1 巻貝由有(26)
「おーい、由有?寝てんのか?」
突然聞こえた声にはっとして振り返ると、書斎の扉から栄司が顔をのぞかせていた。
「どうかした?」
「何回も呼んでんのに全然返事がないから」
「そうだったんだ、ごめん」
「大丈夫、慣れてる」
何かに夢中になってしまうと、周りがぜんぜん目に入らなくなるのが昔からのくせだ。本を読んでたら電車を乗り過ごしたことなんてかぞえきれないし、呼びかけてくる声が耳に入らないなんてこともざらだった。
書斎を出て、リビングの席に着く。広すぎるリビングにちょこんと置かれているテーブルとイスのセット。
カウンターになっているキッチンから栄司がつぎつぎに料理が乗った皿を出してきて、それを受け取ってテーブルに並べる。いつもながら一汁三菜が並んだ完璧な食事だ。しかも胃にやさしそうな和食が並んでいる。
「いただきます」
手を合わせて、みそ汁をすする。そのあたたかさがじんわりと体にしみわたりながら胃におちていくのを感じた。
向かいの料理人は、倍くらいのスピードで、倍以上に盛られたご飯をかき込んでいた。
「早飯は体によくないよ」
「だって腹減ってんだよ。今日なんてケータイの万歩計2万に行くんじゃないかってくらい歩き回ったんだからさ。引きこもりのだれかさんとは違うわけ」
ずいぶんな言われようだけど、言い返せる材料がない。
普段外に出るのは近所の買物にいくくらいだ。
「ふうん、忙しいんだ」
「まあまあってところ。由有は?どうなんだ?」
「そこそこかな。まだ締め切りには余裕あるけど、あんまり油断してるとあっという間だから」
「へえー。そっちこそ忙しいんじゃん。さすが売れっ子小説家の巻貝センセー」
そう茶化してくる割には、栄司は決して由有がかいた本を読まない。いつか読むときがきたら、自分で買って読むといっているけれど。本は漫画しか読まないこの男に、そんな日がくるとは思えない。まあ由有としても読まれないほうが好都合だから特に勧めない。
ピンポーンとインターホンが鳴った。このあいだ通販したものが届いたんだろう。受話器へ行って応答すると、予測通り『宅配便です』と自社名を告げる声がした。
玄関の近くにおいてある眼鏡を手に取った。ぶあついガラスがはいったふちの大きな眼鏡。これを装着して、玄関の扉をあけた。求められるままにサインをして、荷物をうけとる。両手で抱える大きさのそれをかかえたままリビングへ戻った。
「なに買ったの?」
「ホットカーペット。机の足元にしいたら、あったかいかと思って」
「へえ。時期遅くない?いまから?」
「もう冬物は激安だから」
抱えた段ボールを書斎へどんと置く。開けるのは明日でいいだろう。今日はもう仕事をするつもりはない。
「つか、その眼鏡。宅配便の受け取りでもつけるんだ」
「うん、まあね」
「どうなの?そっちは」
「まあまあだよ」
「そうか、まあそんなもんだよな」
うん、と頷く。まあまあって便利な言葉だ。肯定でも否定でもなく、大げさでも矮小でもない。しかも、相手に踏み込ませることを躊躇させる力がある。
「そういえば、その眼鏡とかのせいで高校のとき変なあだ名つけられてたよな」
「うるさい」
まったく。自分の過去は掘り返したがらないくせに人のことばっかり言うんだから。
眼鏡をはずして机の上に置いた。食事を再開する。
「この、タラのみぞれ煮、ちょーおいしくね?」
栄司ははしを握りしめて自分の作った料理の美味しさに感動している。
「うん、おいしい」
お世辞でもなんでもなく、そう答える。そっけない答え方だとは思う。
でも、本当にそう思っているよ、と強く伝える方法を知らない。それができたらたぶん違う人生を送っている。でも、もう今更だ。少なくともこの向かいに座る相手は、由有が本当にそう思っていることをわかってる。たぶん。
「煮物もめっちゃうまいよなー」
もしくは由有がどう思っていようが、どうでもいいっていう可能性もあるけど。
栄司の言う通り、タラのみぞれ煮も、大根とじゃがいもの煮物も、どれも美味しい。作りたてってやっぱりいい。自分じゃあ全然しないから、栄司がきたときにしか味わえないのが残念だ。
由有もあっという間にお皿にあった料理を平らげてしまった。気持ちはもう少したべたいところだけど、おなかはもういっぱいだった。