四、玉散る剣抜きつれて
開店前の「六連星」に、俺はノックもせずに滑り込む。マスターが一人でグラスを磨いているほかには、誰もいない。
「こんばんは、呂畑さん」
呂畑は黒眼鏡の奥からちらりとこちらを見る。
「おう、誰かと思ったら雀ヶ森君か――見違えたな」
「そうですか?」
くすくすと笑って、俺は熱い珈琲を注文した。
「最初の印象とは段違いだよ。もう見るからに風太郎って雰囲気だったからなあ。それが今じゃあどうだ、一等兵くらいの貫録はある」
褒められているのか馬鹿にされているのか。差し出された白磁の杯を傾けて、煙草に火を点ける。
(最初にこの店に入ってから……もう三カ月になるか)
やや感慨に耽った。
――教育期間の最終日、突然の青陵公司による襲撃を受けた俺と零子は、駆けつけた援軍の手によって辛くも勝利した。
と言っても俺自身は、「拳銃使い」を名乗る娘を倒してすぐに、昏倒してしまったので。
実際に何が起こって、あの「四凶」、檮杌が撤退して行ったのか――それを聞いたのは、翌朝遅い時間に目覚めてからだったが。
からん、と呼鈴が鳴る。扉を押して現れたのは、今日も使用人姿の零子である。
「いらっしゃい、というか君たち、少しは開店時間ってのを気にしたほうがいいんじゃないか? まだ大分時間があるってのに……」
「それは失礼しましたが、あまり関係はないでしょう?」
零子は奥へ進んで、カウンタアの端に座る。
「こんばんは、雀ヶ森さん」
軽い会釈をされた。
昏倒状態から復帰し、眼を開いて最初に見たものは、真っ白な漆喰の天井だった。そしてそれを覗き込む、心配そうな零子の顔。
「ああ、良かった。眼が覚めましたか」
「……あれ、敵は?」
「状況は十四時間も前に終わりました。勝ったのです」
「そりゃあ、よかった……」
俺は全身を襲う疲労感と、拳銃弾による痛みに震えながら声を出した。
「『四凶』の檮杌を追跡していた降幡さんが、あなたが気を失ってすぐに加勢に来てくれました。私も少々怪我をしましたが――軽傷で済みましたよ」
どうやらこの部屋は、洋館の一室ではないようだった。身体を起こせないので周囲を見回せないが、開け放たれた窓から室内に吹き込む風には、排気瓦斯の匂いがわずかに混ざっており、行き交う自動車の音も、遠く聞こえている。
「――ここは?」
「市内の秘密拠点です。教育は終了しましたので、もうあの洋館に戻る必要はありません」
やや走馬灯的な回想が頭をよぎった。なんと波乱の三週間であったことか。
「あの二人は、殺したんですか」
それがふと気になる。あの冥冥とかいう娘、まだかなり若いように見えた。
零子は慎重そうに答える。
「いえ、結局――取り逃がしました。檮杌は降幡さんが来た途端に及び腰、二人でかなりしつこく追跡したのですが、援護に来た仲間に合流されて。『拳銃使い』は、それにかまけている間に意識を取り戻したらしく、帰ってきたら消えていました――ああ、まったく」
苦々しげな表情だ。
「『青陵公司』の大物とその部下を、せっかく捕えるいい機会でしたのに……始末書を書かねばねりません」
俺は少し安堵した。
自分が手に掛けた娘が、たとい工作員だとしても――知らぬうちに殺されてしまっていたのでは、恐ろしく寝ざめが悪い。
「そう……ですか」
「そう落胆しなくとも、いつか始末する機会はあるでしょう」
なんだか誤解をされたようだ。
――そうしてしばらく療養していた俺は、完全に歩けるようになって初めて、正式に「昴機関」へと加盟された。「近衛軍第十五連隊所属、第七補給科小隊二等兵卒、雀ヶ森はじめ――識別名、『十万億土』」などという、重々しい肩書を与えられて、改めてこまごまとした説明を受ける。
そしていくつかの任務を経て。
こうしてある程度、機関長の呂畑と世間話をするくらいには――組織に慣れてきていた。
(見た目、そんなに変わったかな)
筋肉は確実についた。が、服の上からわかるほどではない。それよりも、外套の下に吊った銃嚢が気になる。そこから突き出した金属の冷たさが、それまでの俺自身との、決定的な差異に感じた。
煙草の灰が落ちた。ぼんやりしていたらしい。
「……で、なんなんです? 次の任務は」
そう、俺がここに足を運んでいる理由はひとつ。
新たな仕事が発生したのだ。
「うん。実はつい昨日、『青陵公司』の工作員を、棺野君が捕まえたんだ」
「へえ、それはすごい」
あれから「青陵公司」とは、二度ほど戦う機会があった。
だが、たとい戦闘に勝ったとしても、彼らも秘密組織の一員である。
尋問や洗脳を恐れて、大抵は自爆か、死に物狂いで逃げられるのだった。
「そいつが曲者でね。大暴れしてなかなか落ち着かない。今は御池通のアパアトに監禁しているが、特徴を鑑みると、どうやらこいつがあの夜に、君たちを襲撃した奴なんじゃないかということが分かったわけだ」
「えっ、まさか『四凶』の――」
「四凶」というものについて、俺は未だ多くを知らない。
だが、しばらく「青陵公司」とやり合っているうちに、彼らの組織体系もある程度把握はできるようになっている。下っ端の工作員、それを纏める部長(彼らは表面上、とある青島の貿易会社を名乗っている)、その上にいる局長、そしてそれらを統括して管理する――「四凶」。
四人それぞれが、戦闘の、狙撃の、戦略の、超能力の、超専門家として、組織に君臨している。
「まさかまさか、そんなものはまだ尻尾も掴めんよ。もう片割れの、『拳銃使い』のほうさ」
呂畑が笑った。
「宍喰君、雀ヶ森君。君たち二人には、この工作員の尋問を頼みたい」
零子が音を立てて紅茶を啜った。不満げだ。
「……どうして、我々が尋問を? 適役はもっと他に居ると思いますが」
たとえば栗林さんとか、と小さく言う。
「栗林大尉は大連に出張中だ。降幡君には任務があり、棺野中尉も別動中――今回のは事故のようなものでね。全く無関係な任務の中で捕まえてしまったから、人手が足らんのだよ」
「……了解しました」
零子は立ち上がり、通り過ぎざまに俺を撃った。
「いッ――なんですか! 急に! 洒落になってないですよ!」
「失礼。訓練の一環です……さあ、行きましょう。仕事は早いほうがいいですから」
嫌な仕事を押し付けられて、零子は不機嫌になっている。
八つ当たりで撃たれるのは最低だ。
「はいはい……」
「よろしくねー」
ぱたぱたと手を振って、呂畑は笑顔で見送る。
「……前から思っていたんですけど」
「なんですか」
地下からの階段を登りつつ言った。
「この機関、まともな人っているんですか?」
「――強いて言うなら、私だけでしょうか」
「うむむ……」
まあ、いいだろう。
ともかくはアパアトを目指さねばならない。
瓦斯燈の灯り始めた夕暮れの通りを、俺と零子は歩きだした。