五、花も嵐も踏み越えて
「ここ、ですか」
発動二輪が停車したのは、静まり返る深夜の住宅街。
眼の前には古びた下宿屋がある。見慣れた――というよりも。
「俺の下宿じゃないですか。どういうことです?」
「どうもこうもないですよ。中佐はここの家主ですから」
「へ? ああ……ああ!」
ここ最近まったく顔を見ていなかったので、すっかり忘れていたが。
我が家の大家、月岡さんこそが、このめくるめく非日常的世界の案内人にして、元・「昴機関」隊長だったのだ。
「ところで、中佐のお部屋はどこでしょう? 案内をしてもらえますか」
軽機関銃をかついだ零子をともなって、俺は下宿に足を踏み入れた。珍しく、まだ起きている学生はいないようだったのが幸いだ。こんな武装使用人を連れて歩いている姿を見つかるわけにもいくまい。
「ここです」
一階突き当たりの部屋の前で、俺は軽くノックをした。
「……」
答えがない。
「寝てるんでしょうかね?」
「……いえ」
唐突に零子のまなじりが、凶悪な風に吊りあがる。獲物を発見した猛禽類のようだ。
「……硝煙の匂いがします」
それはあんたの機関銃ではないか、とも思ったが、しかし確かに、つんと鼻の奥に感じる匂いがある。さらに床に眼を落すと、そこには土足の革靴とおぼしき足跡が真新しく残っていた。それが扉の向こうに続いている。
「……ッ!」
息を飲んで、俺は拳銃を抜いた。
「零子さん……どうします」
「裏から回りましょう。窓から様子を確認せねば」
と、そこで扉が開いた。紺色の二重に赤い帯、毒々しい着物をまとった、それはまさしくいつもの月岡さんだった。
「あらこんばんは。誰かと思えば、間抜けな雀ヶ森君と――珍しい。零子君じゃないか」
「間抜けなってなんですか。というか、大丈夫ですか?」
月岡さんはくわえた煙草の煙を吐き出して、二重の袂に手を突っ込んでいる。
「何が? それより入りな、廊下は寒い――そろそろ共同部屋に炬燵を出してやろうかしらん」
襲撃者の気配はまるでない。俺を零子は顔を見合わせて、おずおずと部屋に進んだ。
「どうも」
冥冥がちゃぶ台に座って、湯呑みを啜っていた。
心臓が止まりそうになる。
「おお、君らにも茶を出してやろ。一寸待ってなさい」
「いや、なんですかこれは。どういうことですか」
零子が取り乱して言う。
「まあまあ、ともかく座りなさい」
落ち着き払った月岡さんに対して、俺は抜いたままの拳銃を冥冥に突きつけた。
「――説明してください。まさかあなたまで裏切りを?」
零子の軽機関銃がぎしりと鳴いた。殺意が波のように伝わってくる。
「事と次第によっては、月岡中佐といえども――」
「座らんかッ!」
大音声で一喝。
瞬間ずしりと空気が重くなった。そう感じたというだけではない。真実、まるで酸素が重量を持ったように――全身に重圧が加わったのだ。
「……苦しっ」
思わず膝をつく。
「『白色電光』ですね……」
憎々しげに零子は呟いたが、やはりごとりと軽機関銃を投げだして座りこんだ。
「解ればいいんだよ」
二人が座った(座らされた)のを見て、満足げな表情を月岡さんは作る。にやにやしながら指を鳴らすと即座に重圧が消えうせ、嘘のように平常な空気が帰ってきた。
「『白色電光』ってのは……」
ため息をつきながら零子が答える。
「月岡中佐の『能力』です。説明は難しいですが、重力操作能力、というのがわかりやすいかと」
なるほど、俺と零子は重さを操作された、ということか。
冥冥もいやらしく笑って、零子を流し目で見た。
「さすがの零子ちゃんも、上司には肩なしってやつだあね」
月岡さんはどっかり座って、灰皿を引き出しながら深く煙を吐いた。
「荒っぽくてすまんが、最初に言っておこう。私は間諜なんかではない。間諜はどっちかというと、こいつだ」
冥冥を顎で指す。
「どうも」
屈託なく笑った。
「冥冥には半年前から、青陵公司の情報を調査してもらっている。もともとは向こうの人間だがな」
俺はようやく事態を飲み込んだ。とすれば、今回の顛末はどういうことだったのだろう。
「鶇美さんはそれを知って、こいつを逃がしたんですか?」
「いや」
月岡さんは煙草を揉み消す。
「奴はまぎれもなく、あちら側の間諜だね。もともとここ数日冥冥に働いてもらったのは、君らも知っての通りの『皇都駅爆破計画』。これを前にして身中の蟲をあぶり出そうという手筈だったのさ」
「あたしは公司でもそこそこの立場の戦闘要員だから、普通は捕虜なんて見殺しのところを、あの娘に救出命令が下ったんだ。一度は完全にあんたらを撒いて、そのまま神戸へ向かったんだが――」
冥冥が拳銃を撃つ真似をした。
「五条で車を出てすぐに、一発さ」
「すると彼女は死んだのですか」
零子も煙草を取り出している。気分が悪いらしく、苛苛した手つきだ。
「死んだ。死体はしっかり確認してきたさ。こういうとき公司じゃ右手首を切り落としてくるもんなんだが、ここはそういう気持ち悪いことをさせないから有りがたい」
やや複雑な気分になる。
さっきまで話をしていた人間が、この眼の前の娘に殺されたのだ。それを誰も奇妙になどと思わず、当たり前な風に会話は続く。
「やっぱり、もう後戻りできないなあ」
思わず呟いた言葉は、誰にも聞き咎められなかった。




