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4 再会―巻貝由有―

 栄司がお風呂に入っているときに第一波は来た。

 静かな部屋で1人になったとき、明日もっていくカバンが視界に入った。

 明日会うんだな、と改めて思った。


 あれから、9年と少しがたった。

 今でも秋の冷たい風が嫌いだ。落ち葉を見るのも。日が短くなるのも。

 あの最後の日の図書館からの帰り道の冷たい風を思い出して、体がぶるりと震えた。

 エアコンの温度を少し上げて、冷蔵庫に入っていたお茶をレンジで温めて飲んだ。

 お茶を飲むときに息を吹きかけて冷ますけど、いつも揺れていた前髪が目の前にない。

 なんだか気になって、髪を整えるように引っ張ってみるけれど、当然元に戻るわけがなかった。

 ガタガタ、と音がして風呂の扉が開いた。

「風呂どーも。お湯流しちゃっていいの?」

「あ、うん。いいよ」

 前髪をいじっていたのをごまかすように立ち上がって、グラスに冷たいお茶を注いであげた。

「なんか今日やさしーじゃん」

「いつもでしょ」

「はいはい、おっしゃる通り」

 コップは一瞬で空になって、栄司の手で流しへ運ばれた。それを流しに置くときに、すでにそこにあった由有のコップとぶつかったのか、カチャンと食器がぶつかる音がした。

 体がすくんだ。

 いつもは、こんなことないのに。

 栄司にばれないように、洗面所にはいって扉を閉めた。

 ゆっくり息を吐き出す。

 母の姿が。ナニカに取りつかれたときの母の姿が目に浮かんだ。なにもいらない、と呟いて奇行を始めたその時の姿は、鮮明な記憶として由有の頭に残っている。

 由有もいらないものの中に入っているのだと、いないほうが母は幸せなんだろうとずっと思ってきた。

 あの手紙は、本当に正気の母が書いたもんなんだろうか。おかしくなったときに書いたもので、もし、そんな手紙書いてないなんて言われたら・・・?どうして来たの、なんて聞かれたら?

 由有として認識してもらえるのなら、まだいいかもしれない。

 もし、由有の顔を見てまた祐一のことを思い出したら?

 自分ではぜんぜん似てないと思ったけど、母から見て僕と祐一が似ているのかもしれない。そうしたら、また、あの時みたいに・・・。

 今は由有の顔を見ない生活をしているからまともでいられるのかもしれないけど、もし由有が顔を見せてしまったことで、ぶり返したら?

 やっぱり前髪も眼鏡も必要だったのかも。

 どうして切っちゃったんだろう。 

 会ってみてから、もし、大丈夫そうだったら切ればよかったのに。なんでこんな会う前から早まったまねをしてしまったんだろう。

 いくら引っ張ってみたって、切ってしまった前髪はすぐには伸びてこない。

 なんだか急に、寒くなった気がした。

 ゴンゴンと洗面所の扉がたたかれた。

「由有、入っていいか?」

 栄司の声で我に返った。

「うん」

 歯ブラシをとって、手の震えをごまかした。


 ベッドに入っても、寒さも手の震えも良くならなかった。

 エアコンもついているし、ふとんだってかぶってる。その上には毛布も掛けている。

 でも、寒くてたまらなかった。もう1枚上着を着ようと思って、ベッドを出た。

 ベッド横の布団にいる栄司もまだ起きていたみたいで、どうした?と声がかかる。

「なんか寒くて。栄司は大丈夫?」

「寒い?この部屋熱いくらいだと思うけど・・・。ちょっとこっち来てみ」

 体を起こした栄司の隣に座る。握り締めていた両手が大きな手に包まれた。

「冷てっ」

 栄司の手が由有の手の甲から二の腕、肩へと上がってきた。

「震えてんじゃん」

「うん、なんか寒くて」

 栄司の両手が両肩から二の腕にかけてさすってくれた。少しそうしてもらえただけでだいぶ震えはおさまった。

「ありがと。もう大丈夫かも」

 立ち上がってベッドに戻ろうとしたけど、腕をつかまれた。

「大丈夫じゃねーよ。こっちくれば?」

そのまま腕をひかれて栄司の布団に引き込まれた。あたたまった布団がかけられる。横向きになって、もぞもぞと目のあたりまで布団にもぐると栄司の熱が由有のことを包み込んだ。

「明日、行くのやめてもいいんだぞ」

 頭の上から、由有を甘やかす声が聞こえた。

「・・・いやだ、行く」

 こうやって甘やかしてくれるから、立ち向かう気になる。

「明日行かなかったら、もう一生会えないと思う。僕は、栄司が傍にいてくれる今しかこの気持ちに勝てないと思う」

 由有ちゃん、と呼びかけてくる母の姿が浮かんだ。

「自分の気持ちに勝てないまま何十年かたって、お母さんが死んだっていう知らせだけ受け取るのなんて絶対に嫌だ」

 小さい頃、河川敷で花かんむりの作り方を教えてくれた。一生懸命つくりすぎて、夏だったのに帰るころにはもう夕暮れだった。そのあと1人で練習して、うまくできたやつをプレゼントしたら、すごく喜んでくれた。

 引っ越すときに気付いたけれど、学校で作った由有の作品は、きれいにファイリングされていた。成績表だって、ぜんぶあった。

「僕がお母さんに愛された時間は確かにあったから。その恩を返しもしないまま終わったら、僕は死ぬまで苦しむと思う」

 振り絞るようにそう言うと、栄司の手が頭に置かれた。えらいな、と褒められているみたいだった。

「由有。お母さんいまでもちゃんとお前のこと愛してるよ。あの便箋、すごくきれいな字で書いてあった。でも『もう会ってくれないかも』って不安が詰まってたと思う。お母さんは本当に由有に会いたいって思ってるよ。でも、いままでは罪悪感が強すぎて言えなかっただけだ」

 栄司の言うことはいつも甘いから、全部鵜呑みにしてはいけないと心のどこかでは思うんだけど。それでもいまはその甘さが心地よかった。

「それにな、いまじゃなくたって俺は由有のそばにいるよ」

 本当に、砂糖菓子みたいだった。

 寒さはもうすっかり感じなくなって、目を閉じて深く息を吐き出した。

 もし自分が女の子で、ここで誘惑して成功したら栄司の一生をもらうことができたのかもしれないな、なんてバカなことを考えたのはもうだいぶ眠くなっていたからだ。


 翌朝は、快晴だった。

 新幹線の中から晴れた空を見上げた。

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