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二、熱き血潮の冷めぬ間に

「六連星」を出て。

 俺と降幡と棺野は並んで歩きだした。

 既に深夜を回った時間帯、歓楽街の河原町とて人気はめっきりと減り、明かりをつけている店といえば、宵っ張りのための小さなカフェーやバアのほかには、胡散臭い派手な提灯を提げた安茶屋ばかりである(もちろん、御茶を飲ませてくれる店ではない)。

 桃色の灯火に怪しく沈む店店を尻目に、降幡と棺野は黙って進む。俺も自然と黙る。

 そうして進むうちに、四条通りを出て、市電の停車場を抜け、鴨川を渡った。この先にもまた、祗園の歓楽街があるが――どこへ向かっているのか、いちどは覚めたかに思えた酔いがぶりかえし、ぐらぐらと揺れる脳味噌にはどこにも思考の余地は残っていない。

「ど……どこに行くんですかあ?」

 棺野がにやりと笑って俺を見た。

「その声音ではまだ酔っておるな。今日日きょうびの学生共は酒にも弱い」

 そして軍服のポケットからなにかをとりだすと、俺にそっと手渡す。

「海軍謹製の秘薬だ。即座に気が晴れる」

 見れば小さなブリキ缶、中には胡麻粒のような薬が入っていた。

 楽になるぞと言われて疑うのは難しい。ともかく一気に幾粒かを飲み下す。

「うわわ、なんですかこれは」

「あっと言う間に熱が引いただろう。これは軍艦乗りのための、まあ一種の酔い止めなのだ。艦は広いし洋上では暇も持て余す。幸い寄港地は多いから、そこでしこたま酒を積みこむ――ところが当直なんぞさぼってぐびぐびと調子に乗っていると、そういうときに限って上級士官様が見回りに来るわけだ。そこで襟の裏に隠したこの丸薬をそろりと飲めば、あら不思議。顔は素面に逆戻りという寸法の代物である」

 なるほど顔や手足の火照るような熱はすぐさま引いた。しかしながら酒精が抜けた、すっきりした思考に戻ったかといえば、そんなことはない。

「無論、酒そのものが綺麗に抜けるほどの魔法の薬ではないぞ。一見すれば素面に見える、というだけのものだ。頭は冴えぬし神経は鈍る。そこを忘れてはならん」

 ともかくかなり気分は良くなり、遅れ気味だった歩調が治る。

 やがて祗園の最深、弥栄神社に到着した。

「さあて、じき来る」

 降幡が大儀そうにつぶやいた。夜の山に沈むように立つ、大きな朱色の楼門は弥栄神社の象徴であり、日ごろは参拝客であふれる場所なのだが、やはり今時分には、猫の子一匹いやしない。

 降幡が煙草を吸いだしたので、俺も懐から煙草を取り出す。

 重い紫煙が二条、風のない熱帯夜の空に昇っていった。それにしても恐ろしく静かである。頭上には三日月がぽかりと馬鹿みたいに浮かぶほかには、星も見えず、ただただ楼門の前に立ち並ぶ、俺たちの影だけが路上に落ちた。

「……」

 四半時じゅうごふんほどもしたころ、突然棺野が大声を出した。

「そこな貴様、待たんかぁッ!」

 言うなりに腰の軍刀を抜き放つ。白刃は月光にきらめいて、すうすうと冷たい殺気を放っていたが、しかし棺野が見据える楼門奥の暗闇には、なんの影も見えない。

「ど、どうしたんですか一体」

「喋るな」

 降幡も気付けば、大振りの拳銃を構えている。

 とろけるような沈黙の中、二人が殺気を向ける先から、こほんと小さな咳払いがした。

「やれやれ、こんなに早く見つかるとは」

 するりと闇から姿を現した男。一見すればなんの変哲もない学生である。白い開襟シャツに、七三の長髪。少々軟派ではあるが、ただの人間だと思った、その認識は即座にぶち壊された。男はシャツを脱ぎ棄てるように腕を伸ばし、そして――腰に帯びていたのは長い機関銃である。

「……数藤八朗すどうはちろう、貴様が大清国の密偵であることは既に割れておる! 大人しく縛につけば、命こそ助けんが名誉ある死を与えよう! さあ、どうする数藤! 否、本名をして趙顛明ちょうてんみんと、呼んだほうがよいか?」

 大音声響き渡れども、更夜の底に他の気配はまるでなく、ただ数藤こと顛明と呼ばれた男だけが、不気味に笑った。

「そこまで理解わかっているなら話は実に滑らかだ。左様、唯今籍を置く帝大三回生数藤八朗、しかしてその実態は、泣く子も黙る大清八旗軍直下! 趙顛明軍偵であるッ! 無論それを知る貴様らを、生かしておこう筈もなし!」

 腰だめした七粍ミリ機関銃の排熱口がぽっかり開き、機関部に充填された金色の薬莢がきらきら光った。

「死ねい夷狄の猿共がッ!」

 言うなり無情に発砲開始。ぱかんと熱い破裂音が一撃虚空を走る。そこでそれまで完全に呆気にとられていた俺は、ようやく自分の生命危機に思い至った。

「うわああ」

「騒ぐな雀ヶ森。もう御仕舞だ」

 降幡が落ち着き払って言った。その左手に握った拳銃の細い銃口からは、青く硝煙がたなびいている。

「う、撃った? それじゃあ……」

 そこで改めて顛明を見れば、さきほどの姿勢のままで硬直していた。引金トリガにかけられた指もそのままだ。

「……な、」

 顛明も、そんな自分の状態に気付いた。

「何をした貴様ッ! さては軍属秘伝の拳銃じゅ……」

 最後まで言葉を言いきらぬままに、彼の機関銃が爆発四散! 猛烈な炸裂光は、連射用の弾帯に誘爆したためか。やがて悲鳴染みた残響が途絶えて、彼の居た場所にはちりのごときものが残っているだけである。

「いやあ、今日は初めての弾丸たまを使ってみたけれど、以外と上手くいくものだねえ。さすが海軍、いいもの作るよ」

 降幡が機嫌よく呟きながら、その弾倉マガジンの無暗と大きな拳銃を、脇の下につった木製拳銃嚢ホルスターに仕舞う。

「遅延式の炸裂弾か。機関部に当たらなければ無意味だったな」

 棺野はさっきまで顛明の立っていた場所へ歩いてゆき、焼け焦げた鉄骨の残る機関銃を眺めている。

「――ああ、すっかり忘れていた。雀ヶ森君、これで僕ら『昴機関』のこと、わかってもらえたかしらん?」

 降幡はにこにこ顔である。

「ええっと……なんでしょう。殺人?」

「全然駄目だ、大外れ。そう正解は――ぐえっ」

 降幡が背後から殴られた。そこには先ほど「六連星」に居た使用人姿の娘が、握りこぶしも堅く立っていた。

「――正解は。さっきのよーな馬鹿な間諜スパイを見つけ次第ぶち殺すことです。そう正式には、『近衛軍司令第二百九十二号、“亞号あごう”作戦』と呼ばれていますが、つまりはそういう単純シンプルなものです」

「……?」

「一度で了解しろ雀ヶ森! 『昴機関』は、この皇都に跋扈する間諜工作員の類を、ちりひとつ残らぬほどに殲滅するのが目的なのだ!」

 益々混迷の色を深めつつ、俺は返事もできずに焼け焦げた石畳を見つめていた。


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