四、玉散る剣抜きつれて(二)
赤煉瓦のビルヂングが立ち並ぶ、御池通あたりの一角は、昼間こそ企業人でにぎわう街区であるが、こうして日が落ちた後にはほとんど人気が絶える。街路の拡張と近代建築のために、普通の民家があまりないためだ。
通りがかる自動車や市電の灯火ばかりが明るく、建物の窓硝子は暗い。どことなく不気味に閑散としている。普段はなんとも思わない道のりが、やけに遠く感じた。
そういう不安を抱くのも、これからの仕事に俺がやや緊張している証拠であった。
「ねえ、零子さん」
「なんでしょう」
零子はいつも通り、つんとした三白眼で俺を見た。
「尋問、って呂畑さんは言ってましたけど。具体的にはどうするんです?」
捕まった間諜の末路は往々にしてむごいものだと聞いた。だから俺も一通り、万が一捕虜になった場合の処置は教育されている。
……曰く、虜囚の辱めを受くるべからず。
自白してよい範囲とか、そういうことを教えられる前に。
出来うる限り自決せよ、と、そう零子は言っていた。
「さあ、私もまだ何も考えていません。一応こんなものは持ってますが」
小脇の袋を軽く振る。
拷問用具だろうか?
「野点道具です」
「……」
うすうす感づいてはいたが、この人は冗談が下手くそだ。
そんなことを話しているうちに、やがて千本通にある、目的のアパアトに到着した。
一見すればただの古びた集合住宅だが、表札や看板は一切なく、ただ管理室と思しき部屋の窓だけが明るい。
「すいません、宍喰ですが」
零子は玄関を通って、最初の扉をノックした。
「はいはい――ああ、ぜろちゃんですか。お疲れ様」
眼鏡の女性が顔を出した。モダンガアルのような小洒落た洋装をしている。
「『青陵公司』の工作員は、どこです?」
「ああ、それならここの最上階です――そちらは?」
女性はそう言って俺を見る。
「三か月前に参加した、雀ヶ森と言います」
「あらそう、それはよろしくね」
にっこり笑って頭を下げた。
「私は綾歌鶇美と言います。今後もよろしくお願いしますね――では、さようなら」
「え?」
鶇美は部屋から出てくると、零子に鍵を渡しながらそそくさと歩いて行く。
「私はこれからダンス・パーティですから。あの娘を逃がさないでくださいね」
俺と零子は無言で見送った。
かつかつというハイヒイルの音が消えてから、ようやく歩きだす。
「……いつもこんな風ですよ」
「鶇美さんですか?」
「ここの管理以外に仕事がないので、変わりが来るとすぐにどこかへ行ってしまうのです」
「ははあ」
鍵に記された部屋番号をたよりに暗い階段を登って、最上階の角部屋にたどりついた。
「どうしてこんな一等の部屋に?」
「飛び降りて逃げるのを防ぐため、他の部屋に会話を聞かれないようにするため、ですね」
言いつつ無造作に鍵穴を探り当てると、ぎいといやな音を立てて扉は開いた。
「ああ、どうも晩上好。いつかの新米とクソ使用人か」
小さな部屋だった。きっと六畳もない。板張りで、埃がたまっている。
天井からは小さな白熱電灯がひとつ下っているだけで、その陰に、後ろ手に縛られた冥冥が椅子に座り込んでいた。そのほかには、なにもない。
「……こんばんは」
「なあ、あの守衛の女に言ってやってくれよ。『頼むから、扉越しに仕事の愚痴を言うのをやめてくれ』ってさ。下手な拷問よりもよっぽど精神が参るぞ。あれは」
久しぶりに顔を合わせた彼女は、想像よりもよほど元気そうだった。
怪我はないし、飢えてもいない。
「元気ですねえ」
零子が静かに言う。
「ああ? そりゃ元気さ。何故だかお前らの公司が、ご丁寧に扱ってくれるもんだからよゥ。昆明あたりの静養地に来た気分だぜ。それともあれか? こんな部屋に閉じ込めておくことが拷問だと思っているんなら、そいつぁよっぽど――」
「……話せ、とは言っていませんよ」
おもむろに腰の拳銃を抜き放つ。いつもの自動式ではなく、回転式の旧式だった。
「いきなりそれか? このッ残酷使用人め!」
「零子さん、気が速すぎでは」
どの言葉も無視して、零子は冥冥の額に銃口を向けた。
「――『青陵公司』の活動が最近活発化しています。この前の『四凶』の侵入もそのひとつ。これから貴様等がなにか行動を起こすのは間違いありません。さあ、なにをしようというのか、知っている限りにこたえてください」
冥冥は鼻を鳴らす。
「はッ。これは御笑いだぜ。この『拳銃使い』冥冥様が、そんな豆鉄砲に縮みあがると思ったのか?」
「いえ、もちろんそうは思っていませんが……そう気炎上上ならば、こうしましょう」
俺を向いて、零子は拳銃を差し出した。
「撃ってください」
「え、あの……」
じっと俺を見る。
「いいから」
仕方なく、俺は引きつった顔をした冥冥に向き直った。
「ああ、そうかお前がやるのか……いや、私も少しはさァ、そこな使用人ならきっと有る程度の場数も踏んでるし、なんだかんだ言って大丈夫かな? なんて思っちゃいたが――お前は駄目だろ! それともこりゃあれか? 新兵の度胸試しで捕虜虐殺、ってやつなのか?」
「無論違います」
零子の声音はどこまでも冷たい。
「こんなやつの弾丸、どこに飛んでくかもわからねェよ……」
本気でおびえ出した冥冥に、俺は複雑な気分になった。馬鹿にされているような気配である。
「貴重な捕虜ですゆえ、殺しはできません。ですが、『あなたの命が我々の手の内にある』ということを、これからはっきり自覚して頂きましょう」
つかつかと零子は歩み寄り、冥冥の傍らに立ち止まる。
「雀ヶ森さん、撃ってください。此処を、ようく、狙って」
人差し指で冥冥の額を小突く。
「あ、えっと……」
俺を撃つのと、俺が撃つのでは。
色色勝手が違う。
「いいから撃てッ!」
零子が大音声叫んだ。俺は心底驚いて、その勢いで引金を引く。
ぱん、と乾いた音。
「……」
すわ地獄絵、と思いきや。
銃声と同時に、零子が首飾を差し出していた。
冥冥の額、数粍手前で、ぐにゃと空間をゆがめて、弾丸を吸いこむ。
「『墜景』ッ……!」
かたかたと、冥冥の座る椅子が揺れた。
震えているのだ。
「その通りです。理解っていただけました? あの雀ヶ森が、すこおしでも指を揺らせば、この一寸もない首飾なんてらくらく外してしまいます――彼の集中力に賭けますか? 大事な命を、そんな大穴に突っ込んでいいのですか?」
「――はは、まさか素人の弾丸がこんなに怖ェとは。初めて知ったぜ……だが――」
「撃って」
撃発二音目。
大きな眼を開いて、冥冥は煙をあげて揺れる首飾を見つめた。
「次に余計なことを言ったなら、首飾はおあずけですよ」
にまー、と。
零子が笑った。
――前々から考えてはいたが、今、確信した。この人は嗜虐趣味がある。
しかし三発目には、冥冥は再度余裕の表情を取り戻した。
「へっへ、最初は心底まずかったけど……慣れりゃ、なんのこたァねェなあ。おい新人、ちょっと射撃の腕前、見直しちゃったゾ?」
「――ああ、ここで口を割ってくれればよかったものを。仕方がありませんね」
わざとらしくため息をついて、零子は肩をすくめた。
「雀ヶ森さん、あなたは隣の部屋で待機していてくださいな」
「りょ、了解です」
「なんだァ? もー止めか?」
冥冥を見下ろす零子の視線はやや熱い。
「やっぱり拷問って、一対一でやるものですよ――それに、まだ雀ヶ森さんには、私の貞淑な理想を失ってほしくはないですから」
抱えていた袋をごそごそとあさりながら言う。
「さあ、夜はまだまだ長いから……気長に行きましょう」