エピローグ
『おかしい。あの町は化かされている。
何がおかしいかって、あの平輪町の住人は全く仁楼村のことを覚えていない。
役場に学校に商店街などあらゆる場所のあらゆる人に尋ねたのに、誰ひとりとして覚えていない。
決して隠そうとしているような感じではなく、本当に記憶からなくなっているようだった。
そして今、わたしはその忘れ去られた村に入ったのだ』
そこで録音されているものは最後のようだ。それを確認すると、その人物はボイスレコーダーを地面にたたきつけた。
◇
〈前日〉
安野吾郎教授は、とある大学で考古学を研究していた。研究室には来住瑛海をはじめとした何人もの助手がいて、人の好い安野教授の研究室はいつも和気藹々としていた。だが、気が付くと安野教授は姿を消していた。1か月前くらいにいなくなったことだけは何となく覚えているのだが、いつどのような状況でいなくなったのか全く記憶にない。そんな中、急に瑛海は思い出したのだ。安野教授は確かに「仁楼村」という場所に調査に行っていたはずだ。しかし、他の仲間たちにきいてみても皆、そんなところは知らないと首を横に振るばかりだ。おかしい。なんとも言い表せない不自然さを、瑛海は感じていた。
瑛海が真っ先に相談したのは、探偵をしている叔父の若松輝隆。瑛海の家族の中で、最も頼りになる人物だと瑛海は思っている。頭も良く行動力もあって、いざというときはいつも助けてくれる。最初に電話で話したときは嘘だと言って全くとりあってもらえなかったが、強引に会う約束をした。
「しかしねぇ、瑛海ちゃん。全く信じられないんだよ、君の言う『仁楼村』というところがあったということが」
「でも本当なの! 急に思い出したの、確かに安野先生はそこに調査のために向かった。同じ研究室の友達、みんな絶対に安野先生について行ったはずなのにみんな覚えてないのよ。なぜだかわたしだけ、この来住瑛海だけ記憶が蘇ったの!」
輝隆は大きくため息をつくと、1枚の地図を鞄から取り出した。
「これは俺の友人から借りたものだ。実家がその平輪町の傍だって言ってたから、証拠になると思って借りてきた」
テーブルの上に広げると、輝隆はそれの左の方を指さす。そこには黒く太い文字で「平輪町」と書いてある。
「ここが平輪町。君の話によれば、『仁楼村』はここからトンネルで進んだところだろう? しかしよく見てみろ。南北と西側は険しい山に囲まれていて、とても村らしいものがあるとは思えん。どの方向も山を越えれば別の村や町があるが、どれも名前は違う。それにいくらトンネルでも、とても20分くらいじゃいける距離じゃない。東側は平輪町に続く唯一の道が通っていて、割と開けているようだったから別の村が存在するわけがない。つまり、『仁楼村』なんて存在しないんだよ。この地図が作成された、10年前からな。もちろん、最新の地図にも『仁楼村』なんてもんはなかった」
論理的に淡々と瑛海の妄想を壊した輝隆。どうだ、とでも言わんばかりの顔で椅子に思いっきり寄りかかっている。
「でも叔父さん! 本当に『仁楼村』はあって、安野先生はそこに調査しに行ってたの!」
「だが説明した通り、そんなものは……」
「じゃあ行きましょ! 平輪町に向かえば、きっとわかるはずよ!」
◇
ふたりは翌日、車を走らせ平輪町へ向かった。平輪町は、ごく普通の少し辺鄙なところにあるだけの町に見える。
「ほら、やっぱりここよ! わたし、絶対にここに来たことある!」
車を降りるなり興奮する姪の姿を、呆れかえった目で輝隆は見る。なんでここまで執着するのか、輝隆は疑問だった。あそこまでしっかりと説明したはずなのに。
「だがねぇ、『仁楼村』は存在が……」
「もうその話は無し! 平輪町の人に聞けば、絶対に何かわかるって」
「はいはい。それじゃあ俺と瑛海ちゃんで、手分けして情報を集めよう。2時間後、車の前で待ち合わせだ」
「ええ、わかったわ」
ふたりは別々の方向へ歩き出した。
◇
「あ、どうだった?」
輝隆が車へ向かった時にはすでに瑛海はおり、すぐさま尋ねてきた。わずかながらに期待の表情を浮かべながら。しかし輝隆は、そんな彼女に現実を突きつける。
「いやいや。誰ひとりとして、聞いたこともないってさ。爺さん婆さんから若い人まで尋ねたが、収穫はゼロ」
「わたしも同じよ、残念ながらね」
「それじゃあ帰るか?」と、輝隆が言おうとすると瑛海はそれを遮るように言った。
「でもね、仁楼村に繋がるトンネルはあったのよ。村の人に聞いたら、昔に事故で塞がったままとかなんとか言ってたけど……試しに入ってみない?」
「……嫌だと言っても、君は俺を連れてくだろ?」
「じゃ、決まりね」
輝隆はほとんど強引に腕を引かれながら、トンネルへ向かった。
この1歩が、大きな間違いになるとも知らずに。
◇
「本当に――あったのか」
「ほら見なさい! 嘘じゃなかったでしょ」
長いトンネルだった。歩き続けて20分くらいだったろうか。輝隆と瑛海は忘れられた村に、足を踏み入れたのだ。
まだ村の入り口であるせいなのか人の姿は全く見えない。いやそればかりか、人の気配を感じない。辺りは静まり返っていて鳥のさえずりすら聞こえない。ただ家や田畑が広がっているだけで、作り物のようだった。誰かが生活していたという雰囲気もない。この妙な感じに何とも言えない不気味さは、今まで味わったことのない感覚だった。
思わず輝隆が呆然としていたが、ハッと我に返ると隣では瑛海がボイスレコーダーに何かを吹き込んでいた。ボタンを再び押したのを確認してから、輝隆は言う。
「まさか、本当の話だとはな。君から話を聞いたときは、全く信じていなかったが……」
「でしょう? それじゃ、ちょっと村の中を回ってみますか」
「おい、本気か? こんな気味が悪いところを……」
「ええ、当たり前でしょ叔父さん。安野先生の痕跡が何かあるかもしれないし。それに先生はなぜ帰ってこれなかったのか、そして村人たちはどこにいるのか、なんで平輪町の住人は誰もこの村のことを覚えていないのか。気になることだらけで、好奇心が止まらないのよ」
「全く……まあ一応俺もついて行こう。君に何かあったら、姉貴に合わせる顔がないからな。姉貴の一人娘の君に、何かあったら一大事だ」
「ありがと、叔父さん」
「それで、行く場所の目星はついてるのか?」
「えぇ。とりあえず村長さんの家かしらね。安野先生、度々村長さんと話をするために向かってたから」
◇
「おじゃまします……」
村長の家といえども、あまり規模は他の家と変わらない。多少大きいといった程度。瑛海の記憶によれば村長の家族は4人だったらしい。村長とその妻、そして息子ふたり。
「それでどこの部屋、みたいな見当はついてるのか?」
「う~ん……あんまり記憶が定かじゃないのよ。多分こっちなんだけど……」
ふたりは片っ端から部屋をめぐる。物置部屋に書斎に客間などで、瑛海の記憶にある部屋はなかなか見つからない。そしてとある一室の扉を開けた時だ。
「いやぁぁっっ!」
「これは……!」
酷い有り様だった。
死臭の漂うその部屋は、赤黒い血液がまるで絵の具をかけたかのように壁や床にこびりついており、全体が赤く染まっていた。ベッドの上には辛うじて人間だとわかるという程の無残な姿の遺体が乗っていた。
「は、早く部屋から出るんだ、瑛海ちゃん!」
輝隆は半ば失神しかけている瑛海を引っ張って部屋の外へ。隣の部屋は客間らしき部屋だったので、その部屋のベッドに彼女を寝かせる。そして輝隆は椅子に腰かけ、大きく息を吐いた。
「……さて」
隣の部屋では見知らぬ人間の遺体がある。ベッドの上に遺体があったということは、寝込みを襲われたということなのだろうか。血が部屋中に付着しているということからここで殺害されたことは間違さそう。でも――なぜこんなことに? それにあの遺体はいったい誰? 客間で寝ていたということは、村長の客人なのだろうか。
「……叔父さん?」
どれほど時間が経ったのだろうか。ぼーっとしているといつの間にか瑛海が意識を取り戻した。さっきまでとは打って変わり、ひどくおびえた様子だ。
「瑛海ちゃん、これは警察に任せよう。我々の手には負えない。良いね?」
瑛海は力なく頷いた。震える体の瑛海を支えながら、ふたりは村長の家を後にする。
トボトボと歩きながらも輝隆は考えていた。いったいこの村では何が起こったのだろうか。こんな事件があったなんて聞いたこともない。そもそもこの村は、輝隆をはじめとした人々の記憶から完全に抹消されている。記憶だけでなく地図のような記録からも。唯一記憶を持っているのが来住瑛海だけ。安野吾郎と共にここを訪れたと言っている彼女だ。でも安野教授はおろか、人影が全くない。オカルトなことはあまり信じない質だが――何か常識では説明できないことが起きているのではないだろうか? 輝隆はそんな風に考えていた。
「あれ……ねぇ、叔父さん」
瑛海は急に立ち止まり、目の前を指さした。目を凝らすと、ひとりの高校生くらいの少女がにこやかに笑って立っている。この村にまだ住人がいたというのか? 少しの疑問はあったが、輝隆は彼女に話しかける。
「お嬢さん、ちょっと尋ねても良いかな? この村はなんという名前だい?」
「ここ? ここは仁楼村っていうの」
「ほぉ、そうか。私と彼女は、ちょっと知りたいことがあってここまで来たんだが……」
「それって『仁楼』のこと?」
「あぁそうだ。この村はいったい――」
「困るのよねぇ、そういうの」
少女は大きくため息をついた。心底困ったような、そんな感情が伝わるため息だった。
「……どういうことだ?」
「せっかく100年後のための準備をしていたっていうのに、ズカズカと入ってきちゃうってのは。たまにあるみたいなのよね、術がとけること」
「な、何の話をしているんだい?」
輝隆は思わず後ずさる。彼女から感じる、強い気持ちが怖くなったのだ。そして気が付けばいつでも逃げ出せるような、そんな体制をとっていた。だが少女は構わずに輝隆に話しかけ続ける。
「ま、良いわ。また100年我慢しなくちゃとは思ってたけど、こんなところでありつけるなんて、ね」
少女はニッコリと笑った。