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3 思い出―巻貝由有―

 母との最後の日のことは、鮮明に覚えている。

 胸が苦しくなるから、あまり思い出したくはないのだけど。


 母からの手紙は、否が応でもその時のことを思い起こさせた。


 高2の秋だった。

 いつも通り学校が終わると図書館へいって、勉強をしてから帰った。

 2年の夏をすぎてからは、図書館へ行って勉強をすることが多くなった。なるべく条件がいい大学にいきたかったから。部活に入っていない由有が毎日、図書館の閉館時間まで勉強するようになると結果もすぐに表れてきて成績はだんだんあがってきた。

 でも、閉館時間までいるのは勉強をしたいからじゃない。

 図書館の閉館の音楽が流れると、仕方なく席を立った。家に帰らなきゃいけない。

 憂鬱で、ため息が出た。

 すでに日が落ちた外では冷たい風が吹いていた。そろそろブレザーの下にセーターが必要だ。図書館の自転車置き場に植わっている木から、はらはらと葉っぱが落ちてきた。

 マンションについて、エレベーターで4階へ。その一番奥が由有の家。母と2人暮らしだ。

「ただいま」

 ドアを開けてそう言うけれど、返事はない。リビングの電気もついていないみたいだ。ドアのかぎが開いてたから、留守なわけじゃなさそうだけど。

 ああ、これはまずいパターンだ、とこれまでの経験からわかる。

 たまに、母は何かにとりつかれたようになることがある。早口で何かをずっとつぶやいていたり、虚空をみつめてぼうっとしていることもある。由有に触ってくることもある。どれも疲れるとぱったりと眠ってしまう。

 中学の終わりごろから、それは起こり始めた。はじめはなにがなんだかわからなかった。由有も混乱して、「どうしたの?お母さんどうしたの?」と泣きそうになりながら慌てた。一晩中母のそばにいて、うとうとしながら夜を明かして、朝になると母は何事もなかったかのようにいつも通りに戻ってた。それから何度もそういうことがあって、だんだん慣れてきた。

 ああ、またか、と思って、由有は自分の部屋へ戻って朝まで過ごす。次の日にはいつも通りに戻っていることがわかっていたから。

 そんなことが起こるようになってから、家の中は荒れ始めた。ぴかぴかだったリビングの床には服や広告が散らばり、埃がつもっていた。ダイニングテーブルの上にもごちゃごちゃとものが増えたし、ソファにもいつも服や母の化粧品が転がっているようになった。

 昔は、僕がおもちゃを出しっぱなしにしていると怒られたものだけど。


 その日、散らかり放題の荒れ果てたリビングの床に母は座り込んでいた。

 ドアを開けた由有の顔をみると、ぐにゃりと笑った。違和感しか感じない笑い方が怖くて、つい後ろに下がった。

 母は立ち上がって、由有のほうにゆっくり歩いてくる。

「祐一さん」

 別人の名を呼びかけながら、由有に近づいて、頬を冷たい両手で包む。

 もうこの名前をきくことにも慣れたものだ。こうなると母は由有のことを別人の名前で呼ぶ。そして由有の顔や体をぺたぺたと触る。しばらくされるがままの状態を続けると、母はうつろな瞳でソファに横になり、眠ってしまう。中学校の終わりのころから幾度も繰り返されたこれが何度目かなんてわからない。

 翌朝にはいつもどおりに戻ると思うけど、夕方にこうなっていると、もう夕飯はあきらめるしかない。

 じっと部屋で息を殺して、母が母に戻るのを待つしかないのだ。

「祐一さん」

 少女のようにそう呼びかける母の目はうつろで、由有のことをみていない。でも、たぶん由有のどこかにその男を思い起こさせるところがあるんだろう。

 父親の話は聞いたことがないけど、もし「祐一」がそうなのだとしたら似てるのも仕方ない。だんだん由有が大人になるにつれて、似てきてしまったのかもしれない。そう思って、母がおかしくなりはじめたころから顔を隠すようにした。大きな眼鏡をして、前髪を伸ばして。顔をあまり見せないようにうつむき加減で生活する癖をつけた。

 今日こうなってるのも、いつものことだから、と耐えて時間が過ぎるのを待った。顔や体をぺたぺたと触られて、飽きたら離れていく。飽きるまでじっと待つしかない。そう思ってはいた。

 でも。

 今日はいつもみたいにぺたぺたといろんなところに触った後、首筋に顔を寄せてきた。おでこや頬が首筋にあたるだけなら、たぶん耐えられた。でも感じたのは、冷たくてやわらかい感触。唇があたったとたん、ぞわりとしたものが体に走って、耐えられなくて、振り払ってしまった。

 軽く押しただけのつもりだったのに、母は床に倒れた。

 すぐに助け起こそうとしたけど、その前にむくりと起き上がった。

「またそうやって、捨てるんだ?」

 ぐにゃりとした笑顔のまま、問いかけられて、寒くもないのに体が震えた。

 由有が答えられずにいるとふらりとキッチンのほうへ歩いていった。

「もうなにもいらない、なにもいらない、なにもいらないなにもいらないなにもいらないなにもいらないなにもいらないなにもいらないなにもいらないなにもいらないなにもいらないなにもいらないなにもいらないなにもいらないなにもいらないなにもいらないなにもいらないなにもいらない」

 呪文のように早口でそう唱え続けて、そのうち何を言ってるのかわからなくなって、ただ早口でなにかを言いながら、食器棚にある皿を手前から順番に床に落として割っていった。

 近寄れなかった。ただただ怖かった。あそこにいるのは自分の母親の外見をしたナニカだ。

 どうしたらいいのかわからなくて、見ているのも怖くって、自分の部屋へ走った。ガシャン、ガシャン、と音が鳴り続けている。

 ドアを閉めて、ベッドにもぐりこんで、布団をかぶって、耳をふさいで、目を閉じた。 

 

 明日の朝になったら、すべてが戻っていますように。


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