3 思い出―巻貝由有―
「でもな、結婚はせんかった。佳代子が妊娠すると同時にそのアイドルが流行り始めたんや。金回りも良くなっていろんな人が近づいてくるようになった。あとはもうお決まりの道や」
祖母はこめかみを押さえて、ため息をついた。
「男は佳代子との家に帰って来んようになった。わたしはもうその男のことは諦めなさいって何度も言った。子どもも一緒に諦めなさいって、言った」
祖母のその一言は、いままでのどの話よりも重く由有の心に落ちた。
「ごめんな。でも、あのときはそれが正しいって思ってたんや。でも佳代子は諦めんかった。男の帰りを待ち続けた。でもな、結局その男は帰って来なかった。芸能事務所の人間と弁護士が一緒に金の相談に来ただけや」
金の希望は聞くから、決してスキャンダルにはしてくれるな、という内容の話し合いだったらしい。手切れ金と子供の中絶費用。もしも中絶できないなら養育費は支払う。でも認知はできない、口止めの意味も込めて養育費には色を付ける、と。
「佳代子は子どもは絶対産むって言い張った。わたしは止めた。あんたには絶対無理やって。そこで大喧嘩や。わたしは『できんのならやってみ。だだし絶対助けてやらんから』なんて言うてしまった」
祖母は深い後悔に沈むみたいに、目を閉じた。
「あんたが小学校の時、じいちゃんが死んだんはおぼえとる?そんときにみた佳代子はわりとしっかりしとったみたいやから、安心してたんや。でもあかんかったな。数年前からうちの電話に無言電話がかかってくるようになった。いまは佳代子やったってわかるけど、当時はなんのいたずらやろって思ってた。昨日も無言電話があった。たまたま、その無言電話を放っておいてみたんや。そしたら、佳代子の声で、『祐一さん。なんで?なんで?』ってぶつぶつ言ってるのが聞こえたんや。これはあかんと思って、夜の新幹線に飛び乗って、昨日の深夜にここについたけど、遅かったみたいやな。この部屋みて、なんでもっと早く気づかんかったんやろ、って思った」
祖母はこめかみを押さえて、ごめんな、と僕に謝った。
「意地はらんで、佳代子のこと助けてやってたら、あんたもこんな目にあわなくて済んだのに。ごめんな。わたしも悪いんや。お母さんのこと恨まんでやってな」
そう言われて、初めて僕は自分に母を疎む権利があるのだと気が付いた。一緒に生活するのが怖いと感じていてもいいのだと理解した。それだけで、呼吸するのが楽になった。おなかの奥から息を吐き出すことができた。
「由有、あんたどうしたい?わたしはこのままあんたたちを一緒の家においとくのはあかんと思う。でも、あんたはお母さんと一緒に暮らしてたい?」
僕は、静かに首をふった。
「そんなら、佳代子はうちに連れて帰る。あんたはどうする?うちらといっしょに三重に来るか?うちで暮らしてもええし、佳代子の弟は独身でうちの近くにおるからそこに世話になってもええ」
それにも首を振った。由有は高校2年に上がるときに進学コースを選択した。進学をあきらめるつもりはないし、東京以外の大学をうけるつもりもないから東京にいるのがいい、と祖母に説明した。
「ほんなら、あんたは東京におったらええ。1人でここで暮らすか?それともどっか食事つきの寮とか探したろか?」
首を振って、1人が良い、と伝えた。四六時中他人のことを気にしながら生活する環境よりも、家事をする手間のほうがずいぶん楽だと思った。
「わかった、そんならそうしよ。生活に困らんだけのお金は毎月送る。困ったことがあったら、いや、なくても週に1ぺんは電話よこしなさい。面倒かもしれんけど必ず」
それくらいなら、なんてことない。母の様子に怯えながら家に帰る毎日から解放されるのなら、ほんとうになんてことない。
「あの・・・ありがとう。おばあちゃん」
いままでこの家にはびこっていた茨や蔦が、どんどん切り開かれて、暗く閉ざされていた家に光が差した気がした。
この人が家にいてくれたなら、僕も簡単に「もー帰る」と口にできる生活ができたのかもしれない。
祖母は、ふぅ、と息をついた。
「ほんまに、あんたには苦労をかけるな。ごめんな」
テーブルの上に置いていた僕の手に、祖母が手を重ねようとした。僕は手を引いて逃げてしまった。祖母の手が嫌だったわけじゃない。条件反射だった。ボールが目の前に飛んできたときに人は必ず目をつむるように。僕は誰かが自分に触れようとすると自然と体が引いてしまう。人に触れられることがいつの間にか怖くなってしまった。しかもその手の体温が低かったりしたら、寒気が止まらないだろうと思う。
「ほんまに、ごめんな」
祖母はすべてわかった目をして、次の日の朝、母を連れて帰っていった。母の瞳はうつろで、焦点もあっていないようで、もうその瞳に何も映していなかった。




