願望と現実
妖怪は人間に比べて、成長も老化もゆっくりだ。それと関係あるのかは分からないけれど、病の進行も、人間よりは遅いようだった。
年が明けてサチが嫁いでいっても、それから数年経ってサチの弟が家を継いでも、父親の病状はそれほど進行しなかった。
「ちょっと、出かけてくるから」
「分かった。日が暮れる前には……」
分かってるよ、という言葉で父親の言葉を遮り、人間の里の方へと向かった。
父親の調子はあまり変わらなかったけれど、オレ自身の生活は割と変化していた。父親に習って仕事をする日がほとんど。前みたいに操を構ってやったり、人間の子供たちと遊んだりする時間は格段に減ってしまった。
それでも、何日かに一日は身体が空いた。そういうときはこうして人間の里に行って、サチの父親に人間の世界のことを習いに行った。人間たちがどういう政治をしていて、人間にどんな歴史があるのか。ついでに文字も習ったし、何故か剣術も、サチの弟と一緒に習った。
そんなことをしていたら、操はますます拗ねたわけだけど。
「紅兄ぃ、何でそんなに熱心に人間のこと勉強してるの?」
畑で取れた菜をうちに届けに来てくれた操が、むくれてそう聞いてきたことがある。
「何でって……」
言っていいものか、少し迷った。迷ったけれど、言わなければ操は帰りそうにない。
「……別に、今すぐとか言わないけど。今親父殿に習ってることとか、色々一段落したら、」
あの日、サチと外の世界について話してから、何となく考えていることがあった。このまま、人間のことも知らず、天狗の他の妖怪も知らず、この山の中だけで暮らすのか、と。それは何だかもったいないような気がしたのだ。
「深山の里の外にも、行ってみたいなって思ってさ」
それにしたって、こう告げた時の周りの反応と言ったら、ひどいもんだった。
まず、叔父と叔母――操の両親に、こっぴどく反対された。
「紅霞、外には巫女や法師がたくさんいるのよ! 妖怪はみんな殺すべきだって言っているような人たちよ!」
「いや会ったことないし、それ嘘かもしれないじゃん」
「本当だったら危ないだろう!」
操は自分も行きたいと言ってベソをかいてたし。まあ、それは大した障害ではなかったけど。
「親父殿は、炭とか鉄とか仕入れに下界に降りるだろ?」
割と助けを求める気持ちで、父親にも意見を求めてみたのだが。
「……巫女とこの里は不可侵の条約を結んでいる。私は見逃されているのだろう。しかし、それは決まったところに決まったときに行くからということもあるだろう。好きに動き回ればまた話が違うかもしれない」
そんな答えがあっさり返ってきた。まあ、この里が割と平和なのは、巫女も法師も近寄らないからだということのおかげでもある。そして、それが巫女の計らいであることも本当だ。
「それに、法師は下界にいる妖怪ならば見逃さないだろうな。ここに現れないのは、山の麓の森が人を迷わせるからだ」
「……巫女と法師の違いって何だよ? 性別以外にもあるの?」
この問いに答えられる天狗は、その場にはいない。サチの父親に聞くことがまた増えたな、とオレは小さく息をついた。
そんなわけで、今日人里を訪れたわけは、巫女と法師の違いについて聞くことだった。
「法師は仏道に入ったもの、巫女は神に仕えるものだ」
「神と仏って同じじゃないんだ?」
隠居となったサチの父親は、いつも庭に面した廊下でオレに話をしてくれた。
「……まあ、違うものなんだろう。世には仏を近づけない神宮もあるくらいだ」
彼も博識というほどではない。武芸には秀でているが、学問の方はそこそこでしかないと自分でも言っている。
「それは何て神宮?」
「神宮は、神宮だ。名前をつけるまでもない、本家本元の神宮だ」
紛らわしいというか、分かりにくい。名前くらいつければいいものを。
「どこにあるの?」
「伊勢国だよ。俺も一度は行ってみたいんだがなぁ、なかなか難しかろう」
確かに、人間の足では遠いのだろう。天狗だったら、割とすぐ行けそうな距離だが。なんせ空を飛べるのだから。
「もし紅霞がいつか神宮へ行くなら、俺の分も祈祷を受けてきてくれ」
「それまで生きてる? てかそれ、オレ巫女に浄化されて死にそう」
「報告は極楽浄土で頼むよ」
「ふざけんな」
あまり有益な情報はなかったけれど、基本的な違いは分かった。神と仏の違い。その二者がどう違うかは分からないけど、違うということが分かれば今は満足だ。
ついでに言うなら法師や巫女の存在も、下界に行きたい気持ちを妨げることはなかった。会ってみたいとまでは言わないけど。
「……あれ、外で何してんの、親父殿」
日が傾き始めたころに家まで戻ると、珍しく父親が外に出ていた。ここのところ、仕事さえなければ養生のために家で休んでいることが多いのに。
父親は地面で鳴いている烏たちを見つめていた。烏や鷹は、自分たちと似た翼を持つ天狗たちを好いているらしく、こうしてよく集まってくるのだ。たまに、外の世界から手紙を運んできてくれる鳥までいる。
「文か何か?」
父親が紙を持っているのが見えて、オレはそちらの方へと足を進める。烏が一羽、オレの肩に止まった。
「……ああ、仕事で懇意にしている者からの報せだ。――紅霞」
いきなり名を呼ばれ、オレはただ父親の顔を見上げた。何とも言えない、複雑そうに歪められた顔。
「お前は……やはり外の世界には行かない方がいい……久遠の里が、法師に滅ぼされたそうだ」
聞き覚えのない里の名に、「久遠の里……?」と、思わず聞き返していた。
「外の世界でも最大級の妖怪の里だ。猫又たちが住んでいた」
猫又。長く生きて妖力を持つようになった猫たちの成り上がりだったか。確か、そんなことをサチの父親が言っていた。
「その猫又たちは、何をしたわけ?」
「何もしていない。……むしろ、人間を傷つけることを良しとせず、人間との共生を望んでいた。我らのようにな」
何もしていないのに、殺された?
そんな馬鹿な話があるかと瞬きを繰り返していると、「……外ではこういうことがよくある」とため息交じりの声が聞こえた。
「……人間とここで平和に暮らせるなら、これほど幸せなこともないと思わないか」
それだけ言って、父親は家に入ってしまった。残された烏たちが、オレの方へと寄ってくる。
「……何もしてないのに殺されるのか。何でだろうな」
烏たちを見下ろしながら、小さく呟いた。それも外の規則なのだろうか。サチは「外の世界での妖怪の印象はよくない」と言っていた。印象がよくないものは消す。それが外では正しいのだろうか。
――どうしてなのか、知りたい。
そんな考えがふと浮かんでしまい、思わず空を見上げる。
「……我ながら、重症」
肩に乗っている烏が、不思議そうにカアと鳴いた。