別れ
「二人とも、離れてください!」
安藤は自分の両腕に抱き付くアイビーとハナビシに離れるように言うが、二人とも離れようとしない。
それどころか、二人はますます安藤に体を寄せてくる。
「アンドウ……」
「アンドウ君……」
「あっ!」
アイビーとハナビシに押され、安藤はバランスを崩し地面に倒れた。
倒れた安藤の上に、アイビーとハナビシが覆いかぶさる。
「二人とも、やめっ……んっ……!」
アイビーは、強引に安藤の唇に自分の唇を重ねた。
ハナビシは、安藤の上着を脱がし始める。
「んんん……んんんっ……!」
安藤は抵抗しようとするが、アイビーとハナビシに両腕を押えられ、動けない。
抵抗できない安藤に、アイビーは甘いキスを続ける。
「ぷはっ」
「くっ……はぁ……はぁ……」
アイビーがようやく安藤から唇を離した。
すると、今度はハナビシがニヤリと笑う。
「よし、次は私の番だな」
「やめてください!ハナビシさん。やめ……!んんっ!」
今度はハナビシが安藤の唇を強引に奪う。
アイビーのキスとは違い、ハナビシのキスは濃厚で激しい。
「くっ……はぁ!」
魂を吸い尽くすようなキスから解放された安藤は、絞り出すような声で二人に言った。
「はぁ……はぁ……二人とも……これ以上はダメです。本当に……やめてください。でないと……」
「遠慮すんなよ。アンドウ!」
「怖がらないで、アンドウ君!」
「……あっ……くっ……!」
さらに安藤の体を求めるアイビーとハナビシ。
動けない安藤は、何も出来ない。
「やめてください……二人とも……お願いです……話を聞いて……」
「はははっ!顔が真っ赤だぜ。アンドウ」
「アンドウ君、可愛い!」
ハナビシとアイビーは安藤の耳元で囁く。
「大好きだぜ。アンドウ……」
「アンドウ君……大好きだよ」
安藤は首を横に振る。
「ダメです!やめて……もう、やめてくれ!」
それから二時間。
安藤はアイビーとハナビシに体を弄ばれ続けた。
***
檻に戻ると、安藤は倒れるように自分のベッドに横になった。
「はぁ……はぁ……」
安藤は自分の胸を押さえる。体が熱い。心臓の鼓動がドクンドクンと高鳴っている。
目を閉じると、顔を紅くしながら自分に迫るアイビーとハナビシの姿が蘇った。
アイビーとハナビシは安藤を巡って、一度は殺し合いをした仲だ。
それが今では、すっかり打ち解けている。
ハナビシはアイビーの事を「友」と呼んでいたし、アイビーも敬意を持ってハナビシと接していた。
どうしたら、殺し合った者同士があんなにも打ち解けられるのだろうか?
二人が殺し合いをやめてくれたのは嬉しいが……。
「このままじゃ、二人の命が危ないかもしれない。どうすれば良いんだ?」
安藤は頭を抱える。
『兄ちゃん、どうかしたか?』
「カールさん……」
ベッドから顔を上げると、カールが笑っていた。
『何かあったのか?相談に乗るぜ!』
カールは『俺に任せておけ!』と言わんばかりに自分の胸をドンと叩く。
「実は……」
安藤はカールに、アイビーとハナビシの事を相談しようとする。
しかし次の瞬間、カールは笑顔のままスッと消えた。
「……………何をやっているんだ。俺は」
安藤はもう一度ベッドに横になる。
「カールさんは……もう居ないだろう」
先程のカールは、安藤の妄想。
誰かに相談したいという願望が生み出した幻だ。
「しっかりしろ。カールさんはもう居ないんだ。これからは俺が全部ひとりで考えなくちゃいけないんだ」
安藤は、自分にそう言い聞かせた。
***
数日前、吸血鬼は安藤に『自分の伴侶になるなら、カールを自由にする』と言った。
吸血鬼の提案を聞いた安藤は、大きく目を見開く。
『それは……本当ですか?』
『はい、本当です』
ホーリー・ニグセイヤの姿をした吸血鬼はニコリと微笑む。
『ユウト様。私と貴方が共に過ごした時間はとても少ないです。しかし、ホーリー・ニグセイヤを除けば、私は誰よりも貴方の事を理解しています。此処で約束を違えれば、貴方が私を愛する事は永遠に無くなるかもしれない。そんな危険は冒しません』
菱谷忍寄よりも、幼馴染である三島由香里よりも、自分は安藤の事を理解していると吸血鬼は言う。
それは自惚れでもなんでもなく、事実だ。
吸血鬼は血を吸った相手になることが出来る。それは姿形だけではなく、本人の記憶なども全て同じになれる。安藤の血を吸った吸血鬼は『安藤優斗』という人間を全て理解していると言っても過言ではない。
この世界に吸血鬼と同じぐらい安藤の事を理解している者と言えば、『運命の啓示』が発動したホーリー・ニグセイヤだけだろう。
『貴方が私の伴侶になってくださると言うのなら、カールという男を必ず自由にします。当然、解放した後に再びその男を攫う。などという事はしません』
吸血鬼は、真っすぐ安藤を見つめる。吸血鬼が嘘を付いていない事は、安藤にも分かった。
『……もし、俺が断ったら、カールさんはどうなるんですか?』
『今まで通り、此処で生活していただく事になります』
『―――ッ!』
『さぁ、ユウト様。いかがなさいますか?』
吸血鬼は、安藤に手を差し出す。
『私の申し出を受けるのなら、この手を優しく握ってください。もし断ると言うのなら、この手を払いのけてください』
『……ッッ……』
安藤は唇をギュッと結ぶ。
此処に来てからというもの、カールには沢山助けられた。
その恩人が自由になれるチャンスを奪う事など、安藤には出来ない。
『……分かりました』
安藤は差し出された吸血鬼の手を優しく握った。
『貴方の伴侶になります。だから……カールさんを助けてください』
『嬉しいです。ユウト様』
満面の笑みを浮かべた吸血鬼は安藤の体を引き寄せ、その唇を奪った。
次の日、安藤達が入れられている檻に一匹の魔物がやって来た。
『カール・ユニグスという人間はどいつだ?』
魔物の言葉に皆がざわついた。通常、攫われた人間達は付けられた番号で呼ばれる。魔物が人間の名前を呼ぶ事など、今まで無かった。
『お、俺だ。俺がカール・ユニグスだ』
警戒しながら手を上げるカールに、魔物が近づく。
『カール・ユニグス。お前を此処から出せとの命令だ』
『えっ?』
『今からお前は自由だ。良かったな』
檻の中のざわつきが一層大きくなる。一番驚いているのはカール本人だった。
『な、なんで俺が?なんで俺が解放されるんだ?』
『吸血鬼様からの命令だ』
『―――ッッ?吸血鬼から?何で?』
『知らぬ。我はただ吸血鬼様の命令に従っているだけだ』
『なんだよ。それ……』
呆然とするカールに安藤が声を掛ける。
『良かったですね!カールさん』
『……兄ちゃん』
『自由になれるんですよ。もっと、喜んでください!』
自分を祝福する安藤を見て、カールは目を大きくした。
『……もしかして、兄ちゃんが何かしたのか?』
『―――ッ!』
『やっぱり、そうなのか!?』
カールは安藤に詰め寄る。
『昨日、吸血鬼と何を話したんだ?』
『……別に何も』
『嘘を付け!』
カールは怒鳴る。
『昨日、吸血鬼の所から帰ってきた兄ちゃんは、明らかに様子が変だった。兄ちゃんが何も言わなかったから、俺は何も訊かなかった。だけど、こうなったら別だ!』
カールは安藤の胸倉を掴むと、互いの額が当たりそうになる程顔を近づけた。
『言えよ!昨日、吸血鬼と何を話したんだ!』
こんなにも怒ったカールを、安藤は此処に来てから初めて見た。
安藤は少しの間沈黙し、口を開く。
『特に何も。ただ、世間話をしただけです』
『世間話?』
『……はい』
安藤は吸血鬼と話した内容をカールに教えない。言えばカールを苦しめるだろうから。
『……そうかい』
何かを察したように、カールは安藤の胸倉からそっと手を離す。
『嘘が下手だな。兄ちゃんは……』
カールはポツリと呟いた。
『……だったら、これだけは教えてくれ。大丈夫なんだな?』
カールは真剣な目で、安藤に訊いた。
『俺が居なくなっても、兄ちゃんは死んだりしないよな?』
安藤は優しく答える。
『はい、大丈夫です。俺は死んだりしません』
『……そうか。なら良い』
カールは「はぁ」と大きな息を吐く。
『兄ちゃんスマン。俺が先に此処から出る事になっちまった。兄ちゃんの助けになってやりたかったのに、俺は……』
『カールさんには、もう十分助けてもらいました』
安藤は、はっきりと言った。
『カールさんは、いつも俺の相談に乗ってくれました。いつも俺を助けてくれました。感謝してもしきれません』
そもそもカールは安藤に『特殊能力』の事を教える義理も無ければ、安藤の相談に乗る義理も無かった。
それなのに、カールは色々と安藤を助けてくれた。
『カールさん、今まで本当にありがとうございました。これからは、ご自身の人生を生きてください』
安藤は、カールに頭を下げる。
『……こちらこそ、ありがとうな。兄ちゃん』
カールは目に涙を浮かべている。
『兄ちゃんに会えて良かったぜ!』
カールは安藤を力強く抱きしめた。
『~~~~~』
『えっ?』
『じゃあな。兄ちゃん』
カールは安藤から離れると、魔物に言った。
『待っていてくれてありがとな。行こうぜ』
『もう、良いのか?』
『ああ』
『では、参ろうか』
魔物に連れられて、カールは檻を出る。
『カールさん!』
安藤が叫ぶと、カールは無言で右腕を大きく上げ、安藤の声に応えた。
こうして、安藤の良き理解者であったカール・ユニグスは、吸血鬼が支配する大森林から去った。
***
カールが去った後、安藤は再び吸血鬼に呼ばれた。
安藤は吸血鬼に頭を下げる。
『カールさんの事、ありがとうございました』
『いいえ。約束ですから』
吸血鬼は、ホーリーの姿でお茶を一杯飲む。
またホーリーさんの姿をしているけど、俺と会う時はホーリーさんの姿をする事にしたのだろうか?と、安藤は思った。
『ユウト様。私はユウト様との約束を守りました』
吸血鬼は、紅茶が入ったカップをテーブルの受け皿に置く。カチャという音が鳴った。
『本日より、貴方は私の伴侶。ということでよろしいですね?』
『……はい』
安藤が頷くと、ホーリーの姿をした吸血鬼は喜んだ。
『では、これからは一緒に暮らしましょう。この塔の中で共に過ごし、そして、共に愛を育み……』
『いえ、それはお断りします』
安藤は吸血鬼にキッパリと言う。
『他の人達が苦しんでいる中、俺だけが特別扱いを受ける事は出来ません』
安藤の言葉を聞いた吸血鬼は、嬉しそうに『フフッ』と笑う。
『ユウト様なら、当然そう言うでしょうね。かしこまりました。では、早急に捕えている者達の生活環境を整えます。そうすれば、一緒に暮らしていただけますか?』
『……分かりました。他の人達の生活を良くして頂けるのなら、貴方と一緒に暮らします』
『ありがとうございます』
吸血鬼は笑みを深めると、パンと手を合わせた。
『ああ、そうですね。せっかくですから、私達二人が住むための新しい家を作りましょう。私とユウト様。二人だけのプライベート空間です』
自分と安藤が住む新しい家の建築と、捕らえた人間達の生活環境の改善は一週間以内に行う。と吸血鬼は告げた。
『一週間後、ユウト様を迎えに行きます。楽しみにお待ちください』
***
それから、檻の中の環境は劇的に改善された。
食料の配給は増え、皆が腹を満たせるようになったため、食べ物の奪い合いが起こらなくなった。
労働環境も変わった。体の強弱に見合った仕事が割り当てられるようになったので、力の強い者が弱い者に仕事を押し付けサボる。という事は出来なくなった。
何より一番変わったのは、今までは皆が一つの場所に押し込まれて寝食を共にしていたが、これからは二人に付き一部屋が与えられた事だ。態度の良い者には、個室まで用意される。
生活スペースが格段に広くなった事により、皆のストレスは大幅に減った。
吸血鬼は安藤の約束を守り、捕まえた人間達の環境を大幅に改善したのだ。
(あれから、もうすぐ一週間か……)
個室のベッドで横になりながら、安藤は考える。
吸血鬼は一週間後、安藤を迎えに来ると言った。その言葉通りなら、もうすぐ迎えが来るはずだ。
(吸血鬼に、アイビーさんとハナビシさんに何もしないように言うべきか?)
此処に連れて来られてから、吸血鬼は魔法で安藤を観察していたと言っていた。
もし、今も魔法で安藤の事を見ているのだとしたら、今日の昼間、アイビーとハナビシが安藤にした事も見ていたかもしれない。
アイビーとハナビシに迫られた時、安藤は真っ先に二人の身の危険を心配した。
(吸血鬼は二人を排除しようとするかもしれない。だけど……)
もし、昼間の事を見られていたのだとしても、吸血鬼は二人に何もしないという事も考えられる。
安藤は前にもハナビシに迫られ、アイビーにキスをされた事があるが、吸血鬼が二人に何かをした様子はない。
アイビーとハナビシを傷付ければ、安藤が吸血鬼を愛する事は二度とない。その事を吸血鬼はよく理解しているはずだ。
吸血鬼がアイビーとハナビシがした事に気付いていた上でワザと見逃していたのだとしたら……今回も、吸血鬼が二人を傷付ける事は無いかもしれない。
(でも、それは楽観的に考え過ぎじゃないか?これから吸血鬼がどう動くのかなんて分からないんだ)
吸血鬼の気が変わり、やはり二人を殺そうと考えを変える可能性だってある。そうなってからでは遅い。
だったら、やはり吸血鬼に直接『アイビーさんとハナビシさんに手を出さないでください』と言った方が良いのか?しかし……。
(もし、吸血鬼が何も知らないのだとしたら、アイビーさんとハナビシさんを助けてくださいと頼むのは危険かもしれない)
吸血鬼は安藤を見ていたと言っていたが、二十四時間観察していたわけでは無いだろう。
観察していなかった時間もあっただろうし、もしかしたら魔法の範囲外で、観察できていない場所があったかもしれない。
もし、ハナビシが安藤を呼び出した時間が、ちょうど吸血鬼が安藤を観察していない時間だったとしたら。
もし、ハナビシが安藤を呼び出した場所が、吸血鬼の魔法の範囲外だったとしたら。
吸血鬼はアイビーとハナビシが安藤に何をしたのか知らない。と言う事になる。
吸血鬼がアイビーとハナビシに何もしないのは、単に二人が安藤に何をしたのか知らないという可能性だってあるのだ。
(吸血鬼が何も知らないのだとしたら、下手に二人の事を言えば藪蛇になりかねない。くそ!どうすれば良い?)
アイビーとハナビシが安藤にした事を、吸血鬼が知っているのだとすれば『二人に何もしないでください』と頼んだ方が良い。
だが、吸血鬼が何も知らないのだとすれば、何も言わない方が良い。
(こんな時、カールさんに相談出来れば……)
またしても、安藤はそう思ってしまった。
安藤はカールに言われた事を思い出す。
別れ際、カールは小さな声で安藤にこう言った。
「俺が必ず、兄ちゃんを此処から出してやるからな!」