五、花も嵐も踏み越えて(三)
俺の能力は、「十万億土」と呼ばれている。近衛軍の上層部が、そう決めたらしい。意味はよくわからない。だいたい、この能力が真実どういった原理効果で出現しているのか、それさえいまいち理解しているわけではないのだ。
通常不活性の脳の一部が、なんらかの要因で覚醒した時――それが、たとえば自動車事故による強い衝撃であったり、薬物による脳神経の変化であったり、また生まれつきであったりするのだが、そういう場合に出現する――いわば、五感の奇形であるといっていい。
そんな特異な超能力は便利ではあるが、しかし実際的には戸惑うばかりの異能――あまりに強すぎる能力だった。事実、今は内応者として隣に眠る冥冥を、あの夏の日に殺してしまったかもしれないのだ。
今さら何を、とも思うけれど。
それでも、やはり殺人という行為には、何か越えがたい壁を感じる。この数カ月の内に幾度かは殺された人間を見たし、殺されかけもした。しかし死んだ人々は、俺のような能力なんて持ってはいなかった。
拳銃片手に死をもいとわぬ突撃を、果たして彼ら彼女らはどうして、そう苦もなくできるのだろうか。銃弾なんて易々と無効化できる俺は、より強く感じてしまう。たとえるならば子供が、玩具の護謨鉄砲でじゃれかかるような――それと実質、大差がないのだから。
もちろん冥冥のような強い人間もいることはいる。しかしそれでも、結局俺に致命傷を与えることはなかった。だからたまに思うのだ。
――俺は本当に死ぬのだろうか?
どうしても、本気になれば傷一つ負うことなく相手を殺せるこの能力に、なんともいえぬ優越感を感じてしまう。そしてそう考えるたびに、俺はひどい自己嫌悪に駆られる。
理解はしている。理解はしているのだ。負ければ死ぬし、全能の力なんて持ってはいないということは。だが、その真実に現実味がない。
だからどうしても、今こうして「昴機関」に働くことまでもが――現実を突きつけられるたびに、どこか夢を見ているような、傍観者的な感慨を持つのだ。
それが気持ち悪い。
(誰かに相談したいな)
夜明け前の暗闇の中で、半ば眠りながらぼんやりそう思った。まだ早い時間だ。零子も冥冥も眠っており、静かな深い寝息だけが聞こえる。
窓辺に黄色い満月が浮かんで、藍の夜空になんだか悪趣味な対比を描いていた。それをながめているうちに、やがてはっきりと眼が冴える。煙草と燐寸を探した。意識もはっきりしてくる。
とりとめもないことを考えているうちに、浅く眠っていたようだった。普段は考えないようなことが、あぶくの様に浮かんで消えていった。
「……今度、呂畑さんにでも話してみるかな」
一人ごちるのに合わせて燐寸をばしゅりと擦った。燐の閃光が迸って、視界が一瞬白く消える。
深く煙を吸い込んで、そのままじっと窓を眺める。
「……」
視界のすみで、暗がりにごそりと何かが動いた。
「……おはようございます」
零子がむっくりと、影のごとく立ち上がる。
「おはよう、もうちょっと時間はあるけど?」
「いえ、私はいつも二時間しか眠りませんから」
しかし月明かりの下で、零子の三白眼が眠たげにしばたいた。
「――顔を洗ってきます」
ゆっくり部屋を出ていくと、廊下をみしみし言わせながら零子は洗面所に向かう。
それを聞きながら、俺も立ち上がった。
左胸の銃嚢から、細い銃把の拳銃を抜く。窓に向けて引金をかちり。しかし弾丸は出ない。暴発防止のために、普段は弾倉を抜いてあるのだ。
月を狙いながら照星を調整していると、零子が帰ってきた。
「すっかり眼が覚めまして、改めて今日もよろしくお願いします」
「ああ、こちらこそよろしくです」
わきに気配を感じて振り向くと、すぐそばに零子が座ったところだった。
「わ、なんですか?」
「私も拳銃を整備しなくては。回転式もたまには動作不良を起こします」
腰のエプロンドレスから、黒光りする拳銃を抜く。
「だからって、なんでこんな近くに……」
無駄に意識をしてしまうではないか。
俺の奇妙な意識に気付いたのか、いつもの冷たい視線を流し目で向けた。
「ここ以外、月明かりが入りませんので。まだあの工作員は寝ていますし、手燈を点けるのも可哀想です」
なるほど納得。慣れた手つきで分解を始めた零子は、もう眼もくれない。
――べつに変な気持ちで零子を見ているわけではない。
ただ、果たして零子はどういう気分で「昴機関」にいるのだろうか? それを知りたくなった。
しかしそれを聞く前に、零子が口を先に開く。
「――雀ヶ森さんは、最近どうですか?」
「なんですか。零子さんには珍しい、漠然とした質問ですね」
「つらくはないか、ということですよ……訓練の時にも尋ねましたけれど」
肉体的なつらさはない。
だが、いいえと素直には言えなかった。
精神が疲れているのだろうか?
「――つらいわけじゃあないです。ですが」
「ですが?」
「零子さんは、この仕事を――どう思っているんですか?」
「どう、と言われましても」
少し困った顔をした。
「俺は、最近ちょっと悩んでいます。この『能力』を、本当に俺の力と呼んでいいのか。あまりにも強くはないだろうか、と――拳銃も効かない超人化した俺が、なんだか今までの俺とは違いすぎて、現実味がないんです。まるで虚構のようだ」
俺の言葉を、零子は黙って聞いている。
「零子さんはどうなんですか。『墜景』なんて能力を持っていて、こういう気分にはなりませんか?」
「……」
「確かに月岡さんに、あの手紙を渡されるまでは――俺は今までの自分を変えようと、自堕落な自分を超えたいと思っていました。『昴機関』で、だから人生は変わったと思った。けれど、いざ働いてみればあまりにも非日常で――」
煙草がいつのまにか燃え尽きていた。
零子はポケットから煙草を取り出しながら、静かに答える。
「私は、もともと昔から『墜景』の能力を――その片鱗を、使うことができました。十年も前からです。知っての通りこれは、物体を消し去ってしまう能力。だから不用意にものを消してしまっては、私は周囲から懐疑の目をかけられてきました。もちろん傍目には、ただの手くせの悪い子供でしかなかったかもしれませんが――自分はすべてを知っているんですから、わけがわからないのは私自信です。金魚が掌に吸い込まれてしまったこともありましたね。まさしく狂乱と、恐怖しかありませんでした。もちろんそれは家族も同じ。しばらくは母親でさえ、私の育児を放棄して……学校にも、行かせてもらえませんでしたね。それなりの家柄だったはずですが」
細く長く煙を吐いた。
「それが制御できるようになったのは、つい三年前のこと。月岡中佐と偶然知り合ったことがきっかけでした。ふとしたことで中佐の前で、消失現象を見せてしまったのですね。それを見た中佐は大層興奮して……最初は押小路の近衛軍基地に連れていかれて、そこでこの首飾が作られました――それがこれです」
ふところから引き出した、銀の首飾。きらきらと月光をはじく。
「これのおかげである程度、『能力』の操作が効くようになりまして、時を同じくして組織された『昴機関』に勧誘されたのです。表向きの仕事として、この使用人の職務も頂きました。
だから私は、『墜景』とともに生きてきたのです。これがなければ宍喰の実家で、幸せな女学生になっていたのかもしれないと、考えたこともありましたが。しかし中佐はこう言いました。『不思議と、能力というのはどうやら個人が持つ、願望というものに由来して内容が決まるようなんだ。だからあんたの能力は、決して要らないものなんかじゃない。むしろあんたの心からの望みを、かなえるための道具なのさ』」
「……」
「だから私は思うのです。この能力がどんなものであれ、私の幸せのための力であるならば――それはとてもありがたいことだと。無敵の力だと喜ぶ必要はありませんが、ただ自分の幸福を追求する、その意味において大切な――そういうものが、この『能力』なのでしょう、と」
ため息をついて、零子は言葉を切った。
「……」
俺は返事ができない。
ただ、ゆっくりと白み始めた空を眺めながら――少なくとも、先ほどまでの悩みが晴れていることに気付いた。
みしみしと、足音がする。月岡中佐が起きてきたのだ。
「さあ、そろそろ行かなくては。夜明けは近い、ですよ」