三、尺余の銃は武器ならず(ニ)
端的に言って、地獄。
それ以外の形容が見当たらなかった。
思い出すだけで卒倒しそうになる。それほど過酷な訓練だったのだ。それでもなんとか突破できたのは、それはやはり零子の存在であったのかもしれない。
連日連夜の凶悪な体力練成によって、最初の一週間で幾度気絶をしたのかわからない俺には、日が落ちてから零子が担当する座学の時間のみが、唯一心を癒やすものだった。座学とはいっても、もっぱら拳銃や手榴弾の操作方法や、「能力」の理論についてだったが。
「――よって、この十四年式拳銃は撃針機構型であり、撃鉄型に比べてより単純に、より高精度を発揮することができますが、しかし不利点として射撃可能状態の確認が……起きなさい雀ヶ森さん」
「は、はい」
「しっかり説明を聞いてもらわねば困ります。あなたにもこの拳銃は貸与されるんですよ」
「すいません、ちょっと寝てしまいまして……」
「まったく……でも、辛いのはわかりますよ。私から見ていても、棺野さんの訓練はかなり厳しいですものね」
洋風な調度品が並ぶ、恐らくは応接室であったろう一室にて、零子は自動式の拳銃を分解しながら、やや同情的な眼を向けた。
「あまりつらいようでしたら、もう少し手を緩めてもらうようお願いしてもよいのですが。私としては、許容以上の身体練成は逆効果だとも思いますし」
「いえ、大丈夫です……まだまだ、いけますよ」
投げ出す気はさらさらない。
仮にも自分で選んでしまった道である。ここで少しでも緩めば、またあの停滞した時間が帰ってくる――そんな気が俺にはしていた。
「そう言うのでしたら、私は応援だけをしていますよ」
零子はそう言いつつ、ふと席を立つ。しばらくして戻ってくると、その手にはティーセットを乗せた銀盆を持っていた。
「ささやかながら、そんな応援の一手です……どうぞ」
「――甘い、ですね」
「ええ、より滋養効果を出すために、苺の砂糖煮と少々のラム酒を混ぜていますから」
その夜の紅茶は、御世辞ではなく世界で一番美味く、そして暖かかった。
――そして今夜。
三週間の訓練のうち、その半分を終えたところで棺野は帰った。「俺にも仕事があるのだ――しかし、こんな期間で体力は身につかんぞ。せいぜい精進しろ」とだけ言葉を残して、迎えに来た黒塗りの自動車に乗って行った。確かにその時には自覚できるほど訓練の成果は感じられなかったが、彼の残した課題を毎日毎日反復しているうちに、今では若干ではあれど、確実な体力を身体に感じる。
訓練の後半は「能力」についてのもので、零子は「昴機関」の所属員の持つこの「能力」の、基本的な理論を教授した。脳の中に発生する伝達物質を、神経が微弱電流として変換する――その課程のなかに、ある限られた一部の人間は、およそ超常的に見える力を体外に放出するらしい。そして、訓練によってある程度までは、この奇妙な力を自由に使用できるのだ。
そしてこの「能力」そもそも発生段階からして万人の持ち得るものではないために、それを発揮する個々人の素養によって、どんな力として生まれるのかはまったくわからないのだという。
「陸軍がこれを発見して早十年、しかし「能力者」の中で一人として、他人と同じ能力を発揮した者はありません」
零子は絵図を前に説明してくれた。
「ですから、あなたの今の『能力』――弾丸を受け止める能力、が、はたして本質的にどういったものなのかは、あなたが自分で見つけ出すほかにないのです」
「しかし、弾丸を受け止められる、ってだけでも、充分強い気がしますが」
「もちろん常人離れはしていますが、それだけではきちんと訓練を受けた間諜や工作員には勝てません」
「すると、どうやって『能力』を強めればよいわけですか?」
「さあ、それも十人十色なので……ですがあなたの場合は解りやすいものです」
「はあ」
「つまりひたすらあなたを撃ちまくります」
「……」
「もしも死んだら御免なさい。先に謝罪しておきましょう」
ともかくそんな訓練が始まった。
なるほど零子はなんの加減もなく、連日連夜ぱかぱかと撃ちまくる。しまいには寝込みを襲われて、毛布と枕が焦げついた。それは恐怖であったが、しかし確実に俺はその弾丸を受け止めることができたのである。
そんな訓練の三日目に、ひとつの発見があった。
その日もひたすら弾丸を受け、そのたびに熱を出しては意識朦朧としていた。夕食の時間になっても、頭の熱は下がらない。
「ちょっと、雀ヶ森さん。そこの醤油をくださいな」
零子が干物をかじりながら言う。
「はいはい、これですね……っと、うわッ」
手が滑った。醤油壜がつるりと手の中から抜け落ち、床に転がろうとする。慌てて手を出すも既に遅く、壜は無慈悲に落下。砕けたガラスの高い音が響いて、俺は無意識に眼を瞑る。
「――雀ヶ森さん」
「なんですか」
「それは……どういうことでしょう」
眼を開けると、醤油が――ない。
いや、壜はあったのだ。ガラス片が床に広がり、確かに壜が落ちたことはわかる。
その中にあったはずの、黒い液体が。
そっくりそのまま、消えているのだった。
「……ど、どこに?」
「そこに」
零子が天井を指差した。その染みの浮いた板の真ん中に、なるほど染み出してきたかのようにべったりと、張り付いている。
「どういうことですか? これは」
「私が見たところでは、あなたは壜を空中でキャッチしようとして――途中でふたが開いて、出て来た中身に触れました。そこで大きく上へ空振り」
「醤油をすくい上げたって言うんですか?」
「そうとしか言えません」
弾丸停止はまだわからないでもないが、この現象はまったく不可解であった。零子もそれは同じであったらしく、その夜のうちになにか無線機を取り出して、ぼそぼそと誰かに報告をしていた。
それから後にも、さまざまに不可思議なことが相次いだ。
森の中で、頭上に落ちて来た枝が水平に吹き飛んだり。
五分間、全く歩けなくなったり。
極め付けには、朝目覚めたときになぜか壁に半分、寝床が突き刺さっていた。
「……あなたの能力は、どうやらただの弾丸を止めるだけのものではないようです」
零子が発した無線の返事は、電報として書類になって届いた。それを広げながら読みあげる。
「『適性ヲ認メラルル発揮能力ハ 物体ニ生ズル力学的ヱネルギイヲ相殺 或イハ端的ニ打消シムル物ト 現時点デハ想定サルル物也』――なるほど」
「それは、どういう能力なんでしょう」
「ええと……つまりは、たとえば醤油が天井に持ち上げられた時。あれは恐らく、あなたが醤油に対して能力を無意識的に行使し、その重力ヱネルギイを無効化――そして純粋なあなたの手の力が上方向に加わり、結果上へと打ち上げられた」
零子は煙草を取り出した。彼女が喫煙する姿はあまり似合っていない。
「ベッドの件はいまいち合点がゆきませんが……それ以外は納得可能です」
俺は今さら何も驚かなかった。
「わかりました。最初は地味なものかと思っていましたが――意外と、大それた話ですね」
「大それたどころではありません。これは使いこなせば、まさしく破格の機能を持つでしょうから。機関の人間にも歓迎されるでしょう」
そういえば、俺は自分以外の機関員の能力を、この零子のもの以外見たことがない。
そのことを尋ねると、彼女は薄く笑った。
「自分の能力をすべて語る人はいません。が、それぞれが何をできるのかくらいは把握しておくべきですね。私のは……ああ、もう一度見せたことがありましたっけ」
そう言いながら、首飾を取り出した。銀製らしいそれは、今は窓から入る日の光を反射して、鈍く光る。よく見ればその意匠は、なにか丸いものを掴む人間の手の形をしていた。
「私の能力は、物を吸収する能力です。この首飾が触媒となり、私が触れているものをその中へ引きずり込むのです」
「中へ? ずいぶん小さいですが。圧縮されるんですか?」
「さあ……それはよくわかりません。なにせ吸いこんだものがどこへ行き、どうなっているのかは、私にも把握できないのです。陸軍の七三開発部は、『次元の歪みを意図的に作り出す能力だ』なんて言っていましたので、きっとなにか、別の空間へ行ってしまうのでしょう」
「棺野さんはどうなんですか」
「棺野さん? 彼は、そうですね……説明が難しいですけれども、なんて言ったらいいのか――単純に説明すると、筋力と体力が無尽蔵に向上する能力らしいですね。発動しても見た目はあまり変化しませんが、その身体能力は人間のそれではありません。彼は海軍の航空隊出身なんですけれど、噂では大陸の戦争で、爆撃機から一人で飛び降りては破壊工作を行っていたそうです。『無限蝙蝠』と呼ばれていますね」
「ははあ……それであんなに馬鹿げた体力を」
体力訓練における棺野の姿を思い出して、俺は身震いをした。
「おや、もうこんな時間――そろそろ、能力訓練に移りましょう。続きはその後にでも」
「了解です」
そうして今、俺は空き地の真ん中で、鋼鉄の布をかぶせられたのかと思えるほどに猛烈な機関銃弾の嵐に佇んでいる。最初は恐怖で目を瞑っていたが、慣れた結果は土砂降りの雨の中にいるような程度の不安感しかない。服が破れるのが少々苦だが。
(これが終わったら、零子さんには是非とも大家さんの能力を聞いてみよう)
今だから思うが、きっとあの発動二輪の運転――あれにはなにか能力が関与していたように思える。
俺は少し微笑んで、弾丸の止むのを待った。
だが、その二分後――。
およそ、零子と世間話をしていられるような状況ではなくなることを。
この時には、まだ想定できるはずもなかった。