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忌み子と殯の鬼  作者: あゆみ
1/1

殺鬼・ユツ

鬼たちの住む隠れ里。そこにひときわ体の大きい鬼がいた。その鬼の住処は体とは対照的に小さな小屋である。


その小屋の中には生活に必要最低限のものしかない。彼ほど大きな体の鬼であれば、部屋の中で一歩も動かず、部屋にあるもの全てに手が届きそうだ。


しかし、一つだけその殺風景な部屋に似つかわしくないものがあった。

それは湯呑に挿した、紫色の小ぶりな一輪の花である。小屋に入ってきた鬼は真っ先にその花を愛でる。


「のう、ユツ。またお前の好きな花が咲く季節になったぞ」


鬼はそうつぶやき、その太い腕で窮屈そうに結ばれている女物の帯紐に語りかける。


「あれからどれくらいの月日が経ったか」


鬼はそう言って体を横にした。そして目を閉じ、遠い記憶に想いを馳せた。



神代の時代、鬼と人間との争いがあった。鬼は人を殺し、人は鬼を殺し、互いにいがみ合い、血を流す時代であった。鬼はその時代から生き続けている。

鬼は今よりも体は小さかったが、それでも他の鬼よりは大きく、その怪力で無慈悲に人を殺すことから、周りの者から「殺鬼セッキ」と呼ばれ、一目置かれる存在であった。


「殺鬼、また人を五十も殺したそうじゃないか」


井戸の水で体にこびりついた血を洗い落としていると、年長の鬼が近づいてきて声をかけられた。

彼の名は牛頭ゴズという。いつも誰かの粗探しをしてはそれを貶めようとするいやらしい鬼で、殺鬼はそんな牛頭を好かない。普段は馬頭メズという似たような鬼と一緒だが、今日は一緒ではないらしい。


「人間なんぞちょろいものだ。俺のこの腕で胸を一突きすればすぐに死ぬ」


表情なく答える殺鬼を見て、牛頭は満足そうにうすら笑いを浮かべる。


「お前のその腕は、刀よりも鋭く人の肉を引き裂くからなぁ」


殺鬼はニヤニヤと嫌らしい顔をした牛頭に一瞥をくれると、乾いた布で体を拭き、黙ってその場を立ち去った。殺鬼のその態度に、残された牛頭は苦々しい顔をしたものの、何を言うでもなく殺鬼とは反対方向へ去って行った。



殺鬼のその怪力は、山を一つ崩すことができるのではないかと言われるほどの力であった。その力で人間の胸を貫き、腕を捥ぎ、脚を引きちぎる。向かってくる人間を一人残らず殺していく。戦場に出ると、殺鬼の周囲はたちまち血の海となり、無残にも人間の腕や脚や頭が転がっていった。


殺鬼がいつものように、向かってくる人間たちを蹴散らしていた時である。遠くから人間の放った矢が、殺鬼のこめかみに突き刺さった。いくら怪力だからといって、痛みを感じぬわけではない。油断していた自分を責めつつ殺鬼は刺さった矢を引き抜いたが、その痛みからその場に座り込んだ。

矢を引き抜いた個所を右手でぐっと抑えると、ねっとりとした液体がその手にこびりついた。前方からはこれ幸いと人間たちが数人集まり、殺鬼に向かってくるのが見える。


「ぬわぁぁぁぁ!」


人間の一人が叫びながら、殺鬼に刀を振り落とした。その刀はこめかみを押さえていた手の肘あたりに直撃したが、さして深い傷を負わせるものではなかった。しかしその人間に続き、数名の人間も同様、刀を殺鬼に振り下ろした。腹や背中や太ももに刀が刺さる。痛みが表面から奥へじわじわと広がる。殺鬼はその痛みが全身に広がる前に、左手で周りの人間を薙ぎ払った。勢いよく振り回された腕によって、一人の人間の頭が落ち、一人の人間の腕が落ちた。殺鬼はさらに左手を、一人の人間の喉元に突き刺す。一瞬にしてその場が血の海と化した。


「甘く見るなよ、人間」


とどめを刺していない一人の人間を睨みつけながら、殺鬼は低い声で言った。


「あっ、あっ」


その残った一人の人間はその場に尻もちをつき、殺鬼を見上げて怯えている。この人間も、止めを刺そうと思えば刺せる。しかし、殺鬼はそうしなかった。恐怖で引きつっている人間を睨みつけながら、ゆっくりと、そうとは分からないように後退していく。本当は、痛みで限界に達していた。その場に座り込んでしまいたい衝動に駆られていた。だからこそ、こんな小便を垂らしそうなほど怯えている人間に力を使って、その場に崩れ落ちるなんてまっぴらごめんだった。そうしているうちに、人間は殺鬼が自分に向かってこないことを悟ったのか、急に立ち上がり、その場から走り去って行った。



殺鬼は戦場から離れ、しばらく歩き続けていた。

痛みは限界を超えている。

今にもその場に崩れ落ちそうだったが、なるべくあの場から遠くへ逃げたい一心で歩き続けた。

逃げたいと思ったのは、人間からではない。

あの状況の殺鬼を同じ集落の鬼たちが見たら、後で何を言われるか分かったものではない。特に牛頭と馬頭に見られたら。

幸いあの近くに仲間はいなかったから、自分の醜態を見た者はいないだろう。しかし、戦場から離脱したことを問われたら何と答えれば良いだろう。


殺鬼が考えに集中しながら茂みを抜けると、さらさらと心地良い音を立てる小川のほとりに出た。さっきまで木々で隠れていた太陽が顔を出す。

殺鬼は眩しくて目を細めた。

最初は白い光が視界を遮っていたが、徐々にそれに慣れてきて視界が開けた。そこには一人の人間の女がいた。


女は黒くて艶やかな髪を後ろで束ね、水際に立って向こう岸を眺めている。

キラキラと輝く水面と、その女が重なった光景を、殺鬼は美しいと思った。女は殺鬼の気配を感じ取ったのか、こちらを振り返る。

前髪は眉の上で切りそろえられ、髪の黒さで白い肌が際立っていた。薄桃色の薄い唇には微笑がたたえられ、手には籠を持っている。髪の色と同様、黒い瞳が殺鬼をとらえた。すると女は、目を見開いて驚きの表情を見せた。

自分の姿を見たのだから当然だ。すぐに逃げ出すのだろうと思った殺鬼だったが、女はその考えとは逆に殺鬼に近づいてきた。



「お怪我をなさっているではないですか」

女はその風貌に似合うしとやかな声で、しかし殺鬼を叱りつけるように言った。

「今、手当ていたします」

女はそう言うと、手に持っていた籠から濡れた白い布を取りだし、それで殺鬼の傷にそっと触れた。


「痛みますか?」


殺鬼が痛みに顔を歪めると、女は言った。殺鬼は頷く。しかし、女はそれを見たはずなのに、殺鬼の傷口の血を拭うのをやめなかった。


「痛い」

殺鬼は耐え切れずに口に出した。

「これだけ深い傷を負っているのですから当たり前です」

女はぴしゃりと言いきり、殺鬼のことを黙らせた。


女は手際よく殺鬼の傷の手当てをした。殺鬼は頭に巻かれた布が邪魔だと思ったが、さっきよりも痛みがだいぶ和らいだこともあり、それについて文句を言うことをやめた。


「怖くないのか?」

血で汚れた布を、しゃがんで河原で洗っている女に殺鬼は言う。

「何がですか?」

女は振り向かずに言った。


「俺は鬼だ。人間を殺す」

「ええ、知っています。けれど、それが怪我をしている者を放っておく理由になりますか?」


女はそう言うと、立ちあがり振り向いた。まっすぐな瞳が殺鬼を捕まえて離さない。


「名は何と言う?」


殺鬼も女をまっすぐに見据えて言った。


「私はユツと申します」


ユツ…殺鬼は口の中でその名を反芻する。


「あなた様のお名前もお聞かせください」


ユツは口元に微笑をたたえている。黒髪で際立つ白い肌。凛々しい瞳。薄い唇。良く見ると額には汗が滲んでいる。


「殺鬼だ」


答える必要なんてなかった。いや、そんなことを言ったら、女の名を知る必要もなかった。しかし、知りたいと思った。


小川のせせらぎと、柔らかな日差しと、心地良い風が二人の間にあった。


「礼をしたい。明日も同じ時間にこの場所で待っていろ」


殺鬼はそう言うと立ちあがった。ユツは、何も言わなかった。



翌日、殺鬼は食べ物や薬草を持って小川に向かった。

ユツが昨日と同じように小川のほとりに立っているのを見た時、殺鬼は言い知れぬ安堵をおぼえた。


「本当に待っているとは思わなかった」


殺鬼はユツの背後に立ち言った。急に語りかけられたせいか、振り向いたユツは少々驚いた顔をしていた。


「待っていろとおっしゃったのは、殺鬼ではないですか」


殺鬼の姿を見てとると、ユツの表情は和らいだ。


「これを持ってきた」

殺鬼は手に持っていた荷物をユツへと差し出した。

「本当に持ってきてくださったのですか」

ユツは戸惑いながらも、殺鬼から荷物を受け取った。


それから二人は小川のほとりで座って長いこと語らった。お互いの住む集落についてや、好きなこと、嫌いなこと。それらを語るユツは生き生きとしており、殺鬼はその横顔を見ているだけで幸せだと思った。


その次の日も、またその次の日も、二人はその小川で語らった。約束をしたわけではなかったが、殺鬼にとってはその小川に行くことが日課のようになっていた。

ユツの顔が見たい。

ユツの話が聞きたい。

その想いは、日に日に募るばかりだった。


「充分にお礼は頂きましたから、もう何も持ってきていただかなくても結構ですよ」


ある日、ユツは言った。殺鬼はその言葉に戸惑いを隠せなかった。ユツを見ると、涼しそうな顔で小川を眺めていた。


「ここに来る理由がなくなってしまう」


しばらくの沈黙の後、殺鬼はつぶやくように言った。


「何か理由が必要ですか?」


ユツは、うつむき加減の殺鬼の顔を覗き込むようにして言った。殺鬼は何も言わずに、ただ頷いた。


「理由が必要なのでしたら、今度はお花を持ってきていただけませんか?」

「花?」

「ええ。私はこの集落から出たことがありませんので、できればこの辺りに咲かない花を持ってきてください」


その翌日、殺鬼はユツに言われた通り、花を持って小川に行った。殺鬼の住む集落で良く見かける、紫色の小ぶりな一輪の花を。


「可愛らしいですね」


その花を見るとユツが言った。


「俺の住む集落に咲く花の中で、一番ユツに似ていると思ったから持ってきた」


殺鬼の手からユツの手へ、その花が渡る。ユツがその花を持つと、殺鬼の手にあった時よりも大きく見える。


「ありがとうございます」

ユツのしなやかな指が花びらを撫でる。

「とても、気に入りました」

静かに花を撫でながら、ユツは言った。目を瞑り、花に顔を近づける。鼻の先に漂う香りに、うっとりした表情を見せる。


「今度は何が欲しい?」

ユツの顔を満足そうに眺めながら、殺鬼は聞いた。ユツは目を開けて殺鬼を見る。

「殺鬼は何か理由が必要だとお思いなんですね」

悲しげな瞳の中に映っているのは、どんな顔をしている自分だろうと殺鬼は思った。


「理由がないのなら、ここに来なければ良いだけです」


ユツの言葉は、冷たい風と共に二人の間を過ぎ去った。



殺鬼が集落へ戻ると、自宅への通りに牛頭と馬頭がいるのを見つけた。不快な話を聞かされるのも嫌だと思い、二人に気付かれないよう回り道をしようと思ったが、殺鬼の巨体は遠くからでも目立つ。牛頭と馬頭は殺鬼に気付き近寄ってきた。


「殺鬼よ、最近外出が多いようだが、どこに行っているんだ?」

牛頭がいやらしく笑いながら言った。

「その辺をぶらついているだけだ」

殺鬼は牛頭に目も合わせずに言った。

「まぁ良い。明日は前線に出て戦ってもらおう」

馬頭が涼しい顔で言いきる。

「それもそうだな。人間の軍が壊滅するのも時間の問題。殺鬼が前線に出れば、明日にでも我らが勝利を掴むやもしれん」

牛頭の言葉に、馬頭が鼻で笑う。


「頼んだぞ、殺鬼」


馬頭がそう言い残すと、殺鬼の前から二人は去って行った。


殺鬼は前線に立ち、人を殺した。腕を捥ぎ、脚をちぎり、体から引き離した頭を地面にたたきつける。その日の殺鬼はいつにも増して激しく、目の前にいる人間を薙ぎ払っていった。しかしその姿は、見るものになぜか悲哀を感じさせた。


― 理由がないのなら、ここに来なければ良いだけです -


殺鬼の脳裏にユツの姿とその言葉がよみがえる。悲しげな瞳が自分を見ている。

一瞬、目の前の人間にユツの姿が重なる。殺鬼の腕が、躊躇いで一瞬止まる。


「殺鬼!!!!」


自分の名を呼ばれ、我に返る。自分に向けられた刀を間一髪でかわし、その人間の腹に自分の腕を突き刺す。

全身が返り血にまみれる。顔も、体も、手も。


「ユツ…」


殺鬼は誰にも聞こえないように、小さくつぶやいた。



殺鬼は気付いたらいつもの小川に来ていた。


「殺鬼…?」

血にまみれた殺鬼を見て、ユツが目を丸くして近づいてきた。

「いつもより遅い時間だというのに、いたんだな」

ユツは心配そうに殺鬼を見る。

「全部返り血だ。けがはない」

殺鬼の言葉にユツは安堵の表情を見せた。


「ユツ…」

「はい」

「お前に会いたかった」


殺鬼は腕をユツに伸ばした。しかしそれが血にまみれていることに気付いて動きを止める。ユツはそれに気付いて、殺鬼の手をしっかりと握った。


「私もあなたにお会いしたくて、ここで待っておりました」


ユツの声は震えていた。殺鬼を見つめる目には涙がたまっていた。

「俺は人を殺す」

殺鬼が言うと、ユツは分かっているという風に頷いた。

「今日殺した人間の中に、お前の知っている人間がいたかもしれない」

ユツの目にたまっていた涙がこぼれ落ちた。

「お前の親や兄弟を殺したかもしれない」

ユツは何も言わずに、涙をこぼしながら頷いているだけだった。

「それでも俺に会いたいと思うのか?」


ユツは返事をしなかった。できなかったのかもしれない。

殺鬼の手を握るユツの手に、ぐっと力がこもった。殺鬼は、それがユツの返事だろうと思った。


「ユツ、俺はお前を愛している」


殺鬼の言葉に、ユツは泣き崩れた。殺鬼は泣いているユツを、そっと自分の方へと引き寄せた。頬に伝う涙を、手で拭ってやった。ユツの頬が赤く染まる。血に染まったユツの顔を見て、殺鬼の心はひどく傷んだ。


「お前を抱きしめてやれればいいのに」


殺鬼は低い声で言った。ユツはそれを聞くと、泣きながら殺鬼にそっと抱きついた。

ユツが赤い血に染まる。顔も、手も、着物も。

これ以上ユツと時間を過ごしても、きっとこの気持ちが報われることはないだろう。そう分かっているのに、殺鬼はユツの背中に腕をまわしていた。華奢で小さな体が、腕の中で震えていた。




 私の住む集落に「秘め緒」という風習があるんです。

 男女互いに自分の帯紐を交換して、来世でもまた会おうと約束を交わすんです。

 集落では現世で結ばれた夫婦が来世も一緒になれるようにと約束を交わします。

 しかし、現世で結ばれなかった男女が、

 来世では必ず一緒になろう

 そう想いを込めて交換したのが始まりだと聞いたことがあります。

 身分の違う男女が恋に落ちて、周りから反対され、

 それでもその愛を貫き通すために心中をした時、

 二人は帯紐を交換してから身を投げたと。




二人で体や着物についた血を川に入って洗い流していると、ユツは静かな声でそう語った。


「まるで私たちのようではないですか?」


そしてそう締めくくると、まだ潤んでいる瞳で殺鬼を見上げた。

殺鬼は何も言わずユツを見つめた。前髪が濡れておでこにはりつき、もみあげからは水が滴っている。


「俺は、お前を死なせるようなことはしない」

殺鬼はユツの頬に触れながら言った。

「分かっています」

ユツは無邪気にくすくすと笑った。

「それでも約束してほしいのです。私は来世でもあなたにお会いしたいのです」

ユツは恥ずかしそうにうつむいた。


「わかった。約束しよう」


殺鬼はユツの頬に触れていた手を頭の後ろに回し、反対側の手でそっと抱き寄せた。


川からあがると、二人は帯紐を交換した。女物の帯紐は殺鬼にはきつかったが、結べないほどではなかった。ユツを見ると、殺鬼の太くて長い帯紐が器用に結ばれていた。


「明日、またここへいらしてくださいますか?」


ユツの問いかけに、殺鬼はゆっくりと頷いた。



翌日、殺鬼は自分の集落で積んだ紫色の花を持って約束の小川に向かった。昨日ユツと交換した帯紐はきつすぎたため、左の腕に結んだ。


しかし、約束の場所にユツはいなかった。


「殺鬼、待っていたよ」


そこにいたのは馬頭だった。


「お前が怪しい行動ばかりとるものだから、昨日あとをつけさせてもらったよ」

すました顔で殺鬼に近づく馬頭。殺鬼の顔から表情が消えた。

「女に渡すために摘んできたのか?」

殺鬼の持っている花に目をやり、馬頭が言った。

「ユツはどこだ?」

殺鬼は馬頭を睨みつける。馬頭はそれを聞いて鼻でふんと笑った。

「人間の女を好きになるだなんて、お前もつくづく馬鹿な奴だ」

馬頭の目も、声も、冷たく殺鬼を突き刺した。


「ユツはどこにいる?」


花を持つ殺鬼の手は、怒りでふるふると震えていた。


「そろそろ里に着く頃だろうな」

「里に?」

「ああ。牛頭が他の者と一緒に里へ連れて行ったよ」


殺鬼の手から花が落ちた。


「もしかしたら今頃里の奴らにいたぶられているかもしれんな」


殺鬼は馬頭の言葉を最後まで聞かず走り出していた。


ユツ、ユツ、ユツ。殺鬼の頭の中で今までのことが思い出される。小川で初めて会った時のこと。怪我の手当をしてくれたあのしなやかな手。それから二人で語り合ったこと。

言葉の一つ一つを鮮明に思い出せる。ユツのしとやかな声。

決して長い時間を共に過ごしたわけではない。けれど、殺鬼にはとても長い時間を共に過ごしたように思えた。

それら全てを頭の中で反芻しながら、殺鬼は無我夢中で走り続けた。



幼い頃から見慣れた風景が見え始めたころ、集落の中心が騒がしいことに殺鬼は気付いた。

そこは集会を行うために広場があり、近づくにつれ、そこに仲間の鬼たちが集まっているのが分かった。


「どけ!どいてくれ!」


広場の中心を取り囲んでいる鬼たちをかき分け、殺鬼はその中央に出た。

そこにいたのは、柱にくくりつけられているユツだった。


「ユツ!」


殺鬼はユツに駆け寄った。


「殺鬼…」


ユツの声はかすれていた。顔を見ると目は腫れ、瞼の上が切れて血が出ている。髪の毛も乱れており、頬にも傷があった。さらにここへ連れてこられた時についたのか、着物には地面を引きずられたような跡がある。そこから覗く肌にも無数の傷。足元を見ると拳大の石がごろごろと転がっている。


「思ったより早かったな、殺鬼」


声のした方を向くと、そこには牛頭が木の棒を持って立っていた。


「ユツに何をした」


殺鬼は怒りでわなわなと震えていた。


「そんな怖い顔をするな。我々はこの戦いに終止符を打とうとしているだけだ」

「いくら争っているとはいえ、戦場にいるわけでもない人間になぜ…」

「なぜ?お前はそんな簡単なことも分からないのか?」


牛頭は呆れたように溜息をつき、続けた。


「この争いは長引きすぎた。いくら我々が有利な戦況とはいえ、このまま続けばこの集落はもたぬだろう。人間たちがどのような策を使っているか知らぬが、戦場には次々と新しい人間が送りだされる。ただそこにいる人間たちを殺しているだけでは勝てない。人間たちも我々が戦場におらぬ者を殺さないと思っている。だから見せしめのためにその女をさらってきたのだよ」


牛頭はいつものようにいやらしくニヤニヤと笑いながら説明をした。


「だからといって女一人を寄ってたかっていたぶるなんて卑怯だろう!」


声を荒げる殺鬼に、牛頭は静かに近づいた。


「卑怯で結構。殺鬼よ、戦いとは卑怯な者が勝利を収めるんだ。それにな…」


牛頭はそう言うと殺鬼の耳に口を近づけ、他の者には聞こえないよう声をひそめて続けた。


「お前はこの集落で一番の怪力だ。そんなお前が人間の肩を持ち、たかだか女一人も殺せぬとなれば、ここにいる者はどう思うか」

牛頭はここで言葉を切り、周囲を見回した。殺鬼にも必然的に、周囲の鬼たちの顔が目に入る。

「お前は裏切り者だ。いくらお前がこの集落一の怪力といえど、ここにいる者全員でかかればお前を殺すことなど容易い」


牛頭は再びそう殺鬼の耳元で囁くと、ようやく殺鬼から顔を離した。


「望むところだ」


殺鬼がそう言い、牛頭に挑もうとした時だった。


「殺鬼」


ユツがその名を呼んだ。瞼から流れる血が痛々しい。


「おやめください」


かすれてはいたが、いつものしとやかな、しかし、しっかりした声だった。腫れてはいるが、まっすぐにこちらを見る瞳に吸い込まれるように殺鬼はユツに近づいた。


「私を殺してください」


ユツは牛頭にも聞こえるよう、さっきよりも大きな声で言った。牛頭はユツを舐めまわすように見ながら、いやらしい笑みを浮かべている。


「女よ、自分の命が惜しくないのか?」


牛頭は殺鬼の肩越しにユツに問いかけた。ユツは牛頭を睨みながら一つ頷く。


「おい!今から殺鬼が女を殺すそうだ!」


牛頭がそう叫ぶと、周囲の鬼たちから歓声とも言えるざわめきが起こった。しかし殺鬼にはユツの声以外何も聞こえていなかった。


「ユツ…」


殺鬼は唸るように言い、柱にくくりつけられているユツを柱ごと抱きしめた。胸にユツのぬくもりを感じる。


「殺鬼…」


耳にユツの息が吹きかかる。


「あなたがどんなに強くても、これだけの数に勝てるとは思いません。あなたが死んだら私はここにいる者たちに殺されるでしょう。他の鬼に殺されるくらいなら、あなたの手で殺されたい」


殺鬼は耳元で聞こえるユツの声に、一時の安らぎを感じた。

ユツを縛り付けている紐を両手で握りしめ力を込める。

紐は鈍い音をたててユツの身に自由を与えた。

ユツは体を殺鬼に預ける。殺鬼の腕にユツの重みがかかる。

それはとても軽く、今にも消えてしまいそうなほどだった。


周囲の鬼たちは柱からユツを解放した殺鬼に罵声を投げかける。しかし牛頭はそれを制止した。


「黙って見ていろ」


いつものいやらしい笑みは、そこにはなかった。牛頭はこの時気付いていたのかもしれない。これは一人の人間を殺すだけでなく、一人の鬼も殺すことになるのだということに。



「私たちには秘め緒があります」

ユツは左腕に結ばれた自分の帯に、そっと触れながら言った。そして、殺鬼の目をじっと見据えた。

「私は必ず生まれ変わって、あなたの元へ馳せ参じます」

帯に触れていた手を殺鬼の顔に移し、頬に伝う涙をその手で拭う。

「ユツ…こんなことになるとは…」

涙を拭った手が唇に触れる。

「私はあなたにお会いできて幸せでした」

ユツは微笑んだ。

「だから、言わないでください」

唇に触れていた手が離れ、ゆっくりと背中にまわされた。


「必ず会いにきます。ですから、あなたは生きて。私のことを待っていて」


胸に押し当てられた口から発せられたその声は、震えているようだった。


殺鬼は両手をユツの背中にまわした。腕の中にあるユツの全てが愛おしかった。

少し力を入れると、ユツの苦しそうな声がした。その声に躊躇い、殺鬼は腕の力を抜いた。


「私はあなたをお慕いしています」


ユツの声とともに、殺鬼の背中にあるユツの手に、ぎゅっと力がこもった。

殺鬼は再び腕に力を込める。

背中にユツの爪が食い込むのを感じる。



「うおおおおおおおおおおおお」



殺鬼は雄叫びとともに、両腕に精いっぱいの力を込めた。

骨の砕ける鈍い音が、自分の声にかき消されることなく聞こえた。

胸に押し当てられた顔のあたりが、じんわりと生温かく濡れるのを感じた。

背中に食い込んでいた爪の痛みは消え、その腕がだらんと力なく垂れ下がった。

それでも殺鬼は力を緩めなかった。


鬼の集落には、殺鬼の雄叫びがずっと響き渡っていた。




目を開けると、花が目に入った。開けた窓から風が入り、紫色の花は湯呑の中で歌うように小さく揺れている。


「寝てしまったか」


横になった時はまだ明るかったのに、殺鬼が体を起こすと、太陽が山の向こうに沈もうとしているところが窓から見えた。


あれ以来、殺鬼は戦場に出ることはなかった。腑抜けだのと殺鬼を馬鹿にする者もいたが、それもしばらくするとなくなった。


鬼は人間に勝ち、争いが終わったからだ。



― 必ず会いにきます ―



殺鬼はその言葉だけを胸に、今も生きている。生きていると言えないほどの、死んでしまった方が良いのではないかと思えるような生活ではあるが。


最近人間の集落で「忌み子」と呼ばれる、特別な能力を持った者が生まれているらしい。その「忌み子」が鬼たちに襲いかかっているという噂を聞いた。


「なぜ、争わなくてはならぬのか…」


殺鬼はそうつぶやいて、再び横になった。

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