2 加瀬栄司(18)
フツ―の高校生だった俺に、まさかこんな不幸が降りかかるなんて。
最初は、ふすまの向こうの両親の会話を盗み聞いたんだった。
この秋一番の冷え込みを記録した雨の日だった。冷たい糸が空から降って、すきま風が吹き込んでくる夜だった。
『・・・すまん、ほんとうにすまない』
無口なおやじが、母親に謝っている声だった。絞り出すようなその声に栄司の体はすくんで動けなくなった。
そこから続いた沈黙に、なにか悪いことがおこったのだろうということがわかった。
見なかったふりをするのが正しいと思って、そのことを忘れた。
何が起こったのかわかったのは、一月後のこと。
妹たちが寝静まった時間帯、受験生の栄司は勉強していたわけだけど、母に呼ばれて居間へ行った。
6畳の居間ではおやじがひざをついて座っていた。母もその隣へ座る。そしてその向かいに栄司も同じように膝をついてすわった。
昔、おやじから説教されるときはいつもこれが定位置だったよな、と思い出す。ただ、そのときはおやじはあぐらだった。差し向かいで説教されたのなんて、ずいぶん前だ。あのころはこうなるともう怖くてしかたなかった。
いまはもう、恐ろしさは感じない。
2人ともやせたな、と思った。
おやじは唇をかみしめ、母の瞳は不安げにゆれていた。
ああ、これはなにか嫌な話がくるぞ、と覚悟したそのとき、おやじが、両手のこぶしを床につけた。
「栄司。大学の金は出してやれない、すまない」
聞けば、おやじは1か月まえに会社でリストラに遭ったそうだ。
それから一月、職探しをしているけれども、なんのあてもない中年の就職活動は難航している。
母もパートに出るようになったが、それでも月々のローンと生活費はとてもまかないきれず、これまでの蓄えに手を付けるしかないのだということだった。
よく、わからなかった。いや、事実としてはわかってるんだけど。
それが俺の家族の身の上に起こったことなのだと言われても、実感がわかないっていうか、だからどうなんだろう、とぼうっと考えた。
そうしてしばらくしてから、おやじが最初に発した言葉の意味がはいってきた。
大学の金は出せない、と。
意味が、わかった。
でも「それなら仕方がない」なんて、すぐにあきらめられるはずもなかった。
ちょっと時間がほしい、と両親に告げて、その日は眠った。
高卒で働くことになるかもしれないという、いままで夢にも思わなかった現実。
夢であったらいいのに、と思いながら目を閉じた。
翌朝は霜が降りるほどの朝で、記録的に早い冬の訪れだった。
何事もなかったように、昨日とおなじ道をあるいて電車にのって、学校につく。
昇降口に吹き込む風も、階段の長さも、廊下のひんやりした空気も、いつも通り。
教室の扉のたてつけの悪さも、女子のグループがいる場所も、勉強している面子も、何もいつもと変わらない。
俺はもう、違うのに。
2年になるとき、俺は進学コースを選んだ。ずっと受験を意識した授業を受けてきた。
けっこう一生懸命勉強して成績落とさないように頑張ったりとかも実はしてたんだ。最近は、志望校の過去問対策とか、けっこうちゃんと勉強してた。
教室の自分の席に座ると、友達が集まってくる。
「エージおっはよー。昨日のテレビみた?俺、途中で親に消されちゃってさー。続き気になってしょうがないんだよね。受験生でもテレビくらいみつっつーの。勝手に消すのなんて親のオーボーだよな」
友達と会話を始めて、栄司もいつもの風景の中の1つになる。
でももう完全に溶け込むことできない。自分はこのクラスの異物になることが決まってしまったから。
その日の放課後、俺は教室のごみ箱にこれまでの模試の結果をすべて破り捨てた。