六、干戈混じゆる幾星霜(三)
視界が狭まる。
鼓膜が、きんと高く唸る。
鼓動が逼迫して、喉が詰まった。
――こいつは、違う。
今まで相手にしてきた、どんな敵とも。
「饕餮……名前だけは知ってるぜ」
無理やり声を絞り出した。だがそれが震えているのに、相手は気付いただろうか。
「四凶」饕餮。それ自体は、見る限りただの痩せた男だ。構えに隙がないわけでもなく、殺意が滝のごとく迸る……ということもない。
だが、俺には理解できる。額が、初めて「能力」を使った日のように、熱くうずいた。圧倒的な恐怖の前に、無意識に精神力が消耗しているのだ。
それはまさしく鼠が、不意に虎に出くわしたかのような。人間が、人間以上のなにかに、出くわしたかのような。
捕食者――そんな言葉が浮かんだ。
「……負けるわけにはいかねえ。爆弾、ぶん捕らせてもらおう!」
饕餮は何も言わない。ただじっと、俺を見つめているだけだ。
両手には何も持たず、武器や暗器を隠している風もない。黒い細い瞳が、観察するように俺を眺めて、そうして鼻で笑った。
「ふん、そうかお前――『能力者』か」
「そういうあんたもそうなんじゃないのか? こんな鉄火場に、武器も持たずに!」
足が震えてきた。どうしてこんな男に、ここまでおびえなければならないのだ? 自問自答しつつ、風のごとく吹き付ける恐怖の原因を考えた。その答えは、ひとつだけだ。
「なんの「能力」かは知らないが、そっ首落として帰らせてもらう」
かちり、と音がした。
気付けば饕餮はライターを片手に、口から紫煙を濃く吐いている。
……いつの間に!
「やれやれ、檮杌が言うからわざわざ出向いては来たが、まるで期待できそうにないな」
表情を変えずに、そんなことを言った。
もう限界だ。拳銃の引金にかかった人差し指を、一気に引き絞る――ぶち抜いてやる。いかな能力者といえども、俺や棺野のように、弾丸を弾けるような奴は少ない。
狭い通路に破裂音が響き、右手が反動で跳ね上がる。饕餮は動かない。弾道は真っ直ぐ黒い胸元へ。
「あ……?」
その弾丸は、しかし饕餮の胸元三寸でぴたりと動きをやめる。相手は微動だにしない。
無言で三発を撃ち込んだ。が、同様。
「――或いは、お前と同類かもしれない」
停止したままの弾丸を指先ではじき、饕餮は口を開く。
「いや、やはり違うか。全然違うな……お前の「十万億土」、引斥力の無効化――と聞いていた。なるほど便利な能力だ。きっとお前は、自意識過剰なぶんだけ、無力感にさいなまれてきたのだろうな」
「……どういうことだ?」
「自分への負荷をすべて拒む。それはつまり、心理負担の重みを知っているからこその拒絶。だがそういうものは、己が自身に過剰な期待をかけるがゆえに生ずるのだ。『能力』は個人の素質と、その精神的様相――心理外傷が最も大きく出現する。知っていたか?」
……心理外傷? 確かに言われてみれば、そう言えないこともないが。
「それがどうした馬鹿野郎!」
銃が効かないなら、冥冥を倒したあの技だ。
瞼を閉じて、呼吸を整える。
脳に光が走り、俺は一気に精神を解放した。目標は直線上、弾丸を止められても、この質量の体当たりはちょっと話が違う。
眼を開く。視界が滲み、とらえるものは一点、あの男だけ。加速にかかるヱネルギイを、全身に感じる。
「!」
饕餮が消える。その変わりに、眼の前一杯に迫った軌道式のレールが出現した。
何が起こったかわからないまま、俺は頭から地面に突き刺さる。
衝撃音が響いたが、それは自分の身体が発する音だった。
「――出てこられんだろうな」
気付けば周囲は真の闇である。いや、四肢に感じる奇妙な圧迫感は、ただ暗い場所にいるというだけのものではない。
「……! ――ッ!」
呼吸ができない。そこで初めて自覚する。
――ここは地中だ。
どうしたことか、俺は前方へヱネルギイを解放したつもりが……なぜか真下に作用したのだ。用意に建物の壁を撃ち抜くその加速度を持ってして、俺は全力で地面に突入したのである。何メートル沈みこんだのかさえ、想像できない。
「十万億土」があったがゆえに、落下の衝撃は回避できたのだが――しかしあくまで筋力その他は常人並みのそれ。動くこともできなければ、息をすることも不可能だ。
「――!」
声にならない叫びが喉から漏れる。いらだちや、怒りではない。
恐怖。それだけだった。
「……! ――!!」
震えが止まらない。酸素が脳から失われ、血液が沸き立つ音が耳元を走る。
瞬間、腹の底にぞっとするような浮遊感を感じた。引き摺られる上昇、そして地上に顔が出る。
「ああん? 普通は十メートルも地面に潜れば死ぬはずだがな。流石は腐っても「能力者」だな」
浮遊感は停まらない。ぐんぐん身体は上昇し、獣を見るような眼で俺を眺める饕餮の、数メートル上空でようやく停止した。
「……『念動力ッ!』
「そういうありがちな言葉で表現されるのは嬉しくない。ものはお前の能力と、そう変わらんのだがな……」
ため息をつきながら、視線だけが空を見た。途端に俺は弾き上げられ、ぐるぐると回転しつつ地上へ。
「はぁ、はぁ……」
荒い息をついて、立ち上がる。
「まだ終わらんぞ」
ひらり、と饕餮も降りて来た。空中回廊から五メートル下。ここは始発の汽車の入る、まさしく軌道式の上である。
発着場で何も知らずに汽車を待っていた人々が、何事かとささやき交わしていた。戦闘機の機銃掃射と銃声、爆発音。さらには空中回廊の床を突き破り、落下してきた二人の奇妙な男――異常すぎる状況だ。
「立ちあがったのは褒めてやるべきだな。上へ下への急制動、三半規管が使い物にならなくなっているはずだろうに」
にたり、と饕餮は笑う。
「なに、そう怯えるな――話の続きをしたいところだが、こう目立っては仕方がないな。続きは仲間たちと、仲良く冥土で話すがよかろう」