。透明なガラスケースに、ちらりと金色の杯が見えた。
「受賞されてたんでしょうか、びっくりです!」
「でも五十五年前の日付が刻印されてたよ?」
五十五年前!どう見ても現在のジュビリーさんはそんな年齢に見えない。つくづく何者なのかと、謎は深まるばかりである。
「…………エス、ジュビリーさんの生まれとか過去は推理とかリサーチできないものなのですか?」
「さすがに無理があるよー」
首を傾げてきょとんと言われてしまった。まぁ、そこに関しては仕方がないと言えばそれまでだ。ジュビリー=ボロウの正体に関しては、きっと人間ではないのだろう、という結論に私はとっくに達してしまっている。
「じゃあツバサ、さっそくさっきの楽譜見せて!」
わくわくと私に視線を送るエスターは、いつの間にか膝を抱えてピアノの下にもぐってしまっていた。せっかくの白いパジャマも銀髪も埃がついてしまう。
「これです」
助手だったり相棒だったりワトソン君だったりする私は、例の楽譜を彼女の前で広げた。
「これが【不完全な楽譜】です。」
◆ ◆ ◆
「今度新しい子が入ってくるんだが、なかなか言葉を話してくれなくてね。」
今朝、私とエスターに謎解きを依頼したジュビリーの言葉を思い出す。
「無口なんですね。」
新しい子、というのはつまり新しい天才を迎える、ということだ。了承したように聞き返すと、ジュビリーは首を振った。
「いや、無口と言うわけではないんだ。彼の才能は音楽に関するものでね。ピアノがあれば生き生きと弾きだす子のようなんだ。楽器の前では彼は饒舌だよ。」
「な、なるほど。」
楽器でコミュニケーションをとれるのなら、それは饒舌と言ってもいいかもしれないけれど、トーキングドラムでも習うべきだろうか。
「そこで倉庫で眠っているピアノを出そうと思うんだが、調律師が必要かどうか確かめたくてね。適当に触って確かめてみてくれないかな。」
「ただ、弾くだけでいいんですか?」
「あぁ。ピアノの弾き方は知ってるかい?」
「はい。弦をはじくんでしたよね?」
「…………うん、君は助手にふさわしいボケスキルを持っていると前向きに解釈しようじゃないか。」
「ボケじゃないんですが。」
__本当に知らないんですが。
「あぁ、ワトソン君だって自分の発言をボケだと思ったことはないだろうさ。」
……まぁいいか。
『ねぇジュビリー、どうしてピアノをひくだけなのにわたしもいっしょにいくの?』
一見、ラジオにしか見えないレトロなスピーカーから幼い声が響いた。
『わたしはパズルを解くのがすきなんだよ。エスはひきこもりなの。パソコンのキーボードはすきだけれど、ピアノのキーボードは叩いたことないんだよ?』
部屋と通信を繋がれた寝起きのエスの声だった。その言葉の合間にもカタカタとキーボードの音がする。
「いい質問だ。ところでエスター、君が欲しがっていた例のフィギュアだが、うまく交渉すれば日本の生産元から取り寄せられそうなのだが」
ジュビリーの適切でやり手な一言で、スピーカー越しでもエスが分かりやすく反応した。
『ぬいぃ……しょうがないなぁ。』
エスはまだ6歳と幼いながら極端な趣味嗜好を持っていて、服は白かパジャマしか着ない。度を越した収集癖を持っていて、おもちゃやパズルで床もベッドも埋め尽くされていた。ヒーローや怪獣のフィギュアは好きでも、女の子らしいぬいぐるみは嫌いだという。
端的に言って、「もので釣りやすい」、分かりやすい子供なのである。
『ということは、なにか謎があるのかな?』
エスは鋭かった。
カタカタカタ……キーボードは何を打っているのだろう。
『ジュビリー、じぶんで解けばいいのに。』
「はっはっは」ジュビリーは嘘っぽく尊大に椅子にもたれかかった。「私はもう終わっているんだよ。今更考えたりはしないさ。一瞬で終わってしまうからね。こんな日常のささいな謎だって、君たちが解くところを見たいんだよ。」
「ジュビリーさん、その謎のことを聞かせてください。」
きりがなさそうだったので私は仲裁のように話をもとに戻す。ジュビリーは私の手元の手紙を見るよう促した。
「その手紙は、ここに来る予定の少年本人が書いたものでね。」
さっきも見たように、外側には少年のイニシャルだろうか、「JMR」とサインペンで書かれている。外の封蝋は既に破壊されていたので、私は中から四つにおられた便せんを取り出す。それは手書きの短い楽譜だった。
「ガーデンにはピアノがあるが、ずっと使っていないから調律しないと使えないかもしれないと言うと、彼は急にこの楽譜を描き始め、私に手渡したんだ。「これはいま作曲したのかい?」と訊くと、彼は首を振ったよ。」
__首を振った。
それはつまり、単純な否定だ。
『ふぅん、どれにノーって言ったのかは分からないね』
「あぁそうだ」
どれに、というのは「今」というwhenに対してか、それとも「作曲」という行為に対してか。それとも両方か。当然と言えば当然、私より早く思考が進んでいたエスとジュビリーに追いつくために、私は最初の疑問を聞き返す。
封筒の差出人のJMRの意味とは何なのだろうか。
「その少年のイニシャルは、J=M=R、なんですか?」
「いいや、違う。」
スピーカーの向こうで、ターンと大きな音でキーボードが鳴らされたような音がした。まるで一仕事終えたような大げさな打鍵に違いない。
『__なるほど。謎しかないね。説明ゼロで謎のアルファベット__それは、その男の子からの挑戦状とうけとったりだよ!』
つまりは音楽好きな天才による、一種の謎ということだ。性質上それは、相手がそれを解けるかを試しているものとなる。挑戦状というほど好戦的な意味合いが歩かないかは別として、そういった曖昧なものにエスは負けず嫌いにも反応したようだった。
『はやくこっちにきてその楽譜みせてよ、ツバサ!』
待ちきれない様にスピーカーの向こうからエスが声を上げる。たしかに、ここで考えようとしない万能人と、探偵役の居ない助手役とで不完全な楽譜とにらめっこするよりは、主役の探偵の前で広げた方がよさそうだった。
そして楽譜なのだから、実際にピアノをはじいたほうがよさそうだ。
『もしかしてピアノの弾き方をしらないの、ツバサ?』
「いえ、弦をはじく楽器じゃないってことは知ってますよ。」
謎解きもピアノの演奏も、どちっらもエスに任せようと決めて、私は早速、緑の生い茂るサンルームを後にしたのだった。
◆ ◆ ◆
「どうですか?……変な楽譜ですよね、エス。音符は並んでいるけれど、調もテンポも書かれていないし、異様に短いし、なんだか楽譜としては不完全なように見えませんか?」
「不完全だねー、うん、少なくとも楽譜としてはね。」
ピアノの下にもぐったエスに両手で広げて不完全な楽譜を見せると、ほんの数秒間指を咥えて見ていた彼女は、そんな意味深なことを言った。なにかアタリがついているのかもしれない。
「楽譜としては?」
だから私は繰り返した。謎を解く手助けと、推理の披露を円滑に進めるのが私の役目なのだから。
「うん、きっとこの状態で完結してるんだよ。」
「……。」
「その封筒もね。これはたぶん、楽譜じゃなくて手紙なんだよツバサ」
だから封筒に入っているのか、なんてずれた納得をしつつ、私はもう一度楽譜を見た。やたら三拍が多いし、でたらめな鼻歌で再生しようにも、とても曲には思えなかった。
「エス……」
「…………」
エスの大きな水色の瞳は私をちらりと一瞥し、すぐに伏せられてしまった。狭くて暗いピアノの下で膝を抱え、幼い子供のように指を口に運ぶ。彼女は、まるで自分の一人部屋に閉じこもるように、自分の世界に入ってしまったのだろう。
私は自然と、余計なことを考えてしまう。この施設に来る前のエスは、一体どういう環境にいたのだろう、と。
ジュビリーによれば、彼女は出会った時から両親を知らない子供で、こともあろうか両親を殺した犯人のもとで、そうとは知らずに協力させられていたのだという。ジュビリーが彼女を【見つけ】出し、ここに連れてこなければ、エスターという少女はその才能でさらに多くの命を奪っていたかもしれない。だが、エスター本人は、それを__一緒に暮らしていた人間が自分の両親を殺した人物だと、知っていたのだろうか。
白い服しか着ないエスターという少女は、いつだって純真無垢で、汚れを知らないように笑うことしかしない。6歳という年齢は、悲しい過去があったとしてそれを無視して笑えるような歳ではないはずだ。ひょっとして彼女は、何も知らないのでは__何も知らされず、全てから守られているのではと思うことがある。それこそ、嘘と夢で固めたおとぎ話のように、ジュビリーの巧みな言葉で、傷つかない形でここに来たのではないだろうか。
謎を解くことが好きならば、それだけに専念していればいい。その先にある【余計なこと】は、すべてがエスターという少女の外側で起きているかのように。
__この不完全な楽譜__手紙をジュビリーに託した少年はどうなのだろう。
『なんだい、悲しい話になるよ?』
電話を掛けると、呑気そうな声でジュビリーが答えた。ワンコールで出たあたり、未だにあのサンルームでお茶をしているのだろう。
「いえ、その、詳しいところまではいいんです。ただ、その少年は、どんな子なんですか?ここに来ることになった経緯とか……名前だけでも、謎を解くヒントにならないかなと……」
悲しい話になるのなら、深くは聞く必要はない、ただ、やはり名前も何も知らない状態でというのも……。
『はは、そう思い悩まないでおくれよ、ディアツバサ』
私の迷いが伝わったのか、ジュビリーは話し始めてくれた。
『彼__あぁ、彼さえよければ通称は【ロマン】君としよう__ロマン君に出会ったのは、ウィーンで開催された小規模なピアノのコンテストだ。いや、私は出場していないよ。ただの余興、あるいは才能探しのフィールドワークさ。彼はラヴェルの『ソナチネ』を弾いていたな。彼の父は難病に侵されていてね、ロマン君が優勝するところを見たいと願って、そうして彼が優勝し、その報せを聞いた直後に息を引き取ったんだ』
「………。」
『それを母親がロマン君のせいだと考えた。運命だったよ、私が通りかからなければ、彼はそのまま母親に首を絞められ、窒息死させられるところだったんだ。』
「ピアノを……父が望んだとおりに優勝しただけで、母親に殺されかけたってことですか?」
『ああ、その通りだ。【お前が殺したんだ、お前が優勝しなければ、お前が父に電話しなければ、お前がピアノを弾かなければ、お前が居なければ、お前が生まれなければ、今更どうにもできない私は、せめて復讐してやる】と、そんなことを言っていたかな。これ以上の彼自身の情報は持っていないよ。だってロマン君はそれっきり今日まで話そうとしないからね』
「それで母親はまだ、彼を恨んでいるんですか?」
『いや、亡くなったそうだ。理由はご想像の通りだ。』
私は言葉を失った。絶句ではない。なんと返事してよいか分からなかったのだ。「ありがとうございます」なんてとても言えない。「分かりました」なんて淡白に流すこともできない。自分のことでないと、こうも割り切れないものなのか。
「ロマン君は……」
「……ツバサ!ジュビリー!」
と、まるで視界の隅から割り込んでくるように、エスが叫んだ。私はただ驚いて受話器を取り落とさない様に振り返った。
「いま、その子、ロマン君の話!」
『どうしたんだい、エスター。何か分かったかな?』
「コンテストで弾いたっていう曲と作者!もう一回教えて、ジュビリー!」
エスは私の服を引っ張りながら必死に受話器に向かって声を上げる。私は彼女に手渡した。それと同時にジュビリーの声が聞こえた。
『__ラヴェルの『ソナチネ』だよ』
◆ ◆ ◆
どうやってジュビリーとの通話を終えたのか思い出せないほどに、エスの動きは速かった。気が付けば彼女はあっという間にピアノの前に移動していて、その椅子によじ登っていた。あわてて私はついて行く。
「わ、分かったのですか?エス」
「うん、分かりそう!だから弾いて!」
椅子の上で足を揺らすエスは、私にピアノの演奏をさせるつもりらしかった。
「そんなこと言っても、私は楽譜を読めません」
「楽譜を読まなくてもいいんだよ。ジュビリーが言った通りに、順番に音を鳴らせばいいんだよ」
ただ、グランドピアノを触るだけでいい。即ち蓋の部分__前屋根、大屋根というらしい__を持ち上げ、鍵盤を一通り叩くだけ。
「…………。」
エスは首を傾げる。何か、おかしなことをしてしまっただろうか。
「あれ、どうしたの?」
「音を鳴らすのに上の部分を開けなくてもいいんだよー」
「そうなんですか!」
それもそうだな、と私は持ってきたタオルで鍵盤を覆う鍵盤蓋の埃をふき取る。意外と重みのあるそれを持ち上げると、白い鍵盤が現れた。蓋のおかげか、ほとんど新品のように汚れは見当たらなかった。弾く前から、全然大丈夫そうに見える。
最初の音は__ド__Cだろう。
即興で楽譜を読めなくとも、ピアノを弦楽器だと勘違いしていても、ドレミの歌くらいは私は知っていた。音階がドレミファソラシドであることと、アルファベットで表せばCDEFGABになることは知っている。
指を置く。ポロン、とはいかず、ずっしりと重かったので、指に力を込めた。押し当てるように鍵盤が沈むと、深い響きが部屋を巡り、そしてまた耳に入った。
「ん?」
なんだか音がおかしい。知ってる音と違う。
__ド、ミ、ソ
__C E G
音程を変え、ペダルを踏み、何度も鍵盤を鳴らす。やっぱり変だ。
「エス、これ調律ずれてると思いませんか?」
「んー。」
エスは私の言葉を受けてもじもじと足の指を動かす。私には音楽の才能はないし、絶対音感もない。しかし、ドレミファソラシドの大まかな響きくらいは分かる。なんとなく、ずれているのだ。
「……やっぱりずれてますよ、これ。」
「きゅう……そうだね、まぁ、今回の場合、あまりずれてるかどうかは関係ないんだけど」
振り返って確認するようにエスに問いかけると、意外にも煮え切らない返答が帰ってきた。首を傾げ、「よくわからない」といった様子だ。謎が解けたはずなのに、何が分からないのだろう。
今度は下から順にすべての音を鳴らす。まずは白鍵だけ。次に黒鍵だけ。最後に全部通して88鍵、鳴らしてみる。
「……ふぅ、全部鳴らしましたよ、エス。」
くるりと振り返ると、エスはピアノ用の丸椅子に片足立てて座りながら髪の毛をくるくるといじっていた。椅子を通り越して、銀の髪がしゅるりと尻尾のように垂れている。耳を澄ましているか、考え事をしている様子だった。
「……うーん、分からない!」
そう言ってエスは、急に静から動に移行するように椅子から飛び降りた。
「帰ろっかツバサ」
彼女はそのままぺたぺたと素足で部屋を出ようとする。
私は取り残されたような気分になる。急いでグランドピアノを片付け、その背中を見る。小さな背中なのに、小さいだけで、もうそれ以上成長しなさそうな後ろ姿。完成しきっていて、終わり切っている、真っ白な頭脳、エスターという天才。私が【あの人】の死で壊れてしまったと言われるのなら直りたくないと願うように、彼女も変わることを拒むのだろうか。あるいはこの先、壊れてしまうのだろうか。ガーデンの外の人間のうち九十九パーセントが天才を疎外するように、彼女の白さも様々な色を寄せ付けてしまうだろう。その時エスターという少女は、「白すぎる」と言われるのだろうか。そして「前を向け」と、心無い言葉によって現在の在り方に死を望まれるのだろうか。
そして本当に、在り方だけでなく存在まで死してしまうのだろうか。
「……いけませんね、分かり切ったことです」
私は思考を途切れさせるために重い眼鏡の位置を正した。
変われと言われるのなら。
死ねと言われるのなら。
__だから、私がいるのではないか。天才ではない凡人の私は、彼らを庇うことができる。「彼には人の気持ちが分からない」というありきたりな台詞に、「そんなことはありません、私はあの人の優しさを知っています」とありきたりな台詞を返すことができる。そうするべきで、【あの人】が死んだときもそうするべきだったのだ。つまり天才の隣にはいつでも私という相棒がいるべきで、それで話は終わりなのだ。例外はない。
「まぁ……どうでもいいことですが」
そんなことはこんな日常の謎や不完全な楽譜の前では些細な問題ですらない。関係ない、名探偵を想う相棒の独白に過ぎない。
そんなさっき「ほとんど分かった」と言ったはずのエスが今、全然分からないって言った?
「エス、結局、何も分からないというのが結論なのですか?」
既にドアへと向かいつつある小さな背中に私は引き留めるように問いかけた。
「ふふ、何も分からない……そうは言ってないんだなーツバサ。」
「……むう、なんなのですか?」
「これはピアノの調律の話なんだよー」
「調律の話?」
「うん」
エスはさっぱりと無邪気に笑った。
「ロマンくんの書いた不完全な楽譜は手紙だった。手紙の内容は、ピアノの調律についての注文だった。うーん、でもツバサに退いてもらってよーく聞いたところで、わたし音痴だから、全―然わからなかったけどね!」
「だから一応調律師さんは呼ぼうね!」なんて適当な結論を述べて、てへへ、と笑ったまま、いよいよエスはピアノにもう用はないと部屋を出て行ってしまった。元気に飛び出して行ったので、私は慌てて施錠を済ませた。
__さて、どこから解説を求めるべきだろうか。
一気に全てを語り終えたように自室へ帰ろうとするエスの見えているものを、相棒役の私はひとつひとつ紐解かなければならない。私だけがサンルームに戻ったところで、「つまり一応調律はした方がいいかもってことらしいです」なんて返答をしても、ジュビリーは謎の全貌、つまり過程をも求めるだろう。
「ええと、つまり、この不完全な楽譜は暗号のようなもので、それをエスは読み解けたってことですか?」
「そういうことだよ!」
「………………」
「…………」
「………………………………」
「……きゅう」
私は続きを促すように、あるいは続きを聞きたくてたまらないという風にただエスを見つめた。一回り年下のはずの少女は、私の無邪気な視線を受けて困ったように目を逸らす。
「…………説明しなきゃダメ?」
「はい!」
どうだ、大人げないだろう。詳しく説明せずにはいられないだろう!__とはいっても、例えばこの場が殺人事件の推理シーンで周囲が全員容疑者だったりしたら使えない技ではある。
「お願いします。それにジュビリーさんだって結果に満足しないと、エスの欲しがってたフィギュアを手配してくれないかもですし」
「ぬぃ……ツバサが代わりに解説するっていうのは?」
「私にはさっぱり分かりませんから、「楽譜は実はフェイクで、差出人のJMRにも意味がなくて、なんとなく炙り出しをしたら別の文面が浮かび上がったんです。ほら、仄かにレモンの香りがうっすらとするでしょう?」とかでよろしければ代弁しますが」
「そ、それはだめー!」
「レモンの香りのことなら心配はいりませんよ。ジュビリーさんは紅茶の横にレモンを置いていましたから、香りがすると言えば気のせいでも押し通せます」
「そういうことじゃないの!」
「えー大丈夫ですよ。安心してくださいエスター、仮にがっかりされたら「真実なんて意外と呆気ないものです」と言うまでです」
「いやぁ!人でなし!」
ぽかぽかと、だだをこねるように小さな拳で私を殴って抗議する少女がそこにいた。というよりも、十歳年下の女の子をいじめる意地悪なお姉さんがいるのかもしれなかった。
◆ ◆ ◆
どうにか一緒にジュビリーの元へ向かい、【不完全な楽譜】の暗号を解説してもらうことをエスに約束させた私は、紙とペンがあったほうがいい、と言われてわさわさと準備をした。道具を準備していると、気分は探偵の助手というより、マジシャンのアシスタントのようだった。エスは一足先に渋々サンルームへと向かっていた。
「お待たせしました。」
ジュビリーのサンルームに入ると、彼女は流石にもう紅茶は飲んでいなかったが、代わりに一冊の分厚い辞典のような本を開いていた(肩にオウムがとまっていた)と、その視線の先には大人用の一人掛けのソファの上で必死に楽な体制を取ろうと寝がえりを打つエスが居た。
「エス」
「ぬぃ、はーい」
名前を呼ぶと、エスはそのまま転がるように床に降りた。サンルームの中でもその床だけなぜか絨毯が引かれていたので痛くはなさそうだった。私は苦笑し、彼女の目の前に白い紙とペンを置いた。渋々、と言った様子でエスは自室から持ってきたのだろう、いかついロボットのフィギュアを脇によけた。
「えーと、あの暗号はね……」
「やはり暗号だったのか!」
遮るように、かぶせるように、ひどく通る凛とした声で感嘆したジュビリーの声が降ってくる。横やりの入ったエスは視線を上げ、「きゅう」と小動物のような恨めしい声を漏らした。しかしフィギュアの件があるのか、文句は言わなかった。
「……ツバサ、便せん出して」
「はい」
差し出すと、エスは封蝋の横の「JMR」の表記を指さし、ジュビリーに見えるように高く持ち上げた。
「このJMRはラヴェル、のことを指しているんだよ」
小さな白い袖が高く掲げられる。それでも床の高さからなので、ジュビリーは身を乗り出すようにして自分の視線の角度を調整した。
「ラヴェル?作曲者のことか?」
「うん。フルネームでJoseph-Maurice Ravel……ジュビリーが初めてロマン君に会った時、コンクールで弾いていた曲……その作曲者のイニシャルってことだねー。ジュビリーあての手紙なら十分、ヒントの可能性はあるでしょ?」
「なるほどですね!」
「ジュビリーが「これは今、作曲したのか」との問いかけにロマン君はノーと言った。それはつまり、これが曲じゃなかったからで、作曲していたわけじゃなかったからだね。」
「曲ではないというなら、それはなんなんだい、エスター?」
ジュビリーはシンプルに疑問を呈した。やはりうっすらと笑みを浮かべていて、彼女は「考えない」ことをしなければ紙一枚の暗号などとっくに解いてしまっていることだろう。エスは床に広がった髪をくるくるといじった。
「曲じゃなくて、音符を並べただけの暗号、そして手紙。書かれているのは、ピアノの調律についての注文だよ」
ジュビリーがほう、と息を吐き「暗号の解き方をおしえておくれよ」と愉快そうに手元の本を閉じた。肩のオウムが空気を呼んだように「なんでーなんでー」と鳴く。私は見覚えのない南国の鳥の声に驚き、眼鏡をただした。
「おっけーだよ」
エスは私の持ってきたペンのキャップを勢いよく外した。蓋は行儀悪く、ぽーいと遠くに投げられる。
「ラヴェルで暗号といえばその解読法は一発でわかるよね?」
「はい、分かりません!」
私はここぞとばかりに声を上げた。エスは大きな目を半分にして私を見返す。
「……ぬぅ。暗号分野では初歩的なものだし、スタンダードだし、検索エンジンで楽譜と暗号でサーチしたら真っ先に出てくるんだけどなぁ」
「ワトソンなので分かりません。でもたとえばレモン汁で……」
「あーあー!」
頑なにでたらめなトリックを披露されるのを嫌うエスだった。
「これはね、『ハイドンの名によるメヌエット』っていう曲で有名になった、音階とアルファベットの変換法を使っているんだよ」
解説をちゃんとすることにしたのか、やけに「有名になった」を強調しつつも間を置くことなくエスの手が無駄に大きな字で、白い紙にAからGのアルファベットを横並びに描いていく。
「まずは音階はAからGまでのアルファベットで表記して……」
ABCDEFG
エスの手は、Gまで横並びに書いたのちに、改行し、引き続き二行目にHからNを書いた。
ABCDEFG
HIJKLMN
そのまま同じ文字数ごとに改行を繰り返し、最終的にはAからZ、すべてのアルファベットが4行に収められた。
ABCDEFG
HIJKLMN
OPQRSTU
VWXYZ
エスは「うん、おっけーだね!」と顔を上げた。
「一番上のAからGが音階になっていて、それ以外のアルファベットは上の音階に倣うだけだよ。楽譜に並べられた音符をこの変換表で変換するだけで単語になる。簡単でしょ?」
私は手元の楽譜__暗号を見下ろした。
「つまり、縦に見るってことですか?ド__Cの音が楽譜に書かれていたら、Cの列を縦に読むということですか?」
「うん、そうだよ!」
ABCDEFG
HIJKLMN
OPQRSTU
VWXYZ
五線譜内の音符を、この表に当てはめると。でも、実際にやってみようとして私は行き詰ってしまった。
「……エス、駄目です。それだけだと変換は無理です。この対応表は四行あって……ということは、例えばドの音にあたるアルファベットはC,J,Q,Xと四つある事になるけれど、どうやって区別したらいいのでしょうか?」
「拍数」
さらりと、事も無げに言われた。
「音符に込められる情報には音階のほかにも拍数があるんだよ……うぬぅ、私だって知ってたわけじゃないんだよ、ラヴェルの暗号では拍数には言及してなかったから、これはオリジナルだーって考えたんだよ。頭の中でこの拍数の意味は何だろーって思考して施行して得た答えなんだよー。……ぬぃ、だから、つまりね、一拍の四分音符が一行目、二拍の二分音符が二行目という風に変換していくんだよー」
「……なるほど、やってみますね!」
__ド:二拍、ソ:三拍、ミ:三拍、ファ:三拍
__道理で付点二分音符が多いわけだ。
__シ:二拍、ソ:二拍、ファ:三拍、ラ:三拍、ソ:二拍、ラ:一拍、ファ:三拍、シ:二拍、ラ:三拍、ソ:二拍
浮かび上がった文字列は__【JUST INTONATION】だった。
「な、なんかそれっぽい言葉が出てきました!」
楽譜の中の音符に付記するように書き加えると、ちょうど意味のありそうな言葉になった。ジャストイントネーション、今すぐその意味は分からないが、それこそ検索エンジンに入力するだけで分かるだろう。
「そうか。それがロマン君の注文なのか」
「わかるーワカルー」
茶々を入れるオウム君の横で、ジュビリーは穏やかに美しく目を閉じた。
「Just Intonation__純正律__これは調律法の一つだ。一般的には平均律という方法で調律がされるのだが、マイナーな方の純正律には美しい響きがあると、根強いファンもいるのだよ。……かくいう私も純正律の響きは嫌いではない。」
「つまりは、ロマン君は、「調律が必要なピアノがあるのなら純正律で頼む」と、そう言いたかったのでしょうか?」
「まぁそういうことになるな」
ゆっくりと目を開き、ジュビリーはもったいぶったような緩慢な動きでエスを指さした。エスはきょとんと指を咥えて彼女を見返す。
「エスター、助かったよ。そのロボは君のものだ」
「やったー!」
弾かれたように立ち上がったエスは、脇によけていた一見、地味な灰色のロボットを胸に抱きかかえた。どうやらそれが先に言っていた「例のフィギュア」らしかった。日本の生産元に言って手配する、というのはただの方便で、とっくに取り寄せていたのだろう。
「さんきゅうジュビリー!じゃあお部屋にもどるね!またねツバサ!」
声を掛ける間もなく、素足とパジャマでロボットを抱えた白い少女はサンルームを出ていく。芝生の中庭を横切る間も、彼女は裸足のままだった。あっという間に遠くなっていく姿に、ちらりと銀の髪がリボンのように揺れるのが見えた。
「__ところでディア」
背後からの穏やかな声に、私は振り返る。ディア(愛すべき)などと呼ばれて真っ先に振り返るのは遺憾だったが、他に自分以外にいない空間だ。
「なんでしょう?」
「この便箋、いい香りがすると思わないかい?」
顔を隠すようなしぐさで、ジュビリーが四つに折りたたんだ【不完全な楽譜】を自らの前にかざす。なんだろう、とそれを眺めているとそれが手渡されたので、私はおとなしく受け取った。
「レモンの香りだ」
「……そうですね。先ほどついてしまったのでしょうか」
首を傾げる私に、ジュビリーは微かに目を細めただけだった。
「おやおや、こんなところに偶然キャンドルがあるね」
演技めいた口調で取り出されたキャンドルと私を交互に見つめ、ジュビリーは不敵な笑みを浮かべる。
「ふむ。なんとなく思い付きなのだが、このレモンのような香りのする楽譜をこのキャンドルの火であぶってみようじゃないか」
無言の私に、何も反応しない私に、それでも演技じみた大げさな仕草で、流れるような動作でジュビリーはあっという間に楽譜をあぶってしまった。燃えてはいない。ただ、彼女が分かっていたように、私も分かっていたように、そこには文字が浮かび上がった。
__JUST INTONATION
「……これはなんの冗談だい?ツバサ」
「……別に、おっしゃる通り、ただの冗談ですよ」
まるで私が悪いことをして、それを咎める出なく暴こうとしているように、鋭い視線が切っ先のように私を射抜こうとしている。でも、私にはなぜかわからない。
「どうしたんですか?意味はありませんよ」
「意味はなくとも、事実はあるだろう。この便箋、君たちが戻ってきてから細工をする暇はなかった。つまりはエスターが謎解きをするより早くこの【あぶり出し】は仕組まれていたことになるよ。……一応言語化して明確化しておけば、君はこのロマン君の書いた不完全な楽譜の解読ができていたということだ。」
「それは……」
言い淀むように言葉を区切ったところで、私は諦めた。相手はジュビリー=ボロウだ。万能人であり、そうでなくとも昔から私のことを見ている。ツバサという人間が、ずっと【あの人】と一緒に居たところを、相棒になろうとしていたところを、見ていた存在だ。
「……それくらい簡単なら、分かりますよ。初歩的な謎です。それこそエスが言っていたようにインターネットで検索すれば簡単で初歩的な暗号でしたから」
スマートフォンを開いて「暗号 楽譜」と検索して、ついでに「作曲家 JMR」と検索で答え合わせだ。そこに閃きも知能も必要はない。それこそ、凡人の私が答えを得られる程度には。
「……まるで犯人を追い詰めている気分だよ、ディアツバサ。回りくどい言い方をしているのは、わざとかい?」
「何がですか?」
「どうして分からないフリで通そうとしたんだい?」
もう何度目かもわからない。ジュビリーはにやりと笑った。
「……「私はあくまで相棒役ですから」という型に嵌った答えを予想したうえで私はそれ以上の返答を求めるよ、ツバサ。相棒役ならエスターに対して【サンルームでレモンの香りがしても不思議じゃない】なんて釘は打たないだろうからね。」
「…………」
「明らかに便箋からはレモンの香りはする。だがエスターは君の【イタズラ】には気が付かなかった。便箋の香りは自分が知らない間にサンルームでついてしまったものだと解釈し、あぶり出しというアイデアは君の戯言だと思ったのだろうな。唯一の白い頭脳である彼女まで欺こうとするなんて、面白いことをするじゃないか」
追い詰めて自白をするように差し向けられている気分だった。だから私は「はは……」と諦めて笑った。それは自然だった。
「そこまで言うなら分かってるでしょう。私のやっていることの意味を」
「…………」
どうしても私に言わせたいジュビリーは、何もさしはさむ言葉を口にしない。
「__これは【バックアップ】です。」
私は両手を広げた。何も持っていません、害をなすつもりはありません、というジェスチャーだ。
「もしもエスターという探偵役に謎が解けなかったら、あるいは投げ出してしまったら、私があてずっぽうで【偶然】真相に辿りついてしまったように謎を解くつもりでした。だから、エスにもジョークで言ったんですよ。__「私にはあぶり出しのアイディアくらいしか思いつかないけれど」と。」
「もとの暗号の解き方を知っていて何故わざわざそうするんだい?」
「それは、私が相棒だからです。謎を解いてしまってはだめなんです。でも、謎は__事件は解決されなければならないし、悪人は捕まえなければいけません。だからバックアップなんです。いつでも隣にいる相棒という存在には、それができます。……悪は許さない、というのは、【あの人】の受け売りですが」
「……そうか。そのためには、探偵役よりも早く真相にたどり着かねばならないという構造的欠陥があるように思えてならないけれどね」
「……私にはできます。できなくてはいけませんから」
探偵役が誰でも構わない、誰の隣でも構わない、相棒がいれば、探偵役は一人にならない。バックアップがあれば、悪は必ず暴かれる。そうやって私はいつか自分を助けてくれた【あの人】の正義を突き通し、守ることができる。
死して尚、消えることのない正義に寄り添える相棒は、生きている私だ。
死んだ者の正義を継ぐのはそれを知っている生ける者__
__ツバサという人間が生きているからこそ、できることだ。
だから私は、誰の隣にいても、【あの人】と共にある。
ジュビリーの目が伏せられ、そして揺れた。それは、つい今朝、私に向かって「君は前を向かないのか」といった質問をした時と同じような影を持っているように見えた。
「……ツバサ。君は壊れているようだね。」
「だとしたら、直りたくありません。」
それでこの話は終わりだった。探偵の推理のように、明かされればそれでお終い。語ることで何かが変わることはない。
「ジュビリーさん、ところで、調律のことなんですが」
「うん、なんだい?」
私は音楽好きな少年、まもなく会うことができるであろうロマン君によって書かれた、秘密の五線譜をジュビリーに掲げた。レモンの香りがふわっと鼻先を掠めた。
「エスと二人でピアノを鳴らしてみました。なんとなく音程がずれているような気はしましたが、結局、聞き分けることは出来ませんでした。ですので、調律師をよんであげるべきと私は考えます。」
しかしジュビリーは首を振った。
「ははは、忘れていると思うから言っておくけれど。ここはジュビリーハウス。万能人ジュビリー=ボロウによって建てられた愛すべき天才たちを守り育てる楽園だ。もう一度言うよ、私は万能人ジュビリー=ボロウ。ピアノの調律くらいできるってことさ。」