映像情報の圧倒的な価値
娯楽の長期的な利用法として、再現性というモノがある。
文学は恐らく、この再現性が高く、長い目で見れば、誰もがプロ級の腕に到達し、高次元娯楽を自給自足できるようになる。
日本人の文化が強い、共感性が強いとか、ヒューマンパワー的な人間力の源は、たぶんコレで成り立つくらい強いんじゃないかと俺は思っている。
さて、俺は映像情報が、再現性の低い娯楽だと見ているのだ。
だがだからといって、その真価が否定されるわけではない。
人間の頭のエミュレーターによって、個々で性能差はあるだろうが、一次創作情報を想起するのは容易いだろう。
情報を加工して、新たに生み出す二次的な領域では、そりゃ文学のような汎用性は、ほぼほぼで皆無と言って良いだろう。
ゆえに再現性が低いのだと云う。
だが俺は、映像情報の真価は、そんなモノでは無いと思っている。
例えば、最近は高品質な映像情報がインフレして、溢れていると思わないだろうか?
某快楽を追求して天へと至るエロ漫画を筆頭に、即物的な娯楽としての利用として、映像情報は注目されているのだ。
確かに再現性は低い、だが模倣、トレース的なプロの技として見れば、再現性は凄く高いのだ。
量産型の小説家と違って、つまるところ、量産型の萌え絵師の能力は、全体的に高い傾向にあるのだ。
再現性の低い情報、ゆえに擬似的な再現性の誤魔化しが効くと云う事だ。
プロを量産するという視点から見れば、映像情報はやはり群を抜いて高い。
そして映像情報を高次元に創造できる創作者が沢山いれば、やれる事は必然的に増えていくのだ。
個人の小説に、個人が絵を提供する事で、相乗効果が出るなんて、なろうでも一般的に行われている事だ。
このような草の根活動的な、人と人とのつながり、切磋琢磨のような事は、まあ普通に馬鹿にできなかったりする。
個人的に言いたい事の趣旨がずれたので、閑話休題、本筋らしきモノに移行するが。
ようは文学は、脳内ネットワークを整合性のとれたモノにして、細部を楽しむ為の、纏まった情報量が多く必要なのだ。
つまりは時間が掛かる、全体を把握し、全体を最適化、全体としての情報量を収集するのだから。
逆に映像情報、漫画やアニメは、個々の刺激が娯楽として強く、上記のような文学的なメソッドを省略しても楽しめる場合が多い。
まあ将来的には、VRの発達とかあーだこーだで、文学をぶっちぎるのは、ほぼ確定なので、
今からでも、映像情報の収集は欠かさずやっておいた方が、後後いろいろな意味で捗るだろうと、俺は視ている。
現に今でも、ゲームとかの分野で、例えばICOやら何やら、映像情報が一線越えて、素晴らしい芸術性を生み出しているのは多々あるのだ。
それでも日本社会の衰退を懸念すると、映像情報に真価を認められないってのは、確かにある。
文学的な共感無くして、真に映像情報を昇華させるのは難しい。
文学の行き詰まり、社会衰退による映像情報の大規模開発・開拓の遅滞、
海外のモノでは、やはり日本人が好み、共感できる映像情報の出現は難しくなるのだから。
確かに無難な選択肢として、文学的な知の開発が、リスク分散的な視点からも正しくみえるだろう。
だが俺は、それでは一線を越えられないと思っている。
真に知の領域を、乾坤一擲に突破しまくる、飛躍の源として、映像情報は欠かせないのだ。
小説に絵がついて、ラノベという分野が生まれたように、な。