Born Of Kresnik
あぁ、闇だ。
耽美な闇だ。オリンポスの山から見下ろした奈落のような、暗闇だ。
無限だ。
王は個から無限に還ろうとしている。
無数の個は閃きに突き殺され、無限に散ろうとしている。
ぼたぼたと血反吐と塊を吐き、無様に跪く。
「王よ」
眼前に立つは剣。
鋼なる意志の聖。
闇をさらに暗き微睡みに照りつける光だ。
破、破、と炎が滾る。
鴉が獲物を求め空彷徨う。
夜明けの太陽が刻々と審判までの時を進める。
三千世界の躯、流す赤き生命は余すことなく地を潤わす。
「貴方は、終わりだ」
「………………」
終わり?
とうに終わった者に終わりを宣告する?
馬鹿馬鹿しい。三文の価値もない、猿芝居のようだ。
「傍らの后も、寵愛する姫も、従える近衛も、守るべき民も、収める領地も、もう、ない」
熟しすぎた果実のように、身体がちぎれて、落ちて潰れる。
それが、なんだ。
その言葉を紡ぐ力ももはや枯れている。
「だから…貴方はもう、休んでいい」
沸、と何かが滾った。それは活動をやめた火山が最後の大舞台とばかりに噴火するように、王を突き動かした。
「……知った風に囀るな、小僧ォ!!」
遠くの無表情な山に反響するほどの叫び。焼け焦げた雑草が生きているかのようになびき、また死んだように頭を垂れる。
「私を私を憐れむだと?同情するだと?それは最大級の汚辱だ、鷹の羽根をもぎ、鶏と称して晒すのと同義だ!!」
大気に晒された溶岩のような血の塊を吐き散らす。
「ましてや…人間風情に…!」
激しくむせ返る。
だが、案山子のように突っ立っている人間は、いくら王が怨嗟に満ちた言葉を投げようと、刺し殺すように睨めつけようと、そのぬるま湯のような目をやめなかった。
「……本当はやめたかったんですよね」
それは、どこか遠くを、ずっと手の届かない昔を見るような顔つきで、つぶやいた。
「本当は、もう人を殺す理由なんてなかったんでしょう」
「……優位を取った故の戯言か?小僧」
ゆっくりとかぶりを振った。
「十三年前を覚えていますか、プルートニク。貴女は一つの国を滅ぼした」
「……―――――の生き残りか」
「ええ。……僕は、貴女に救われたんです」
「……………」
「今でも思い出せますよ。視界に入ったが最後、全てを殺すと言われるプルートニク。その視線に入った時、僕は死を覚悟しました。ですが、貴方は少し沈黙した後、皆殺しにした。ここには躯しかない。そう言って、魑魅魍魎と共に立ち去った」
死の王は枯れ葉が擦れるような笑いを発した。
「覚えがない」
「僕にはあります」
あの時の、あの虚無にくり抜かれた目。
無色の悲しみを背に自分を見つめた目。
囚われているのだな、と思った。
だから、自分は、あの孤独な王を救おうと思ったのだ。
「だから、僕は最後に立てたんじゃないかって」
他の仲間は皆プルートニクを恨んでいた。家族、故郷を殺され、地獄のような毎日を復讐という漆黒の瞬きを希望にして生きてきた。
きっと、彼らの方がまともだっただろう。おかしいのは自分だ。
だが、それでこそこうやって、彼女と言葉を交わすことができたのではないかと。
「嗤わせるな。たかだか虫けら未満の肉塊など気にもかけぬわ。生殺与奪は常に私が握っている。多少の気まぐれを起こそうが私の勝手だ。そこに意味などない」
「たとえそうであっても、僕が貴方に救われた事に変わりはない」
はっ、と王はささくれた呼気を吐いた。
最後の最後で、見限り見下げ果てた下等生物に同情されるなど…。
堕落極まりない。砂糖漬けの死体のようだった。
だが王は、今際の血迷いか、言葉にも形容もできない人肌の温もりを、血で血を洗い続けたその胸に、確かに知覚した。
ふざけるな。理解不能の感情を引き裂こうと発した言葉は、焼け焦げた苹果のような血塊に妨げられる。
違う。私は憎しみだ。全てを焼き尽くす天の業火だ。雑念を払拭するように叫ぶ。
「……私は、お前達人間が憎い。争い!全てを奪い!築いてきた歴史も何もかも、人間は灰燼に回帰させる!春の陽射しのような思い出も!真夏の浜辺で語る愛情劇も!秋の涼風を浴びて団欒する休日も!冬の雪で戯れる子供達も、全て何もかも破壊する!」
だから…私がそんな事のないように。
王は、はっとした。
この胸をつんざく感覚はなんだ。あふれる血液以外のこの液体はなんだ。
こんなものは捨てた。私は、吸血鬼だ。吸血鬼はそんな不純物を含有しない。
ただ昏き殺意だけ携えていればいい。
なのに…これは?この感情は?
しゃら、と人間は剣を握り直した。
彼はもう、己が初めて感情を注いだ人物を苦しませたくなかった。
だが、同時にもう少し、二人だけの時間を過ごしたかった。
迫る朝日。吸血鬼を焼き殺す太陽の光を遮るように、人間は王の前に立った。
「私は貴女の全てを奪った。そして貴女は私の心を奪った。今、私は貴女の最後の領地であり、傍らの妃であり、寵愛すべき姫であり、位を継ぐ皇子であり、従える近衛と侍従、守るべき民です」
言葉を切り、静かに続ける。
「私は貴女を殺しに来たのではありません。共に死にに来たのです」
ふざけるな。いつまで愚弄する気だ。私は愚かな人間の末端に至るまで殲滅し、絶滅し、永劫の無に追放する事、それこそ我が身朽ち果てようとも成す目的だ。
しかし、その詩篇は紡がれなかった。
空気を震わせることができなかった。
誰彼に遮られたわけでもなく、ただ発することができなかったのだ。
わかっていた。本当の事が
「…一つ問おう。私は何故、敗北した」
人間は朝日を背に浴びながら、剣を振るった。
「――――――――――――――」
幕切れ
■■■■■
その日、私の世界は終わった。
赤黒く、死にまみれた塗料が、空も大地も人も何もかも染めつくす。絢爛たる宮殿、金の装飾は一つ残らずはぎ取られ、宝物庫には閑古鳥が鳴きながら燃やされている。
勇敢に抗う兵士を刺し殺し、首をはねて窓から投げ捨てる。
必死にかくまった女どもの壕は暴かれ、狂乱する熱気に蹂躙されていく。
高説を垂れる悪魔のような人間の前で一人一人家族が血祭りにあげられていく。
誰の懇願も届かず、誰も力を持たず、抗えず、すべてが滅んでいく。
嫌だった。
ここに美しき人達がいた証が、すべて塗り替えられ、書き換えられ、消えていくのが。
だから、私は啜った。
父と、母と、兄と姉と、弟と妹と、叔母と伯父と、祖母と祖父と、まぜこぜになった呪いを啜った。
そうして私は死んだのだ。
人としての、私は。
■■■■■
気がつくと私は明るいところにいた。
生前というのもおかしいが、その習慣でつい、影を探してしまう。
ここはどこだろうか。間違いなく天国でないのは確かだ。
空は青みがかった濃闇でなく、紫じみた色だった。どうやら夕暮れらしい。
明るいのは頭上に、この太りに太った芋虫のようなものが光っているからだった。ランタンのようだが、外殻は紙でできていて見慣れない文字が書いてある。
ろくに舗装もされていない道を進む。道はとても広く、左右には敷居なのか、赤い漆喰塗りの木製の壁が続いていた。
建物の屋根は、緩くUの字に湾曲したレンガのようなもので敷かれており、見栄えのよい傾斜に、大きく乗り出した梁が特徴的だ。
ところどころずんぐりむっくりとした犬の像が置かれていたりして、異郷感が強い。屋奥も知っている石造りではなく木製が大半だ。
ここは自分の知っている西洋ではないのだろうか。
聞きなれない楽器が奏でるメロディーを聞きながら進んでいく。何気なく足元に目をやると水たまりがあり、そこに自分の姿が映っていた。
少し懐かしさを覚える格好だ。そして、姿が映るということはそういうことなのだろう。
どん、と空が戦慄いた。
赤に緑の不可思議な光の模様が浮かんではすぐに薄れる。
意識を傾ければ音楽の音も大きくなっている。そして、人の喧騒も。
祭りか。そう理解した時には異郷の者どもに紛れて波に揉まれていた。
通り過ぎざまによく顔を見られた。よく目立つのだろう。ここの人間は肌が黄色く、私とそう背が変わらない。男でさえもそうだ。
色とりどりの山車が練り歩いている。豪奢華美な極彩色が軽やかに舞う。太鼓の重い響きに笛の甲高い不協和音。
酒に酔っているような気分だった。浮足立ち、先へ、先へと進みたくなる。
耳元で言葉が紡がれる。肩に誰かの肩があたる。のけぞっては、押し返し、前に、前に。
そうすると、ふと無音の空間が出来ているのを見つけた。
小柄な少女だ。
黒髪で、肌は白い。
目は青く、ここの人間たちからは明らかに浮いている。
彼女は乱暴に蹴り倒され、怯えた顔で自らを取り囲む人間たちを見まわした。
喧騒は馬騰にかわり、人間たちは次々に少女に何かを投げつけていく。
端正な顔はすぐに汚れ、ボロ布のような衣服がさらに剥げていく。少女は泣きながら、やめろという意思表示もせず黙って虐げられるままだった。
「………」
賢いやり方をとるならここで黙って立ち去るのがよかっただろう。言葉も分からぬ場所で力もなく、ただ生きているだけというのならば。
だが、元は人間の性か、私はこうして立っていることに意義を求めたのだろう。
私は眼前に立つ数人を突き飛ばした。
彼らは不意に加えられた衝撃につんのめり、空洞に倒れこんだ。口々に怒号を飛ばしながら私に向かってくる。
私は次々に人を突き飛ばしながら彼らに向かっていった。
たちまち大規模な乱闘が始まり、殴っては殴り返しのひどい顛末になった。
頃合いを見計らってどこか立ち去ろうとした矢先、顎に一発いいのをもらって転倒する。
その時、罵声や怒声に交じって聞こえるか細い声が耳をついた。
「こっち…!」
さっきの少女だ。細い路地からこちらを手招きしている。
私はどうにかそちらにむかって走っていった。
■■■■■
少女に招かれ、たどり着いた先は小さな石造りの建物だった。今にも崩れかけで雨漏りもしているのかところどころ水たまりもできている。
「お前の家か」
私がそう言うと少女はこくり、と頷いた。
顔のあざや、切り傷が目立つ。だが、それでも平気な様子を見るとあのような暴行は日常茶飯事な事が伺える。
室内に入るとドア代わりの穴だらけのカーテンをかける。すると月明かりもない真っ暗闇が出来上がるが、少女が何か身振りをすると、ぽつ…と数本の蝋燭程度の明かりが浮かび上がった。
見上げれば天井に刻まれた簡易な魔方陣が光を放っている。なるほど、少女は魔法を知っているということか。
同じようにぽつ…ぽつ…と明かりをともしていき、少女は私を甕がたくさん置かれたところに連れて行った。
「少し、冷たいけど、きれいにしよう?」
そう言って少女は服を脱いで、甕に勺を突っ込み、頭から水をかぶる。私もそれに倣い、渡された小粒ほどの石鹸でわずかながら体を清める。
身体を拭き清めた後、最初に入った居間らしき場所に戻る。
椅子代わりの樽に腰掛け、少女は私の知っている言葉で話しかけてきた。
「助けてくれてありがとう。私はカンナヅキ・ユキヨと言うの」
言いながら水に指を付け、乾いた布に『神無月雪夜』と角ばった文字を書く。どこの文字だ、と聞くと漢だと言う。
「あなたの名前はなんて言うの?」
「…名はない。勝手に呼ぶがいい」
「困るわ。なんて呼べばいいのかしら」
少女は顎に指をあてて考え込んだ。
「…どうしても記号が欲しいならプルートニクとでも呼べ」
そうつぶやくと少女はくすっ、と笑った。
「おかしな人。なんでそんな吸血鬼の名前を名乗りたがるの?」
「どうもうこうもない。その本人だからだ」
少女は冗談と受け取ったらしく、足をじたばたさせた。
「お前はここで何をしているんだ?」
落ち着いた頃合いを見図り、話を振る。
「……守ってるの、人を」
「守る?魔物どもからか。だが、あんな仕打ちをうけてまで守っているのか?」
うん、と少女はうつむいた。
「先祖代々続いてきたから…。それに、私があんな目にあうのは当然のことなのよ」
「何故だ」
「…ずっと昔、とある化け物が街に攻めてきたの」
それはとても恐ろしい化け物だったらしい。少女はまだ二桁にも満たない年にも関わらず己の責務を果たすべく、化け物に立ち向かい、蹴散らされた。
街は化け物に占拠され、数日の後に天使と呼ばれる人物たちがそれを滅ぼしていった。結果的に住民は生き延びたが、少女は、待ちの守護神とされた少女はフラストレーションが蓄積した住民の暴行の対象となったのだ。
「何故甘んじて被虐を受ける。自分が傷つくだけだろう」
「ううん。…私がはけ口になることで、少しでも治安が良くなるはずだから」
「そこまでしてここの人間を守る価値などないと思うが。さっさと遠い所に逃げたらどうだ?」
「いいえ、そういう訳にはいかないわ。この街は私が育った街だもの。……返しきれない、恩があるの」
「そうか」
私は話を断ち切った。話して、なにが変わるわけでもないし変えるつもりはない。
なんとなくこの少女を助け、連れられてきただけ。
本当にそうか?
一瞬思考の海に没入しかける。すると少女は不意に私の腕をつかんだ。
「ねぇ、今日はお祭りなの。屋上に上がって花火でも見ない?」
連れられるままボロ小屋にかけられた梯子を上り、くずれかけた屋根に二人して腰掛ける。
「花火とても綺麗よね」
少女らしい純粋さをあらわにしながら彼女は私と空に散る鮮やかな火花を交互に見た。
もしかしたら、私が消えずにこの世に残った意味というのがあるのだとしたら、この少女と出会うためだったのかもしれない。
なんて事を考える。
どうしようもないぐらい、感傷的。
自虐の吐息、苦笑を浮かべる。
「なぁ、ユキヨ。お前が自分の身を削ってまで人間に尽くす理由はなんだ?」
「人間が好きだからに決まってるじゃない」
そう、少女は言い切った。
夜は賑やかに、人口の光は星々と戯れる。
■■■■■
「おい、何をしている」
私は少女の家の裏の農園で不審な動きを見せる男がいた。身なりは汚く、こちらよりはるかに劣っている。
彼の手には農園でとれたサツマイモが何個も握られていた。
「返せ。それはお前に盗ませるために作ったものじゃない」
男は狼狽して、声にならない声を発した。
私は男の手からサツマイモを取り上げようとすると、上げていいよ、と声がする。
「困ってるんでしょ?いいよ、持って行って」
「ユキヨ。いい加減にしろ、これを持っていかれたら今月は」
一瞬目を離したすきに男はそれをもって走って逃げていった。私は追いかけようとしたがユキヨに止められる。
「お前は馬鹿なのかユキヨ。あれを持っていかれたら私たちがどうなるのか理解しているはずだ」
「それでもあげていいの!じゃないとあの人死んじゃうでしょ?」
「その逆をそっくりそのままお返ししよう」
この頑固者は裾を両手で握ったまま引き下がろうとしなかった。一度言い出したら話を半フィートも聞きやしない。
しばらく睨み合いが続き、やがて私が根負けした。
「普通、こういうのは家族とか、そういうものにやることだろう。赤の他人にまで同じように施すものか?」
「だって、人間が好きなんだもん」
ぷくっ、と頬を膨れさせる。
その数日後、いつもと同じように畑の様子を見にいくと何やら人の話し声がした。
またドロボウかと思い、今度こそぶっ殺してやると腕まくりしながら向かっていくと少女の声がした。
「その都度はお世話になりました」
「いえ、こちらこそ!」
元気にぺこり、と腰を折ると腕には山ほどの饅頭が詰まれた蓋付きの編みカゴが抱かれているのに気づく。
立ち去っていく老夫婦は人目を気にしながらも感謝を示していた。
少女は、はぁ…と感心したような吐息を漏らし、振り返った瞬間、私を見てうひゃあ!と驚いた。
「……これを見越して、誰彼にも施しをしてたのか?」
「え?ううん、全然」
少女に嘘をついた様子はなかった。
「……不思議だな」
「?人間は助け合いでしょ?」
あれだけ虐げられてなお人間を信じる彼女に私は尊敬の意を示さずにはいられなかった。
■■■■■
また、ある時には雨を振らせてくれと、彼女は頼まれることがあった。
その夏は日照りが続き、あっさりと田んぼが間伐してしまったのだ。
案内されて見せられた稲はかろうじて青々としているが、あの様子では持って3日で死んでしまう、と私達は聞かされた。
「ユキヨ。いくらなんでもこんなの無茶だ」
体を清め、与えられた巫女の衣装を纏う彼女に私は横から話しかけた。
「ユキヨは水の魔法陣の描き方を知らないし、雨乞いの儀式だって正しいやり方を知らない。これでは村人と共に心中するのと同じだ」
「やってみないとわからないよ」
ユキヨは毅然とした態度で言ってのけた。
私は思わず彼女の胸ぐらを掴み上げ、怒鳴った。
「この馬鹿野郎が!可能性に殺されるぞ!」
「やる前から諦めてたら何も起こらないよ!」
ユキヨは骨ばった手で私の腕を掴み返した。
向けられた青い瞳には感情の炎が煌々と光を放っている。
「人の信じる力は、奇跡を起こせるの」
ならその力で、お前は過去の化物に勝てたのか?
私は言葉を飲んだ。
人々が容易した舞台で、ユキヨは伝承に伝わる雨を呼ぶとされた舞を踊り続けた。
炎天下の中、住民一人すらもよってこない孤独の舞踏。誰も期待していない事の現れなのに、彼女は一挙動に至るまで手を抜かなかった。
滝のような汗が体中を伝っている。日に弱い白い肌は真っ赤になり、痛いだろうにもかかわらずユキヨは舞い続ける。
正直見ていられなかった。
あまりにも健気で、痛々しすぎて。
「……もういいだろ、ユキヨ。雨は降らない」
「降るよ」
ユキヨは息も絶え絶えにそれだけ捻り出すとまたもや舞い続ける。
日が暮れてもずっとだ。
私は彼女に踊りをやめさせるべく一切の手助けはしなかった。だが、少女は飲まず食わずでまる一日踊り続け、二日目に差し掛かった。
きっと、私が側で見ているからまだ踊れるのだろう。そう考えて彼女の側を離れた。
街の方に歩いていくと、街の住民が下を向いたまま軒先にでているのが見えた。
瓷にためた水を、さも当然のように口に含んでいる。その上で雨なんて降らねぇべ、ここも終わりさね、等と勝手な事をほざいていた。
「長老も物好きなこってぇな」
「約立たずの守り神踊らせなんぼになるってんだ」
かちん、と来た。
「ふざけるなよ貴様ら!!」
私は思わず眼前の二人に掴みかかった。
「ユキヨは必死に踊ってるんだぞ!?貴様らのために祈ってるんだぞ!?水も飲まず、物も食わず、雨よ降れ、恵みをもたらせってな!!なのに貴様らはのうのうと水を飲みながら、愚痴を垂れるだと!?」
私は二人を突き飛ばし、水の入った瓷を奪い取った。
「少し借りる!貴様らより飲むにふさわしい人間がいるからな!」
半分しか入っていないそれを抱えて私はユキヨの基に走っていった。
少女は舞台の上でなおも踊り続けていた。私はいそいそとあがり、瓷を少女のそばにおいて、笏で水を掬い、少女に飲むように促した。
「ユキヨ。もういい。これだけ飲んで逃げるぞ。雨が降らなかったらまずお前が殺されて次にみんな死ぬ」
少女は舞いながら、答えた。
「それは、プルが飲んで。…人から貰ったものなら返してあげて」
「……」
そんな状態で他人を思う事がただの人間にできるのか?
息は上がりきって、流す汗もないほど照らされ、それでも雨よ降れと祈り続ける。
見向きもしない人間のために、踊り続ける。
「…気でも狂ってるのかお前は」
「かも、ね。でも、人のためならまだまだ頑張れるよ」
この人間は本当に信じている。
必ず雨が降ると。いや、雨を降らすことができると。
天高くそびえたつ塔のような意思だ。決して折れることのない崇高なる存在。
私はこの時、心から敬服した。
彼女にはかなわないと。
長々と、息を吐く。
胸の奥まですっかり出し切ると、不意に笑いが込み上げてきた。
笑っているのは今まで彼女の事を思って一緒に逃げようと提案していた自分だ。なんと滑稽か。ユキヨのためになると思ってやったことの全てがその実彼女の妨げになっていたのだから。
最後に思いっきり咳き込む。
それから私は黙ってユキヨの隣に立って、同じように踊り始めた。
「なに、やって、るの」
「なに、奇跡を信じる人間が一人では奇跡も起きづらいと思ってな」
足を振り上げては下ろし、天に腕を掲げては下ろす。雨が降るのを模した踊りを続ける。
そうして踊っていると、先ほど私が甕を奪っていった二人組がやってきた。彼らは私も踊っているところを見ると目を丸くした。
「やぁ。お前たちも踊ってみないか?」
遠慮がちな二人を私は強引に連れ、舞台に上がらせる。
彼らのそばで気にせず踊り続けているとその二人も私たちの真似をしだした。
またしばらくして戻ってこない二人を探してもう何人かもやってくる。彼らも私は踊りに誘い、それから同じようにして人が増え続けていった。
「みんなあれを見ろ!我々の踊りが天に通じている!」
偶然、太陽を遮った雲を指さし、あおりをかける。
「おお、ほんとじゃ!」「降るぞ、降るぞ!」「さぁ踊れい!雨を降らせるのじゃ!」
いつの間にか、踊る人は住民のほとんどになっていった。熱狂的なこの空気は本当に雨が降るのではないかとさえ思わせてくれるようだった。
誰かが倒れそうになればすかさず誰かが支え、水を飲ませ、休ませる。その施しを受けた人間が次に他の人間にそれをする。
この繰り返しで、ずっと、ずっと、ずっと、ずっと、踊り続ける。
二日目の日照りは過ぎ、虫が鳴く夜になっても皆は踊りをやめなかった。
みんな信じていたのだ。
きっと雨が降ると。
稲はよみがえり、飲み水は満たされ皆救われると。
そうして朧月すらかすむ夜が明けた、三日目の朝。
ぽつ、と私は鼻先に冷たいしずくが落ちるのを知覚した。
思わず踊りをやめ、空を見上げる。
濃い灰色の雲が頭上を覆っていた。
期待に目を開いた瞬間、稲光が瞬き、直後、轟音と共に雨が、何日も待ち続けた雨がドッッッッと落下した!
うぉぉぉぉぉぉおおおおおおお!!!!!!!
街の全てが揺れ動くようだった。歓声は終わることなく空気を震わせる。
横を見やると、ふらっ…とユキヨが倒れるところだった。
慌てて手を差し伸べるが私も限界だったらしく、もつれ合って一緒に倒れる。
言葉はいらなかった。
やり切ったのだ、私たちは。
人々はみな笑っていた。心底幸せそうに、生きていることを楽しむように。
「……これを見るのが好きなんだ」
不意にユキヨがそう、呟いた。
今なら、その気持ちもなんとなくわかる気がする。
■■■■■
近隣の村が滅ぼされたと聞いたのは雨ごいが成功した新月の夜から満月が昇るほど空いた日だった。
恐ろしい魔物が現れ、懸命の抵抗むなしく破壊されつくされてしまったらしい。
どうにかこちらに逃げてきた血まみれの男が言うに、それはまさに悪魔だったらしい。
そして彼らが次向かう先は、私たちのいる街だと。
「……ユキヨ。平気か」
私は隣で黙々と石に魔方陣を刻んでいる少女に話しかけた。
「えっ?…うん」
わずかに返事が遅れた。
やはり、怖いのだろう。ここ最近成功を収めたことで彼女への風当たりはだいぶ優しくなっているが、魔物の襲来に際してまた冷たくなってきていた。
あの戦い以降、彼女は戦っていない。
言うなればずっと敗北しているのと同義だ。
私はそっと、少女の肩を叩いた。
「私がいる。……心細いだろうが」
「ううん、そんなことないよ」
少女は肩にのせた手に首を傾けて頬を付けた。
「あの祭りの時、プルに出会ってから私は勇気を貰ったの。…あなたといるとなんでもできるような気がする。…今じゃそう思うぐらい」
照れくさそうにはにかむ。
彼女の顔を見ていると不思議な気分になる。まるで、ずっと遠い昔に置き去りにしてきた温かい、何かのようで。
「…都から天使が来るまであと一日らしいな」
「うん。…今日、来ないといいね」
嵐の事でも言うように、少女は言った。
ふと、かたかたと雑貨を詰め込んだ家が揺れていることに気がついた。
一体なんだろうかと思う間もなく、棚の上に置かれていた石が赤熱化し、バン!と弾けた。
「きゃっ!」
石つぶてが少女に当たらないように、手を引いて覆いかぶさる。
「怪我は?」
「ううん。…でも…」
少女は私の下からすり抜け、砕け散った石の破片を拾った。
「…結界の陣が砕けてる」
たった、一言呟いたその意味。
恐ろしい魔物が、侵入してきたということだ。
少女は一瞬私を見やると、作った石をありったけ袋に詰めて立ち上がった。
「…敵が来てる」
「そのようだ」
壁に立てかけていた槍を掴み、私と少女は住まいを出た。
この建物は街から一番の外れにある。
そしてここの結界の陣が破壊されたという事は付近に敵がいるということに他ならない。
一枚の布をめくって外に出ると、禍々しい青い光が周囲を取り囲んでいるのが見える。
魔界の松明だ。死者の魂を燃焼剤にしている。
くぐもったうめき声が反響し、ひどく不気味であった。
「死者の軍勢……」
闇に目が慣れればよく見えた。
あちこちに骨、骨、骨…。
満月に陰りがさし、いつもよりずっと冷たい凍える風が吹き抜けていく。
膠着はしばし、続き、終わりの始まりと言うにはあまりにも軽すぎる骨の打ち合わす音で戦いは始まった。
少女は素早く手に持った石を投げた。
刻まれた魔法陣が起動し、数十倍にも体積を膨張させ、破邪の炎となる。
死者に炎はよく効く。そして相手は大勢だ。少女はこの石を敵を分断する壁として使ったのだ。
そしてわざと開けられた間隙から死者の兵士が一人ずつ侵入してくる。
「プル!これ使って!」
「ああ!」
投げられた石を掴み、槍の刃に打ち付ける。
すると壁として使われた炎と同様の火炎が先端に灯った。
二、三度振り回し、炎の勢いが増すことを確認するとそれを次々と死者の軍団に叩きつけた。
鎧を纏っているが骨が着ているために隙間だらけだった。的確に空間を狙い体制を崩させて側の炎の壁に突っ込ませる。
右斜めに剣が繰り出される。欠け跡だらけの刀身を見据え、槍を繰り出し、手首を飛ばす。
飛んだ先が燃えて塵になり、その一片を目尻に移しながら素早く膝を砕き、左の蹴りで転倒させる。
転んだ一体を踏み越え、槍のリーチを活かして次の死者の兵の頭を突き壊す。
一方で少女も豪快に魔法陣を刻んだ石を投げ、大砲を打ち込むように敵を散らしていった。
いわば、私は彼女の背を守る騎士であり、ここを切り抜けられるかは少女次第であった。
蛍のように散る火花、火山で戦っているかのような暑さだ。壁が消えてはまた立て、相手に主導権を握らせない。
このまま押し切れるのでは、と思った矢先、私の肩に鋭い痛みが走った。
その威力で思わず地面に仰向けに倒された。
「プル!」
少女の叫びが聞こえる。焼けるように肩が痛い。だが、立ち上がらばければ待っているのは凍てつく闇だ。
体に刺さった矢を引き抜き、立ち上がる。
頭に向かって突き出された剣を間一髪で避け、覆いかぶさるように襲って来た骨を蹴り飛ばす。
すかさず槍を広い、石突部を大きく左右に振って、即頭部、
胸骨を突き、姿勢の崩れたところを槍の刃で、脛骨と頭蓋を切り離す。
だが、その程度では奴らは死ななかった。
私の猛攻をよそにそいつは平然と剣を繰り出し、
刺しぬかれた。
ぐわん、と体の中で反響する。
少女の叫びが耳を通り抜けて消えていく。
蔦が体の中を這うような痛みが駆けて行く。
久しいな、この痛みは。
等と思いながら私は二度、倒される。
チカッ、と光が瞬き、熱風と振動が私を軽く轢いていく。
少女がおそらく石を使って炎の障壁を再度築いたのだろう。
「プル!ねぇ!しっかりして!」
たらたらと血は腹部の傷から流れ続ける。
少女は自らの服の袖を引きちぎって傷口に当てるがそれもみるみるうちに血に染まっていく。
「私の事はいい、お前は戦え」
震える手で彼女を押しのける。だが、少女は躍起になって私の怪我を治そうとした。
「構うなと、言っている…!」
「できないよ!」
懸命に血を止めようと少女はさらに服をちぎってあてがった
「私は…守り神なの。貴女一人守れなくて何が守り神よ!」
ぐぐ、と弦を引く音が聞こえた。それも一つでなく、燃え盛る炎をも上回るほど大量かつ、大音量。
「っ!」
少女はとっさに結界の魔法陣が刻まれた石を放った。
それは薄橙色の閃きを放っている私達を包んだ。
直後、死体にむらがる鷲のように無数の矢が飛来した。川の奔流のようであった。初めは順調に弾き、効力を示していたものの、余りの物量に光の膜は薄れていく。
雨が傘を叩く音を何倍もの大きさにした振動。いつ絶えるかもわからない矢のスコール。
少しずつすり減っていく結界に対し、その場から動けない二人。
結界が破られた瞬間、そこに針のムシロが出来上がるであろう。
一筋の亀裂が結界に入った。
少女はぎゅっと、目をつぶった。お願い、耐えて、と祈り、うずくまる。
だが同時に矢の命中する衝撃も減っていった。
わからない、どちらが先に尽きるのが先か。
その拮抗は一瞬にして破られた。
突然巨大な鎧に覆われた腕が一撃の元に結界を砕き、少女を吹き飛ばしたのだ。
真上から注ぐ矢が私を大地に縫い付ける。
遠ざかる悲鳴を必死に追う。
少女は、山羊の角飾りついた兜を身に着けた、巨人に掴み上げられていた。フルプレートの鎧の隙間からは青白い炎と強烈な威圧感を放ち、間違いなく親玉だという事が分かる。
少女はなんとか抜け出そうとして懸命に鋼の掌から逃れようともがいていたがぐっ、と締められ、地べたに投げ出された。
受け身も取れない姿勢で叩きつけられ、少女は苦鳴を漏らした。
「やめろ…!」
かすれた声で叫ぶ。
少女は転びそうになりながら立ち上がり、手に持った石を投げようとするが死者の巨人が繰り出された炎ごと彼女を吹き飛ばした。
木の葉のように宙を舞い、子供に飽きられた人形のように泥にまみれ、血反吐を吐く。
およそ耐え難い苦痛だというのに、少女はあきらめず、その場で魔方陣を描き、攻撃を試みる。
撃ちだされたのは小粒の火球。子気味良く連射するが、それは巨人の進撃を止めるにはつゆほどの効果もない。
渾身の攻撃が、今にも潰されるそうな蚊ほどの抵抗に過ぎない。
その事実を払拭しようと、叫ぶ。眼前の絶望を倒す、自身の全力を尽くして――――
三度、少女は地に臥した。
私も叫ばざるを得なかった。
今自分に吸血鬼としての力があれば。
こんな雑魚どもなど一瞬にして灰にできただろう。
どうして私は力を持たぬまま、この世に再度存在することになったのだ。
たった一人敬意を表した少女も守れず。
その少女が愛したものも守れず。
黙って、見ているだけなのかと。
死者の巨人が青い炎を噴き上げる。
命あるものを冥界へいざなう、滅びの炎だ。
泥と血と、握りしめる。
限りなく死に近い、この体。
火が消えかけ、白い灰に覆われた崩れかけの薪。
その奥底に、滾る思いがあった。
『大事な人を死なせたくない』
体に刺さった剣が、さらに切り裂いた。
矢がねじれ、肉が抉れる。
それでも、立った。それでも走った。
自分が認めた少女の前に立ち、あっけにとられ、水色の瞳を見開く彼女の驚いた顔を、最後に、私の意識は彼方に消えていった。
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悪魔どもの炎にあぶられ、灰燼に帰そうとする白亜の宮殿。
王の間は家族の血に塗れ、コールタールのような闇が希望も心も暗黒に染め上げる。
私は、私を見ていた。
子を庇い、血祭りにあげられる親の姿を。
妹を庇い、くし刺しにされる兄弟を。
命が失われる度、彼らとの思い出も業火に焼かれ、かき消える。
何もできない自分が悔しくて、憎くて、私は力を欲した。
茜色の空間は色を失い、地に這いつくばる過去の私と、無力な今の私が交差する。
どんな激情に駆られようと、一色に心を塗りつぶされても。
その根っこにある感情は、動機は、願いは一つだった。
家族?
いいや、それだけじゃない。
民?
いいや、それだけじゃない。
人間だ。
人間全部だ。
私は人間が好きだったんだ。
この少女と過ごして、心底尊敬出来て、やっと気づいた。
■■■■■
「なぁ…ユキヨ。私のいた国では、十月はアクトベルと言うんだ」
体の右側が軽い、ほとんど消し飛んでいるのだろう。
私を抱きしめ、涙を流す少女の頬を左手で撫でる。
「名乗って、ごらん。カンナヅキ・ユキヨ」
君の、本当の名前を。
彼女は、ユキヨは息を吞み、一節の固有名詞を呟いた。
「スノウナイト・アクトベル」
そう、初めから知っていた。
異郷の地にて私にわかる言葉を話すということは。
我が滅んだ血族の末裔に他ならないのだから。
「……お前は私の、最後の領地だったんだねぇ」
背後で空気がうねる。
喰らえば最後、二人は原型も留めないほど破壊しつくされるだろう!
「ならば問おう。お前は化物になる覚悟はあるか!?人を守るために呪いを引き受ける覚悟は!?」
「ある!」
躊躇いもない一声。
少女の首から一滴の血が溢れる。
それが私の唇に触れた瞬間、私の体は砕け散った。
死者の巨人が私を肉塊に変え、その先にいる少女まで玉砕しようと迫る。
だが、それはもう進むことはなかった。
砕け散った体は光る粒子の塊となり、その一撃を、その威力の全てを防ぎきっていたからだ。
「ならば名乗り返そう」
化物になった意味を思い出した人間が、高らかに宣言する。
「我が真名はエルロード・サンクタム・アクトベル。栄華を極めたアクトベル王朝最後の王族にして、人外!」
粒子は赤い稲光となり、少女の体を赤く染め上げる。瞳は紅、装いは戦装束の長衣。
「私はたった今からクルスニクと名乗ろう。化物狩りの化け物、クルスニクだ!」
膨張する無尽蔵の魔力。
闇夜に閃くは何よりも眩い紅の雷。
人を喰らい、人を殺めた化け物が、人のために立ち上がった、瞬間であった。
■■■■■
「と、そこからは八面六臂獅子奮迅の大活躍。向かってくる骸骨共を千切っては投げ千切っては投げ…」
いよいよ雪夜の語りに熱が入って来た。
わずか一人の聴衆の期待値を確認するべくちらっと伺うと…
「ZZZ…」
すっかり寝ていた。
「…まったく」
雪夜は小さくため息をつきながら、グラニアの胸元まで掛け布団をかけてやった。
窓辺に立ち寄り、空を見上げる。
今宵は満月、実にいい月だった。
「………グラニアを見ていると、あいつを思い出すな」
脳裏によぎるのは、黒髪に青い目の無垢なる人類愛者。
よんだぁ…?とグラニアが寝言を呟く。
雪夜は窓辺からグラニアの枕元に戻り、そっと彼女の手と自分を重ね合わせた。
幾多もの試練を乗り越えた。
力の限界を試され、心の限界を試され、それでもなお人を守る存在であり続けた。
その報酬が、この少女の笑みであるならば、充分だった
「願わくば、この幸せが永遠なるものであらんことを」
一人ごちた雪夜の瞳は、青と赤に別れているように見えた。