二、熱き血潮の冷めぬ間に(三)
伏見にある練兵場までは、田圃の中に赤煉瓦の工場がぽつぽつと並ぶ、郊外の田舎道をしばらく走った。
運転するのは零子、その後ろにしがみつくのが俺である。空はまさしく凱風快晴と言うべく晴れ渡り、真夏の底らしい暑さこそあれど、疾走する発動二輪に乗っている分には風が涼しく心地が良い。
「零子さん」
「はい」
「つかぬことを訊きますが、零子さんはどこかの使用人なんですか?」
「はい」
零子の運転は月岡さんのそれとまったく異なり、実に安定感がありながら速度は充分に維持するという、運転教習本のような見事さだった。
「きっと金持ちの御屋敷なんでしょうね」
「はい」
「――あー。運転、上手いですね」
「はい」
どうにも、運転中の零子は会話という概念を喪失するらしかった。
いつまでも零子の小さな背中を眺めているのもなんだかいやらしいので、流れる景色をぼんやり眺める。未舗装の砂利道ながら、軍属の自動車が通るためか路面はしっかりとしており、その傍らには時折のどかな丘や森が姿を見せた。子供が虫取り網を持って歩いている。
平和な風景ですね、と声をかけようと思い、俺は何気なく真正面に向き直ったが、その時彼女の白いエプロンドレスから真っ黒な拳銃の銃把が覗いているのを見つけて、何を言う気も失った。
やがて薄暗い森の中の小道を抜けて、明るく視界が開けた。まっすぐに道は伸びて、その先に巨大な煉瓦とコンクリートの建造物が見える。一見すればどこかの工場のようでもあるが、近づくにつれて、その異様に厳重な門や鉄柵に張り巡らされた鉄条網が、明らかに戦闘的なにおいを放っているのがわかった。
「誰か!」
堅く閉ざされた門の前に発動二輪を停めると、さっそく国防色の軍服を着た、警衛の兵士が駆け寄ってくる。小銃を構えて、今にも撃ってきそうだ。
「……なんか、すごく警戒されてませんか?」
「もちろん。真昼間とはいえ、突然このような使用人ととっぽい学生が、高級品の発動二輪に乗って遊びにくるのはあまりにも奇妙でしょうね」
わかっているなら着替えるなりしたらどうだ、と思ったが、零子が懐から取り出した手帳を見せたので黙る。秘密とはいえ機関員、もちろんつうかあで門は開くだろう。
「……なんだこれはッ!」
兵士の怒号が轟いた。
「なんだもなにも、上の命令で参りました」
「上も命令もあるかッ! なんで貴様のごとき使用人の小娘風情が、軍人のわけはあるまい! 恐れ多くも皇国軍人を愚弄するつもりかッ?」
小銃をしっかりと構え直し、兵士はまったく理解も納得もせぬといった顔で、じろじろと俺たちを眺めた。
「えぇ……どういうことです、これは」
「あなたは黙っていてください――納得できないというのなら、栗林大尉を呼んでいただきたい」
「栗林大尉ィ?」
「確かにこの基地の所属と聞いていますが」
「大尉の小間使いならばそう言えばよいものを、そのような偽造の身分証など作りおってますます胡散臭いわッ! 早く帰るか、捕縛の末に工作員疑いで憲兵団を呼ばれるか決めろッ!」
やれやれという表情を作って、零子は肩をすくめた。
「そこまで言うのなら仕方がありませんね。実力行使を――」
「待て」
凛とした声が響いた。瞬間的に兵士の顔が緊張に歪む。
「く、栗林大尉殿……」
「何をしておるか?」
栗林と呼ばれた男は、背の高い筋肉質の士官であった。
「その連中は私の客分である。何故言われもなくその足を留めおるか?」
「ですが……」
「ですがではない。通せ」
兵士はこちらも見ずに駈け出して、横の詰め所に逃げるように入った。やがてぎりぎりと鋼鉄のきしむ音をたてながら、門扉がゆっくりと開く。
「やあ、君たちにはとんだ無礼をしたようだな。あそこの男に代わって詫びる」
す、と頭を下げた栗林をよく見れば、「六連星」に居た、無口なほうの軍人であった。
「ようこそ、我が陸軍第十六師団司令部へ」
「あの面倒な兵卒、更迭するべきですね」
零子は表情こそ変わりないが、ひどく機嫌を害している様子だ。
「まあまあ、後でよく教育しておく――それよりここは暑い。中へ行こうではないか」
むすっとした零子の肩を押しつつ、栗林は俺にも手招きをする。大股で歩く先は正面の壮麗な建物である。
「ここは師団司令部だ。ささ、中は今年改修したばかりの最新設備、電気冷房が効いているぞ」
なるほど、厚い扉の奥は別世界のような涼しさだ。広い玄関ホールには花が活けられ、壁に馬鹿馬鹿しいほどに大きな軍旗がかけてあるほかには、ダンスパーティの会場だと言われても疑えない。かつかつと進む二人を追いかけながら、せめてもう少し身なりを考えればよかったかな、などと手遅れな後悔をした。
どれくらい歩いたかもわからないような、長い廊下をその突き当たりまで行くと、建物には見合わないやや貧相なドアがあり、そこには「第七補給部隊指揮所」と書かれた看板が下っていた。
「さて……少し休憩し給え。門番のせいでいらぬ汗をかいただろう?」
貧相なドアの向こうはやはり、そう大きくもない部屋だった。事務所と言ってもいい。白塗りの壁は清潔感があり、開け放たれた窓からは夏の木漏れ日が差し込んで素晴らしく爽やかな風情であったが、しかし秘密機関の本拠地という気配は一切ない。
零子が勝手知ったるといった雰囲気でソファに座り込んだので、俺も並んで座る。
「昨日はよく話さなかったが……君が、雀ヶ森君だな」
「はい、ここは……?」
「今、現時点での我々の拠点だ――書類上のな。私は見ての通りこの陸軍でそれなりに重要な地位にあるから、名目上は看板の、補給部隊の隊長として、部屋を便利に使わせてもらっておるわけだ。にしても、ぜろちゃんは今日も可愛いな」
「……」
「昨日は全く話せなかったが、しかしこうして美しい陽光の中で見る君の笑顔は最高に素敵だ。夜に話さなくてよかったとさえ思う。ああ、けして会いたくなかったという意味なんかではないよ。夜には夜のぜろちゃんがいる、というだけの話だ」
「……」
少なくともここへきてから、零子はくすりとも笑っていない。
「そうだ! 紅茶を淹れよう。私個人としては珈琲のほうが好みだが、ぜろちゃんは紅茶が好きだとこの前、呂畑機関長に聞いたのでね。神戸まで行ってアッサムの良い紅茶葉を仕入れてきたのだ。それにしても輸入関税が高くて、高級品はひどく青天井だったがな、貿易船の船長と直接話して、最高級品だけを回してもらったのだよ。ところで雀ヶ森君はどっちが良いかね? 紅茶は駄目だが。この紅茶はぜろちゃん専用だからな」
俺は曖昧に笑って、珈琲をくださいとだけ言った。
「わかった。では適当に談話などしてくつろいでくれ給え」
ばたんとドアを閉めて、栗林は出て行った。
「……あの男、久しぶりに会うといつもこの調子なんです」
「はあ」
最初こそたくましい偉丈夫だと思った栗林だが、これはかなり難点がありそうだ。
「どうしてあれほど私に構うのか。階級こそ上ですが、親切も度を越しています」
「いや、親切というか」
「『機関』では最も後輩の私に気をかけてくれましたし、きっとあなたにも親切に接してくれるはずですよ」
栗林の親切が、俺に対して少なくとも零子へのそれと同程度に及ぶとは思えなかった。
「ぜろちゃん、いい香りだろう! 楽しんで飲んでくれ給え!」
珈琲皿を三つ揺らして帰ってくる、栗林は最高に楽しげである。
「ありがとうございます」
茶葉には自信満面のくせに、珈琲の淹れ方は下手くそなようだった。俺の手元の珈琲はまるで蒸留したかのごとく煮詰まり、ひどく渋い。
「いやはは、これは失敗したかな。機密のために自分で淹れたのがまずかったのかな? まあ、そうでなくともぜろちゃんには私が手づから御茶を用意すると決めていたのだが。どうだねぜろちゃん」
「にがい」
快刀乱麻を断つ勢いは素晴らしかったが、しかし栗林はまるで意に介さなかった。
「そうか! ならば湯の温度と時間を変えるべきだな。まったく勉強になる!」
ひとしきりわははと笑って、そして俺に向き直る。
「さて……落ち着いたところで、始めようか」
緊張感がまるでなかった。