2 加瀬栄司(18)
「巻貝、放課後ちょっと時間くれないか」
翌朝、教室で栄司が巻貝に話しかけたのは、クラス全員が振り返るほどの珍事件だったらしい。
「どーしたんだよ、エージ。もしかしてアンモに愛の告白?どうした勉強のしすぎか?それとも女子にもてなすぎておかしくなっちゃった?」
「うるっせぇ、そんなんじゃねーよ」
それに女子にもてないわけじゃない。告白されたことだって何回かあるんだからな。
「なになに、何話すのー?」
友達がわらわらと群がってくる。もっと状況を考えてから言えばよかった。もう遅いけど。
「巻貝、いいか?」
そう聞くと、ヤツは本に目線と落としたまま一度うなずいた。
これ以上のことを言うと、自らクラスに大公開してしまうことになるから余計なことは言わなかった。放課後まで決してその重たそうな口を開くなよ、と念を送っておく。
たぶん通じた。
今朝、栄司は起きると同時に叫んだ。うあああ、と叫んで顔を覆った。
ふすまの向こうからすかさずうるさい、と声が飛んでくる。
叫び声だけは何とか止めたけど・・・顔を覆う手をはずすことはしばらくできなかった。
昨日のことを思い出すと、いますぐ暴れだしたい気持ちになる。
電車のホームの待合室でぼろ泣きとか!しかも、そこにいたのが、巻貝・・・!大して仲良くないどころか話したことすらないかもしれないヤツの前で・・・。
絶対昨日のことを人に知られるわけにはいかない!なんとしてもアイツに口止めをしなければ。登校したら、「昨日ホームでぼろ泣きしたんだって?」なんて誰かに言われたらもう学校になんて行けない。
ソッコーで準備して、朝ごはんも食べずに学校へ向かった。
「今日はずいぶんはやいのね」と家族に見送られながら。
その日は1日、ほとんど巻貝を見て終わってしまった。余計なこと言ってないだろうな、という観察の意味を込めてだけど。
結果的には、心配なかった。あいつは誰と話すわけでもなく、1日中じっと本を読んでいるだけだった。
最後の授業が終わって、みんながわっと沸き立つ。そのどさくさに紛れて、見てしまった。きっとほかの誰も気づいていない。1日中巻貝を見てたから、たまたま気づいたんだ。
あいつは最後の授業が眠かったのか、目をこすった。眼鏡をとって、前髪をよけてから。目をこすったことに驚いたじゃない。その顔が、あまりにも想像と違って。まずその瞳の色。琥珀色というのが正しいんだったか、茶色と表現するにはあまりにも薄い色のその瞳。それから長いまつげに大きい目。ニキビの1つもないきれいな白い肌、筋の通った鼻に、桜色の唇。
正直、誰かと思った。目が離せなかった。たぶんあっという間だった。ほんの数秒にも満たない間だったけれど、その姿はくっきりと映像に残り、俺の心を惑わした。
いつもの眼鏡を装着して、前髪をおろしてしまったときに、やっぱり同一人物なのかと思ったと同時に、ショーを見終わってしまったときのような落胆が心を占めた。
「エージ、なにアンモのことじっと見てんの?」
自分も不審な目で見られていたことに、声をかけられてから気が付いた。
「いや、ほんと、そういうんじゃないから!」
あいつの素顔すげーんだよ、そういえばいいのだろうけど、それを言うつもりは絶対になかった。
「はいはい、あとはごゆっくり。俺はもう予備校へいくよーん」
友達が次々と教室を出て行く。受験を控えた冬の教室はあっという間に人がまばらになった。
巻貝を呼んで、教室を出る。そのときにじっと顔を見つめてみたけれど、眼鏡と前髪が邪魔をしてよくわからなかった。それでも肌とか鼻とか口とかはやっぱりあの時に見たままで、今まで気づかなかったのが不思議なくらいきれいなつくりをしていた。
屋上に向かって階段を上がる。数歩後ろを巻貝がついてくる。まるでこれじゃあカツアゲしに行くみたいだよな、と忍び笑う。実際は、自分が弱みを握られている側にいるわけだけど。