1 巻貝由有(26)
「ごちそうさまでした。お茶でも入れようか。お風呂も沸かすよ」
「泊まっていいのか?」
「明日土曜日だから来たんでしょ」
「さすが、察しがいいことで」
「いつものことだから」
3年くらい前に、栄司も1人暮らしを始めたはずだ。年が離れている妹たちがだいぶ大きくなったから、実家を出ていくことにした、と言っていた。
それでも給料の一部を家に送っているみたいで、安くて古いアパートに住んでいる。
「やっぱ、ここのが快適」
風呂は自動で追い炊きがかかるから途中で冷めないし、隙間風もない。しかも由有が持っている客用布団は栄司の自宅の布団よりも寝ごこちがいいらしい。
まあ、でもそれは理由の一部だろう。
たぶん、家族5人でわいわい育ってきた彼には、1人の家は静かすぎるのだろう。由有にはわからないから、想像でしかないけれど。「妹たちがいつもうるせー」とこぼしていた彼が全然いやそうじゃなかったのはよく覚えてる。1人暮らしをはじめたのも妹たちに出てけ出てけと言われ続けてとうとう観念した、と言っていた。
いつも笑い声の絶えない家にいた彼が電気の消えたアパートに1人で帰る。その気持ちは想像に難くない。しかも職場の近くが楽だと言って、実家からは少し遠いところに居を構えてしまったらしい。
実家よりも近い由有の家によく現れるのはきっとそのせいだろう。なんとなく人恋しいのだ。
ここは彼にとってすでに勝手知ったる家だから、布団も自分で出して敷くし、次の日晴れればベランダに干してくれる。由有のベッドにある掛け布団も一緒に干してくれるから、栄司のいる晴れの日は早起きを強いられる。それがちょっとつらいところだけど。でも干してくれた布団はほかほかで、朝の苦しみを忘れられるくらいには快適だ。
朝に弱い由有にとってはありがたいことに、次の日の天気はいまいちだった。いつ一雨きてもおかしくないくらいのどんよりとした雲が空を覆っていた。
栄司がちょっと残念そうに自分の布団を押し入れにしまっているのをベッドから見て、今日はもう少し寝てられる、と再び目を閉じる。まだもうちょっと・・・とまどろみかけらところで、ピンポーン、と音がした。
しぶしぶ目を開ける。宅配の覚えはないから、セールスか何かかも。
「俺、出ようか?」
親切なその申し出にこっくり頷く。栄司はインターホンをとるとすぐに玄関へ向かった。
「書留だってさ。印鑑あるか?」
「うーん、靴箱のうえにシャチハタが転がってるはず」
「了解」
書留ってなんだろうと思いながら、もそもそと暖かい布団にもぐったら、あっという間に意識がなくなってしまった。栄司がドアを開けた音は聞こえた気がするけれど・・・。
ふと目が覚めたら、もうお昼近かった。やばいな、と思ってリビングへ行くと真剣な顔をした栄司が座っていた。
目の前には、1通の定形封筒。赤い文字が入っているからそれがおそらくさっきの書留なんだろう。
いつもなら昼近くまで寝ていた由有に小言のひとつでもよこしてくる栄司が何も言わない。ただ、真剣な顔をしてその封筒をじっと見ている。
「どうしたの?」
目の前にある封筒を手に取る。表書きの字を見ただけで、その封筒を落としそうになった。念のため裏返してみて、予感は確信に変わる。
封筒を持ったまま、動けなくなった。
どうして、いまごろ・・・。
「そんなに真っ青になるな。とりあえず1回置いて、座れよ。茶入れてやるから」
椅子に座らされた。
電気ケトルからボコボコとお湯がわく音がする。
ポットに湯が注がれると、ほうじ茶特有の香りが部屋に広がった。
差出人は、巻貝 佳代子。
『由有ちゃん』
そう呼びかけてくる姿が、思い浮かぶ。ふわふわとした夢見がちな人だった。
いつも自分に自信がなくて、『どうしよう』とおろおろしている姿が一番記憶に多い。
封書に書かれていた裏書は、紛う事なき母の名、母の筆跡だった。