一、かくて壇上に上がりしは(二)
天下六十六州が戦乱の中にあった時代から、一人の統一者が生まれ、そこから連なる二百五十年にわたる太平の眠りを貪ってきた、とある極東の「帝国」があった。これが諸外国との重なる軋轢によって、ついに将軍家が皇宮に大政を奉還したのが、今から四十年前のことである。
もともと文化的に勤勉であった国民性もあり、帝国は破竹の勢いで国家としての急成長を果たした。わずかのうちに、木造長屋は都から姿を消し、替わりに赤煉瓦に銅瓦の洋風建築が軒を連ね、電力稼働の市電軌道が敷かれたかと思えば、大規模な工場地帯が田園の上に立った。しかし洋風化のみが進んだわけではなく、それは古来より積み重ねられた東洋文化と、急進する西洋文化とが融合された姿だったのである。
やがて国力増大した帝国は、いまだ近代化の進展せぬ大陸に手を伸ばした。
無論そのためには戦争が不可避であり、幾度かの激しい戦乱が巻き起こったが、兵器の近代性と兵力の理論的な構築に成功していた帝国は、現状負け知らずの常勝軍団であり、今では大陸に広大な未開の沃野を確保した上で、なお南洋にその支配を伸ばさんとしているのであった。
と、教科書的に俺が知っていることはこのくらいで、結局のところ市井の一般市民の暮らし向きは、さほどに変わったこともない。確かに景気はいいようで(兵隊も商家も開拓者も、人手は恐ろしく足りていないのである。働き口に困ることはなく、物も飛ぶように売れるのだ)、田舎の小さな菓子屋の実家も、俺の浪人生活には充分な仕送りをしてくれる。だからといってそれに甘えているわけにもいかないのだが……ともかく俺はこのところ、将来の活計といういやに逼迫した問題を抱えているために、その現実逃避のために街をぶらぶらとあてどなく散歩するのが日課になっているのだった。
夜半も近くなったころ、俺は木屋町通りにほど近い、鴨川のほとりを歩いていた。そろそろ市電も終発であるというのに、道々の一銭飲み屋はまだまだ盛況で、小洒落たカフェーも大入りの満員だ。辻占いの横を抜け、安茶屋の黄色い歓声を無視しつつ歩いて行くと、そろそろ木屋町通りである。ここも旧幕時代には、いかめしい陣屋が構えられた武家町であったそうだが、今では立派な東洋一の繁華街だ。別段祝日でもないというのに、花電車のような派手派手しい装飾の広告車が走り、行き交う人々の頬は少々の酒で赤く染まっている。どこかで激しい怒号とざわめきが聞こえるのは、きっと喧嘩かなにかであろう。
さて、とりあえず「六連星」なるカフェーを探して、俺は一通りの路地を歩いてみたものの、そんな看板はどこにも見えなかった。仕方がないので、道端にあてどなく突っ立っている茶屋の客引きに尋ねると、そういう店ならすぐそこにあるよ、などと言う。指す方に目を凝らせば、なるほど恐ろしく目立たない小さな洋風料理屋の、そのさらに地下に向かって、ごく小さな看板で「むつらぼし」と仮名書きしてあるのだった。
客引きに礼を言って店に向かうと、既に玄関からして胡乱な雰囲気が漂っている。裸電球が無造作に埋め込まれただけの地下へ向かう階段には、真夏だというのに妙に涼しい風が吹いており、普通のカフェーならば必ず聞こえてくる、客と女給のにぎやかな喧騒が一切ない。ただ赤煉瓦の通路の先に、ひどく沈んだ禍禍しい色合いのドアがぽつんとある、それだけである。
(普通のカフェーとは、とても思えないな)
もしかすると、大家に嵌められたのやもしれなかった。だいたいがあの大家、月岡さんはどこか怪しい雰囲気がある。やくざ者とまではいかぬまでも、一般小市民と言うにはどこか所帯離れした、渡世人染みた気風があるではないか。
まさかこの「六連星」が、香具師やら山師の巣窟であり――その若い労力として、学生身分からはじかれた俺を送り込んだのでは、よもやあるまいか。そういう可能性は否定できない……というよりか、だいたいがこの葉書の意味さえよくわからないのだ。下宿を出る前に少しだけ、懐紙をめくって中を見てみたが、なるほどどこにでもあるようなただの葉書であり、住所宛名どころか、そこには文章さえなにも記されてはいなかった。
素直に後ろを向いて帰ろうかとも思うが、しかし大家の最後の言葉――「人生を変えるかもしれないよ」――が、どうも脳裏にちらついてやまない。それはもちろん無法者の仲間になれば、当然人生はがらりと変わるが――実家に二度と帰ることさえ、できなくなるやもしれないのだ。
が、しかしここに来て、俺の内面のいわゆる好奇心がざわりと騒いだ。だいたいが、謎のカフェーに真っ白な葉書の紹介をもって乗り込んでゆく、その風情が既にどこか描き割りじみた、まるで活動映画のワンシーンのようではないか。その先がどうなっているのか、これは見逃す手もあるまい……ドアから立ち上る怪しい気配は、どうやら抗いがたい魔力を放つのであった。
謎はいつでも魅力的である。
階段を長靴がたたく、こつんこつんという高い響きがいやに耳にさわり、やがてドアの前にたどりついた俺は意を決して、真鍮の獅子が刻まれたドアノブを押した。
低い呼鈴の音がして、店内の人目がいっせいにこちらを向く。とはいっても客は数人しかいない。狭いカウンタアと、小さな机がひとつあるだけの、重苦しい内装である。天井からはやはり裸電球がぽつりと下っているばかりで、ひどく暗い。
「いらっしゃい」
カウンタアの奥から、柔らかな声がした。見れば髭に禿頭の大男で、声音を聞かなければ野武士もかくやという筋肉質である。給仕の蝶ネクタイがまるで似合わない。
「何にされます?」
「いや……これを持って行けと、大家――月岡さんに言われたもので」
月岡という名字に、さらに視線が集まったようである。机を囲んだ二人の男が、なにやらひそひそと耳打ちをし合いだした。なんだかいたたまれなくなって、俺はカウンタアに据えられた丸椅子に座ると、ともかく眼前の野武士に葉書を差し出す。
「ああ、なるほど月岡ね。ちょっと待っててよ」
そう言って野武士風の店主はグラスを磨いていた手を止めると、小脇の焙煎機に向き直って、珈琲豆をからからと炒めだした。途端に珈琲の複雑な香りが広がって、少々気分が良くなった。
煙草を取り出しながら周囲を観察してみる。ちらちらとこちらをうかがいながら、内緒話をしている二人組はよく見ると軍人である。片や国防色の軍服に赤色の肩章、片や濃紺の詰襟に金の刺繍で、どうやら海軍と陸軍の、それも下っ端兵卒ではなく、下士官階級の男たちであった。カウンタアに座っている客も二人、これは互いに話し合う様子もなく、奥に座って切り子のグラスを傾けているのは、浮かない表情を浮かべた使用人姿の若い女で、手前で焙煎機のじりじり言うのを眺めているのが、これが丸眼鏡に書生風の学生帽の男であるが、年齢は若いようであり中年のようでもあり、判然としない。だいたいが今は八月、盛夏の真っただ中である。なにより異様なのがその男、この暑気の中で、二重回しの黒マントをはおっている。
普通、カフェーの客層というのはだいたい同じような身分ばかりになるものである。実際に俺の行きつけの千本通りのカフェーは、若い女給目当てのやさぐれた書生や浪人生ばかりがたむろす騒がしい店であるし、女性客は女性客でもっと明るい、清潔感のある菓子屋のようなカフェーに行くものだ。軍人にも、伏見の陸軍連隊基地あたりには軍人専用のカフェーがあるそうで、ともかくあまり軍服のままで軍人がぶらぶらとそこらのカフェーでお茶をしている姿など、見たことがない。
「珈琲お待ち」
頼んでもいないのに出てきた珈琲を、俺はゆっくりと口元に運びながら考える――なるほどこのカフェー、異様だ。
「……で、この葉書なんだが」
店主が太い腕を組んで、片手でぴらぴらと葉書を振った。
「君はこれ、中身を確認したかね?」
「はい……でも、なにも書いちゃあいませんでしたよ――白紙です。宛名もなかった」
緊張を隠さずに、慎重に言葉を選ぶ。
「……そうかい」
やや残念そうに、店主は懐紙を剥がした。現れた葉書はさっきまでと同じ新品――と、思ったところではたと気付く。
(宛名がある……)
確かに先ほどまで、何も書かれていなかった葉書の表面。そこにはどうしてだかわからないが、黒々とした墨跡も真新しく、「中京區鍋屋町壱丁目 呂畑界風様ヘ 月岡牡丹ヨリ」と、はっきり住所が浮かんでいた。おそらく月岡牡丹というのは大家の本名であろうが、しかし……。
その裏面をしげしげと眺めている店主――或いは呂畑という男は、時折りなにか意味深に頷いたり、少し笑みを浮かべたりしつつ、ずいぶんと長い間熱心に葉書を見据えていた。
「なるほどなるほど、了解したよ。君、名前は?」
「……雀ヶ森、です。雀ヶ森はじめ」
ふと後ろを見れば、先ほどの軍人が二人ともにこにこと満面の笑みを浮かべながら、俺の顔をじっと眺めている。カウンタアの二人も、いつからかこちらに目を向けては、興味深そうな視線を投げかけていた。
「な、何ですか一体……?」
「おめでとう」
店主が唐突にぱたぱたと手を打つ。それに合わせて店内の客たちも、にこやかな拍手を始めた。なにがなんだかわからない。
そのうちに陸軍の軍人が立ちあがると、よく通る声で言った。
「おめでとう。君はこの『昴機関』新機関員に認定されたぞ」
「おめでとう!」
「おめでとうございます!」
割れんばかりの音量となった拍手の中で、俺が理解したことは――確かに人生、変わるかもしれない、ということだけであった。