一、かくて壇上に上がりしは
皇歴二千年八月八日、天気清朗。
俺は焦っていた。大切な大学入試の日に、よもや寝坊とは。そういうふざけた詰めの甘さは、幼年学校時代から治ることがない。
試験開始は午前九時。下宿の万年床で覚醒したのが八時三十分――身支度を二分で済ませれば、押小路の試験場まで直通の市電に飛び乗ることができる。下宿屋の共同洗面所で素早く顔を洗い、衣装箪笥からはなるたけ白い開襟のシャツを選び、色あせた群青の鳥打帽をあみだにかぶって、ひげも剃らずに駈け出した。
そういう日に限って、玄関先でばったり大家に出会ったりする。
「お早う雀ヶ森、なにをそんなに慌ててる?」
若くして旦那を亡くしつつ、形見代わりの安下宿屋を女手ひとつでさくさく切り盛り。さりとてその涼やかな眼元と、姐御肌な気風の良さをまるで失わない大家の月岡さんは、下宿生一同の心の癒しである。が、こうして焦りばかりが募る時、悠長に朝の御挨拶などしているわけにもゆかない。
「大学の試験に遅れそうなんですッ」
編み上げの長靴の靴ひもをぐりぐりと結びながら、俺は早口で答えた。
「ははあ、そりゃあ大変。ちなみにその大学はどこなのさ?」
ようやく長靴を履きこんで、いよいよ立ち上がった途端に気付く。受験の原票がない! というか鞄を部屋に忘れた!
「押小路! だから急いでるんですよッ」
「ほほう、そりゃあ……もう駄目じゃないか?」
押小路の帝大校舎はこの下宿から市電で二十分。距離こそたいしたことはないが、維新以来の複雑な旧市街路が入り混じるこの帝国京都では、常に激しい道路混雑がやまない。その電車を逃してしまえばもう後がないのである。
「まだ分かりませんッ」
履いたばかりの長靴を放り出して、ぎしぎしいう階段を駆け上がって部屋へ。幸いに鞄は枕元にわかりやすく置かれていた。昨晩眠る前に、絶対忘れるわけにはならぬと思った甲斐だった。しかしもうかなり、時間が逼迫している。
「――何分だ!?」
ポケットから取り出した時計を確認する。八時三十分、まだ大丈夫……と、そんなわけがない。
「大家さん! 何時ですか今ッ!」
大声で階下の大家に呼び掛けると、じつにのんびりした調子で「もう四十分だよー」と、悪魔的な宣告が帰ってくるのだった。
「間に合いそうにないのか?」
既に思考は止まっている。ともかく再度玄関に戻って、先ほど乱暴に脱いだせいでぐちゃぐちゃに絡みあった長靴の靴ひもを見て、俺はいよいよ脱力した。
「……はぁ、もう駄目だ……」
朝のざわめきのむこうに、市電が走りだす高い汽笛が聞こえる。終わった。すべてが終わった。なんのためにこの一年、ひたすら勉学を重ねて来たのか……春、夢に燃えて乗り込んできた花の帝都。少ない友人とも遊ぶ暇なくひたすらに、古典漢籍に洋書を重ねて重ねて臨んだ試験……。ふ、と田舎の両親の顔が浮かんで、俺は鼻の奥が熱くなるのを感じた。なにもかも、無駄になってしまった。
力なく立ち上がって、よろよろと歩きだす。たとい間に合わずとも、もしかしたらなんとか、試験が受けられるかもしれない――街路には活気にあふれた人々、誰もかれもが幸せそうに見える。畜生、どうしてこんなことに。
その時、耳をつんざく高音の響きが、唐突に背後から立った。何事かと、一瞬我を忘れて振り返る。
「こいつなら、まだ間に合うよ。九時からだろ? 試験」
それはごくごくたまに大家がいじっているのを見かけたことがある、大型の発動二輪車だった。黒々とした車体に銀のメッキがきらめき、甲高く鳴く排気管から、もくもくと白煙が立ち上っている。
――発動二輪車は、まだまだ金持ちの道楽でしか持てないような高嶺の花だ。どうして大家がそんなものを持っているのだろう? そもそも運転はできるのだろうか?
黒髪を一つに束ねながら、涼しげな流し目で大家は俺にゴーグルを投げた。
「さあさ、ぼさっとしてると本当に遅刻だよ!」
「あッ……ありがとうございますッ!」
慌てて飛び乗った座席は思ったよりも堅く、おまけにかなり小さい。
少しだけ不安になった。
「乗った? ――しッッかり、アタシの腰につかまってるんだよッ!」
「はいッ……っと、うわあッッ!」
スロットルを全力で捻る大家の腕、猛烈な勢いで竿立つ発動二輪の馬力が加わって、その瞬間に俺の視界のすべてはなにやら白っぽく、流れるように溶けていったのだった。
神に祈る暇さえなかった。
――それが去年の話だ。
俺は遅刻をすることもなく。なぜだか五分で到着した大学正門の前で、笑顔で手を振る大家を見送ったが、その常識範疇外の速度に異常な加速度、道路の穴を飛び越えるたびに内臓が回転する感覚を忘れることはできなかった。放心状態のまま受けた試験は、問題を読み解くことすら不可能であり、ようやく落ち着きを取り戻した午後には、既に試験の半分は終了していたのである。
そうして俺は、丸一年が過ぎた今でも、浪人生ばかりがたむろすこの安下宿から、出られないまま日々を過ごしているのだった。
「……上手く行かないな」
日に焼けた畳の上に寝そべって、開け放たれた窓の外を流れる雲を、ぼんやりと見送る。どこかで冷やし飴売りが、錫の喇叭を吹いていた。陸軍の撃つ午砲の響きが、遠雷のように耳に届く。
あれから勉学に改めて打ち込もうと思っても、どうしてか全く手に付かない。好きだった漢籍は見るのも嫌になり、日がな煙草をふかしては、下宿屋横のカフェーの珈琲をかき回すばかりである。
二度目の試験日は明日に迫っていたが、こんな体たらくで合格する道理などありはしない。端から受験する気構えさえ、とうにどこかへ失せていた。
「畜生この雀ヶ森、ぐだぐだだぜ……」
コンコンコンと、軽いノックの音がした。この四畳半に鍵はない。どうぞと一声かけたところで、するりと合板の扉を抜けて来たのは他ならぬ大家である。
「……なんか用事でしょうか」
「君、一年も浪人するとやはり荒むようだな」
あくまで他人事と、大家は笑った。
「去年の仔犬のような真面目さからは程遠い、非道い種類の人間になった」
起きあがり枕元の煙草をとって、マッチを擦りながら俺は答える。
「その責任の一端は、恐らく大家さんにもあるでしょうね。どだいあの時、あんなに急ぐ必要なんてなかった」
「あたしは君があまりに慌ててるから、相応の送り方をしただけだ。それより今年はいいのか? 受験は」
「もうどうでもいいですね。そろそろ素直に荷物をまとめて、田舎に帰ろうかと思ってるくらいですよ」
「ほほう……なるほどなるほど」
大家はなにやら不可思議な表情を浮かべて、巨大な向日葵の描かれた銘仙の絣の袖から煙草を出した。
「――ならば雀ヶ森、いい話があるんだがね」
そう言って口元に紙巻きをくわえる大家の顔は、どこまでもどこまでも胡散臭い。
「なんでしょう、俺とてまるぎり暇ってわけでもないのですけれど」
「まあ聞きなさいな。君、年はいくつだっけ?」
いまさらなんだというのだろう。
「数えで十九ですが」
「酒は飲むか? 女は居るか? 彩色の夢は見るか? 身内に軍属は? 神社にはよく行くか? 海は好きか? 空に鳥と飛行機以外に何か飛んでいるものを見たことは?」
矢継ぎ早の質問に、答える暇がない。
「な、なんなんですか突然」
「うん、まあどうでもいいことさ――とりあえずこれを」
大家は懐から、懐紙に包まれた葉書のようなものを取り出した。
「これを持って、今夜の零時に木屋町通りのカフェー『六連星』に行ってみな」
手渡されたものはやはり葉書で、しかし紙に包まれているために、内容はさっぱりわからない。
意味不明といった表情の俺に、大家は立ち上がりながら、「もしかするとそれが、人生を変えるかもしれないよ」と、まるで人を騙す狐のように、怪しげに言うのだった。