いつもの日常
「それでは今日は職員会議があるので部活は中止! 皆さん、速やかに帰宅するように!」
平輪高校3年2組担任、柿原清美は生徒たちにそう告げた。学級委員の号令がかかると生徒たちは一礼。そして仲の良い者同士、おしゃべりをしながら教室を出て行く。
「みのり、一緒に帰ろう!」
境野里奈は、すぐ後ろの席の鷹取みのりに声をかけた。みのりは一瞬頷きかけたが、すぐに疑問の表情を浮かべる。
「良いけど……哲彦と帰らないの? せっかく部活がなくて一緒に帰れるっていうのに」
「うん……哲彦は生徒会の用事があるってさ」
里奈は寂しそうに、生徒会長の女子と話す哲彦をチラリと見た。そこそこイケメンで頭も良く、優しい性格の彼は女子からの人気も高かった。みのりはなるほどと頷くと、「じゃ、帰ろう」と言って里奈と肩を並べて歩き出した。
◇
みのりと里奈は仁楼村の住人なので、帰宅時は平輪町のはずれにあるトンネルまで15分ほど歩く。その間、色々な話をふたりはしていた。
「そういえばさ、凌介の家に考古学者の先生がいるじゃない?」
里奈に尋ねられ、みのりはコクリと頷く。
「うん、確か……安野とかいったっけ? 仁楼遺跡について調べてるとか」
「そうその人!」
里奈はパンと音を立てながら両手を組んだ。さっきまでとは打って変わって、瞳がキラキラと輝いている。
「実はあたし、その遺跡がすっごく気になってるのよ。村長さんも今まで全然調べようとしてなかったし、何か面白いものが出てくるかもしれないじゃない! それに、何かをひっくり返すようなものが見つかればきっと村も有名になるわ!」
「ふぅん……里奈はホントにそういうの好きよねぇ」
みのりは少し呆れたような目で、里奈を見る。でもみのりはそんな里奈に感謝していた。
仁楼村には、元小学校教師のお婆さんが開いている幼稚園のような所がある。みのりは当時そこに通っていて、里奈ともそこで出会った。子供の頃、体が弱く家に籠りがちだったみのりを里奈はあちこち連れ出してくれた。なんで里奈がそこまでしてくれたのか、みのりはハッキリとした理由を知らない。それとなくきいてみても、適当にごまかされてしまうから。「一緒に遊びまわる、同年代の女の子がいなかったからよ」、しばらく前にきいた時はそう答えた。でも世話焼きな性格の里奈は多分、いつも隅っこで小さくなっている自分を心配してくれていたのだとみのりは思っている。
もちろん、みのりの両親は娘が連れ出される度に里奈を叱った。だが里奈は懲りずにみのりを色々なところに連れて行った。林の中にある綺麗な泉、どっしりと構える大樹、村のはずれにある神秘的な祠。里奈は気になるものがあると、みのりを探検に連れて行った。村中を走り回ったみのりは、そのおかげなのかは分からないが次第に体も強くなっていった。性格も明るくなって、もし里奈と出会っていなければ今の自分はないとも思っている。
こんなにも良い友達を持てるなんて、自分は本当に運の良い人間だ。みのりは何度もそう感じている。ずっとずっと、おばあちゃんになるまでこの関係は続く、みのりは漠然と思っていた。
◇
「悪いな、凌介。手伝ってもらって」
前田哲彦は、棚の上に手を伸ばす林川凌介に言った。バレー部エースの彼は、易々と棚の上まで手が届いている。凌介は手を動かしながら答える。
「別にどうってことないよ。こんな生徒会室で探し物をするくらい……お、あったぞ。今までの体育祭の写真」
凌介は箱を持ったまま踏み台代わりの椅子から降り、箱を丁寧に机の上に置いた。
「サンキューな、凌介。え~っと去年のは……これだな」
哲彦は鞄の中にその束をしまうと、再び凌介に箱をもとの位置に戻してもらう。そして鞄を肩に掛け、ふたり一緒に生徒会室を後にした。
◇
「そういやさ、俺のウチに安野っていう考古学者が来てるじゃん?」
凌介は、横を歩く哲彦に言った。
「あぁ、お前のご両親のやってる宿に泊まってるおっさんだろ。どうした? 態度が悪いのか?」
「まさか! めっちゃ行儀良い人で話もうまいし、ずっといても良いですよって母さんが言うくらいだ」
「じゃあ、そのおっさんが何なんだ?」
「実はさ、遺跡が何の目的で造られたかとか、昔の人の暮らしとかがもうすぐ分かりそうだって言ってんだよ」
「へぇ、そいつは面白そうじゃん」
凌介は、どんな自分の話もしっかり聞いてくれる哲彦が好きだった。どれだけ長く喋っていても、哲彦は嫌な顔一つせずに頷いたり笑ったりしながら聞いてくれる。
特にそれを感じているのは小学2年生の時。ヤンチャ系だった凌介は、理由は忘れたが担任教師にひどく怒られた。そしてそれが嫌になった凌介は、教室を飛び出して学校の裏庭の隅にひとりで隠れていた。そんな凌介を探してくれたのが、当時は別のクラスだった哲彦だった。仁楼村出身同士ということである程度仲は良かったが、互いに平輪町でできた友達の方とよく遊んでいた。だからその時、面と向かうのはなんだか久し振りに凌介は思えた。
哲彦は凌介の隣に座るといつもと何も変わらない調子で、「話したいことがあるんなら、何でも聞いてやるぞ」と言った。その瞬間、凌介はあることに気が付いた。平輪町でできた友達はただ”仲良くしている”だけだった。つまり本当に親身になって、自分のことを知ろうとしてくれているヤツがいなかった。
凌介は気が付けば、面白いことから腹立たしいこと、嬉しかったことに哀しかったこと、最近あった様々なことを哲彦に話していた。哲彦は、凌介が面白いことを話せば笑うし、腹立たしいことを話せば「そりゃ怒るのも無理はない」と言い、ずっと凌介の傍にいてくれた。
どれほどそこで過ごしたのかは分からないが、あらゆることを吐き出した凌介の気持ちは晴れ晴れとしていた。先生に教室を飛び出したことを謝ろうかとも思った。しかし、長い時間哲彦を拘束していたことに気づき、そのことを謝ろうとすると哲彦はこう言った。「オレは好きでやってんだから気にすんな。久しぶりに凌介と話せて楽しかった。またこうやって話そう」
凌介はその言葉に救われた。頭も良い哲彦は、凌介が何かに悩んでいるときは相談に乗ってくれた。家族間の悩みや友達関係、勉強も教えてくれた。もし、哲彦がいなかったら林川凌介という男はどうなっていたのだろう。考えるのすら怖い。何年先も俺らはこうしているのだろう、そう凌介は思っていた。
◇
哲彦と凌介は、平輪町から仁楼村へ続くトンネルの入り口に誰かがいるのを見つけた。平輪高校の制服を着た、背丈が同じくらいの女子ふたり。ポニーテールの子と、サイドテールの子。その人物が誰であるかをふたりはすぐに判断できた。
「おぅい! 里奈! みのり!」
哲彦が大きく手を振ると、里奈とみのりはふたりのもとに駆けてきた。夕日を背に浴びた彼女らは、いつもより数倍綺麗に見えた。
「どうしてまだ帰ってなかったんだ?」
尋ねる哲彦に、里奈は後ろにまとめた髪を揺らしながら言う。
「ゴメンね、どうしても哲彦と帰りたくてさ……良いよね?」
目の前まで迫った里奈からは、ふんわりとした甘い香りがした。にっこりと笑みを浮かべる彼女を前に、自分の顔が赤くなっているのが哲彦は分かった。
「あ、あぁ! もちろん!」
◇
哲彦と里奈が前を歩き、凌介とみのりは後ろを少し間をあけて歩いていた。自分と里奈を邪魔したら悪いだろうと気を遣ってくれている、哲彦はそう思った。何を話そうか考えていると、里奈の方から話し出した。
「ね、哲彦。生徒会の用事って何だったの?」
「体育祭の体制を見直そうと思ってさ。去年の体育祭の写真を探してたんだよ」
彼女の顔を見るのがなんだか恥ずかしくて、哲彦は前を見ながら答える。
「ふぅん……やっぱり哲彦は真面目ね」
哲彦はその時初めて、里奈の手がこっそりこちらに伸びていることに気が付いた。後ろから凌介とみのりが見ていることも忘れて、哲彦は手をつないだ。
哲彦と里奈がこんな関係になったのは、高校3年生が始まったばかりの頃。意を決して哲彦は彼女に自分の想いを告げた。そして彼女も哲彦の決意に、目に涙を湛えながら「喜んで」と言った。
哲彦が彼女に恋心を抱いたのはいつだったのか、明確には覚えていない。同じ村に住んでいるということで、昔から凌介やみのりも含めてよく一緒に遊んだ。当時みのりは体が弱かったからたまにしか遊んでいなかったが、度々里奈とふたりで村を走り回っていたことは知っていた。小学生になってからも里奈はクラスメイトたちに優しく接していた。喧嘩があれば仲裁に入るし、仲間外れの子がいたら話しかけてそっと輪に入れるように手伝っていた。彼女は皆から慕われていた。友達のために一生懸命になる、そんな思いやりのある彼女の姿に、哲彦は徐々に惹かれていったのかもしれない。
よく覚えているのは仁楼村で行われる夏祭りの日。確か、中学1年生だったと思う。何かの理由で凌介とみのりは祭りに来れず、哲彦と里奈はふたりで祭りを回った。彼女は新しい花柄の水色の浴衣を着ていて、いつも学校で会う彼女とは雰囲気が違った。少し、大人びているような感じ。そしてなぜだか哲彦の胸はドキドキしていた。
祭りの屋台を回りながら、哲彦は今まで味わったことのないような感覚を味わっていた。横を歩く里奈の姿をなぜだが恥ずかしくて見れないのだ。里奈が新しい洋服を着てきたときに感想をきかれ「かわいいね」などと言ったことはあるが、今日はそんな言葉で表せない服装だと感じていた。
祭りのクライマックス、夜空に花火があがった。哲彦と里奈は土手に座って花火を見ていた。ぼーっとしてなんとなく地面に下ろした自分の左手に、温かいものが重なった。驚いて左を見ると、里奈が照れくさそうに笑っていた。
明確にこの気持ちに気付いたのは、その時だったのかもしれない。オレと里奈、この関係はいつまでもいつまでも続いてやがて――そう思っていた。
◇
「それじゃまた明日!」
仁楼村に帰ってきた4人は、十字路で手を振り別れる。哲彦と里奈は家へ帰る前に、とあるところへ向かっていた。
「やっほー!」
里奈は喫茶店「アリサワ」のドアを開ける。カランカランとドアの上に付いたベルが鳴った。
「あら、里奈。おかえり」
里奈を迎えたのは、里奈と10歳離れた姉である美琴。今はこの喫茶店のマスター、有沢淳也と結婚してふたりで喫茶店を切り盛りしている。
「それに哲彦君も一緒なのね。いらっしゃい」
「ど、どうも。美琴さん」
里奈と哲彦は窓際のテーブルに座る。里奈は座ると同時に、カウンターの奥の美琴に言った。
「あたしはイチゴパフェとアイスコーヒー! 哲彦は?」
「そうだなぁ……チョコレートパフェとアイスコーヒーで、お願いします」
「はぁ~い!」
美琴は元気に返事をすると、冷蔵庫からパフェの材料を取り出した。その横では淳也がコーヒーを淹れていた。
◇
美琴は完成した2つのパフェをテーブルに運ぶ。少しだけトッピングを多めに作ってある。
「はい、おまたせ! 今日はわたしからサービスさせてもらわね」
「え、ホント! ありがと、お姉ちゃん!」
「すみません、美琴さん……オレらのために」
里奈はニコッと笑って純粋に喜んでいるが、哲彦は少し申し訳なさそうな様子。そんな彼氏を見かねて、美琴は言った。
「気にしないでよ、哲彦君。なんだか嬉しいのよ、あなたたちを見ていると。ね、淳也」
美琴がカウンターの奥の淳也に呼びかけると、しみじみとした表情で頷く。
「あぁ、そうだな……。俺は君がいなくちゃ、こうはなってないだろうからさ」
高校を卒業してから、美琴は「アリサワ」で働くようになった。元々は淳也の父が経営していた店で、淳也も店員のひとりに過ぎなかった。しかし美琴が働き始めて2年が経ったある日、淳也の父が急病で亡くなってしまったのである。母を幼いころに亡くしていた淳也にとって、唯一の身内だった父の死は非常に大きなショックであり、一時期は家に引きこもったままだった。そんな彼を支えたのが、美琴だった。
美琴は毎日のように淳也の家に通い、彼を励まし続けた。最初はほとんど何も口にしなかった淳也だったが、やがて美琴の手料理を食べるようになって、村の中をふたりで散歩できるほどにまで回復した。
淳也の父の死から半年後、「アリサワ」は再び営業を始めた。営業再開記念パーティーで多くの常連や村人たちが見守る中、淳也はもうひとりの店員にこう告げたのだ。俺と結婚してくれないか、と。もちろん返事はオーケー。晴れて淳也と美琴は結ばれたのだ。
淳也も美琴も、自分たちの子供にこの店を継いでほしい、そんな風に思っていた。きっとそんな日が来ると信じていた。
◇
「みのり、おかえり」
交番の前を歩く自分の娘に、鷹取勝正は声をかける。
「ただいま、お父さん。今日もお疲れ様!」
勝正は、この仁楼村の駐在警察官。村人たちからは”カツさん”と呼ばれている。彼は今年で48歳だが、20年近くずっとこの村にいる。大した事件も事故も起こらず、最近起きた1番大きな事故といえばおばさんが自転車でよろけて畑に落っこちた、そんなものである。だがこの村で妻と出会い、娘も生まれた。だから彼はこの運命のめぐりあわせに感謝している。
娘のみのりは小さいころ、体があまり強くなかった。里奈ちゃんという友達ができてからは彼女に色々なところに連れまわされていた。万一のことがあったら……勝正の妻は何度もそう言った。勝正も最初は娘と里奈を強く叱っていた。だが次第にみのりは明るくなり、元気になってきたように見えた。念のため医者にも確認したが、激しすぎる運動でなければ大丈夫だろうと言われた。それからは妻も何も言わないようになり、みのりもすくすくと元気に育った。
勝正は娘のことを愛している。あんなに家に籠っていたみのりがここまで元気になり、この先どう羽ばたいていくのだろう。勝正はそれが楽しみでしょうがない。どんな男と恋に落ち、どんな職業に就きたいのか。この村に残るのか、都会に出て行ってしまうのか。たとえどうなっても、みのりが自分で決めた道なら勝正はそれを見届ける覚悟がある。実り多き人生を送ってほしい、そんな願いの名前だから。
勝正は立派に成長した娘が楽しみだった。きっと、自分が死ぬまでにそんな娘を見ることができると思っていた。
◇
「あれ、伯父さん?」
哲彦が家に帰ると伯父の名畑継治が玄関から出てきた。仁楼村村長である継治は、哲彦の母親の兄であった。
「おぅ、哲彦君か。ちょっと君のお母さんと話があってな。もう帰るところだ」
継治はそう言うと片手をサッと挙げてから、スタスタと歩き出した。
哲彦は伯父のことを尊敬していた。小さいとはいえ、1つの村の長である継治。村民から慕われ、リーダーシップもあって頭も良い。そんな伯父は哲彦の憧れの存在。両親にすら言っていないが、いつかは自分が伯父のような村長になって、この村をまとめてみたいと思っていた。継治にはふたりの息子がいるが、彼らにも負けないような能力を持って自分こそが村長になりたかった。
◇
「ただいま」
継治が家の中に言うと、廊下の奥からパタパタと走る音がする。
「お帰り、村長」
真っ先に出迎えたのは継治の次男、修二。夕食を作っていたのかエプロン姿だった。においを嗅いでみると、どうやら今日のメニューはカレーのようだ。
「ほぉ、今日はカレーか。それから家にいる間くらいは村長と呼ばないでくれ」
「はいはい、分かってるって父さん」
修二はにこやかに笑うと廊下を来た方へ戻る。そんな息子を追って継治がダイニングに向かうと、カレーの皿は2つしか出ていない。修二は父がそのことを疑問に思ったのだと瞬時に察したのか、継治が問う前に答える。
「母さんはお友達と食べるから夕飯はいらないって言って、兄さんはカノジョさんの家でご馳走になるからいらないってさ」
「そうか。つまりふたりきりの夕飯か」
「そうだね。それじゃ、準備しとくから着替えてきてよ」
修二は今年で28歳。正直なところは安定した職に就いてほしいと継治は思っていたが、彼が選んだ道は小説家。あまり賛成はしていないが何かの賞を獲ったとかで、一層やる気になっているようだったので応援はしている。自分の決めた道なのだから、最後までやり遂げてほしいと思っている。
今まで、修二には様々な習い事をさせた。ピアノやサッカー、柔道など。どれもやる気がない様子で長続きしなかった。だが今、小説を書いている姿だけは妙に輝いて見える。もしかしたら、神が息子に与えた能力はこれだったのかもしれない。妻はいまだに反対するが、頑張らせても良いと継治は思い始めている。
胸を張って「これが名畑修二の実力だ!」と言ってくる日が必ずいつか来る、継治はそう信じていた。
◇
修二は夕食を食べ終えると、父をひとり家に残してトンネルの前まで来ていた。腕時計を確認すると午後8時半を過ぎている。8時には帰ってくると言っていたはずなのに……。そんなことを考えていると、ようやくひとりの人物がトンネルの奥から現れた。
「ごめんね、修二!」
その声を聞いて修二はホッと胸をなでおろす。その小柄でボブカットの女性の名は柿原清美。平輪高校で物理の先生をしている。現在、名畑修二と交際中である。
「いやぁ、ずいぶん遅かったね清美。心配しちゃったよ」
修二が声をかけると、清美はニコリと笑った。
「うん、会議が思いのほか長引いちゃって。でももう大丈夫よ」
毎日、こうして清美を迎えに来るのが修二の日課だった。朝は早い時間に家を出る清美とはなかなか会えないので、こうして夜に会うことにしているのだった。
修二と清美が交際を始めたのは半年前。修二と清美は幼馴染で、高校を卒業後、清美は教師になるために都心の大学へ、修二はとりあえずで村長の父の手伝いをしていた。
修二は昔から、容姿は平凡だが誰よりも優しさを持っている清美のことが好きだった。でもきっと都心の大学に行ったら、そっちで彼氏を作るんだろうと修二は思っていた。しかし噂で聞くには、何度か告白されたらしいがその度に断っていたらしい。”好きな人がいるから”という理由で。
教員免許を持って平輪高校にやってきた清美は、再び故郷の仁楼村に住み始めた。そして修二に告げた。「付き合ってください」と。だが努力して夢を叶えた彼女と、ただ何となく村長秘書みたいなことをしている修二。修二は自分が許せなかった。だから清美にこう言った。「僕が書いた小説が、何かの賞を獲れれば付き合いたい。それまで待っていてくれ」
そして半年前、見事に交際を始めたわけなのである。清美は自分のいったいどこに惹かれたのだろうと、修二は疑問に思っていた。それをきいてみると、「きっとあなたが私を好きになったのと同じ理由よ」、そう言われた。自分をそんな風に思う人がいたなんて。修二は驚きと感動を覚えた。
ようやく始めたお付き合い、この時間がいつまでも続くと良いなぁ、そんな風にぼんやりと考えながら修二は夜道を歩いていた。彼女との未来もぼんやりと想像していた。
◇
「じゃ、修二。ありがとね」
清美は修二と別れ、玄関のドアを開けた。
「ただいま」
清美は、母の弟夫婦が営む宿の一室に住んでいた。清美の両親は子供のころに亡くなっており、昔からそこに住んでいた。自分の子のように接してくれる叔父夫婦には、感謝してもしきれないと清美は思っている。
「おかえり、姉ちゃん」
廊下の奥からやってきた、背の高いいかにもスポーツマンといった風貌の彼は、清美の従弟である林川凌介。凌介が生まれたころから、都心の大学に通っていた期間を除けばずっとここに住む清美は、彼にとって姉のような存在だった。清美もまた、彼を弟のように見ていた。まさか彼のクラスの担任を持つことになるとは清美は考えてもいなかった。でも互いにそれとなく接しているため、仁楼村出身の人でなければ従姉弟同士であることを知らない。
「あのさ、安野先生知らねぇ? 全然帰ってこないんだよ」
清美が自室に戻ろうと階段を上りかけた時、急に凌介が言った。安野先生というのは少し前に仁楼村に調査をしに来た考古学者。礼儀正しく、村人たちにも好印象の男。大抵は夜9時過ぎには帰ってくるのだけど、今日はまだらしい。
「さぁ? まだ遺跡にいるんじゃない? 別に大人なんだから、心配することないわよ。あんたじゃないんだからね」
「はん、俺だって大人だよ」
凌介は、両親を病気で亡くした清美にとって大きな支えだった。優しく自分を受け入れてくれた叔父夫婦だけでなく、新しい命の誕生に立ち会えたことは自分に生きる希望を与えてくれた。少し学校で嫌なことがあっても、凌介の世話をしていればすぐに忘れられた。
次第に元気も取り戻し、いつしか清美は教師を目指していた。凌介のような子供たちを正しく導きたい、そんな思いから教師を志した。そして今、その林川凌介を指導しているのだから不思議な連鎖だなぁと清美は感じている。
これから先も子供たちを正しい道に向かわせたい。そして凌介の”姉”として凌介を見守りたい。そんな硬い決心が清美にはあった。
◇
境野里奈はひとり、自宅の自分の部屋にいた。
里奈はなぜだか不安に押しつぶされそうな、そんな気持ちだった。いつもの日常が崩れ去るような、そんな気がしてならない。根拠は全くないのだけど、何かが心を圧迫している。
なんで? なんでなんだろ?
里奈は自室の窓を開けて夜空を仰いだ。細い月とキラキラ輝く星が村を、そして里奈自身を照らしている。
”いつもの日常”ってなんだろう?
この村に生まれ、この村で17年間生きてきた。哲彦、みのり、凌介の3人はいつも傍にいた。哲彦は大切な恋人だし、みのりは大切な親友、凌介はあたしたちのことをいつも考えてくれている。きっと3人との付き合いはずっとずっと続くんだろうと、里奈は思っていた――
「あれ……?」
急激な眠気が里奈を襲う。立っていられないほどになり、よろよろとベッドに倒れこんだ。
遠くからは獣の遠吠えが聞こえた気がしたが、何かを考える間もなく里奈は眠りについた。
開けっ放しにしていた窓からは、霧が流れ込んでいた。