黒髪男子の恋愛理論
「好きです! よければ、お付き合いしてください!」
あぁ、と。
またか、と。
目前では、差して大切でもない人が、女性が、自らの頬を紅潮させつつそんなことを口外した。…面倒臭い、億劫だ。返事なんてしなくても良いならしたくない。
確か、この女性と出会ったのは今年の始め、記憶が正しければ2月の中頃だ。そして、現在は8月の初頭。まぁ、期間的には悪くはない。しかし、だ。俺は、この目前の彼女とはそこまで話したこともない。単に、挨拶を交える程度だ。なのに、何故。
何故、目前の彼女は、”告白”ということを行使したのか。一切合切わからない。というか、どれだけ稚拙な頭脳回路を持ち合わせているのだろう。
答えは、たった一つではないか。
「すまない、俺は今恋人が欲しい訳でもないし、というか仮に恋人が欲しかったとしても、そんな仮定を付けたとしても、君とはその様な関係にはなれない。本当に、すまない」
少し、わざとらしくそう口外した。彼女は一瞬、本当に一瞬、双眸を見開きそしてふっと微笑した。酷く、辛そうに、悲しげに、哀しげに。
「、そう、ですか…。すみません、いきな、り」
「いや、構わない。それよりも、今から用事があるのだが、もういいか?」
「は、はい! その、すみません呼び止めて」
「いい。じゃあ、また」
しまった。本当にしまった。この場合、”また”という言葉は口から零してはいけなかった。これでは、二度目があると勘違いされてしまう。誤認されてしまう。しかし、言い換えるなんて今更利かない、利くはずもない。困った。
まぁ、でも。これから彼女と会わなければいい。そうだ、彼女は俺の連絡先も、住所も知らない。それならば、会わない限りは何も出来ない。そうしよう、これから彼女とは会わない。
「…はぁ」
疲れた、酷く疲労困憊である。何故、どうとも思っていない女性に対してここまで気を、体力を使わなければならなかったのか。それを思うと、思案するとどうしても溜め息を吐いてしまった。こんなことなら、今日は外出せずにクーラーの効いた部屋でくつろぎつつ読書でもしていればよかった、と後悔先にたたず。今日も、実体験をしたおかげできちんと言葉を覚えることが出来た。それは、良かった。
ふと、携帯を見る、見据える。着信が一件、それはこの憂鬱で億劫で面倒な心情、及びに現状を回復させるものであった。自然と引きつっていた頬が綻ぶ。
『”おはようございます、京介さん。今日もいい天気ですね。私は今から図書館に行きたいと──”』
「…文章で、ここまでなるものなのか…?」
メールの、たった数文、数行。それに心打たれ、そして高揚し、焦燥感を募らせる。理解不能な感情回路の混雑はあまりにも大きい。文章一つでここまでなる俺は、酷く彼女に夢中なのだろう。
彼女は、先程の女性とは違い頭脳明晰できちんとした言動をすることができる。そして、やはり周囲とは逸脱して美しい。容姿も、言動も、という意味だ。そんな彼女を思うと、どうも胸が詰まる。
あぁ、これが、これがまさしく恋なのだろう。恋愛というものなのだろう。溢れる程の愛情と、焦燥感。そして、高揚感。彼女の言葉に一喜一憂し、まるで日常に色が落ちたかのように眩い。楽しくて、愉しくて、でも悲しくて。矛盾する2つの、いやそれ以上の感情はせめぎ合う。それすらも嬉しくて、嬉々として日常を謳歌する。さっきまでの憂鬱な日常とは、反吐が出るような日常からは考えられない。それ程にまで、楽しい。楽しすぎる。
「”おはよう、本当に今日もいい天気だ。俺も、君と同じく図書館にでも行こうと思っている。もしかしたら──”」
いや、会えることはない。彼女には会えない、会えるはずもない。今日は、駄目な日だ。
途中まで打ち終えたところで、ふと今日のことを思い出す。何時もと変わらずに無難な服装、眼鏡、黒髪。そこはまぁ、いいとしよう。
問題は、先程の女性の件だ。彼女は、少し香水の匂いを蔓延らせていた。それが移っていたら、図書館にて会うことになるであろう愛しき彼女に不快感を与えることとなる。それは、それだけは回避せねば、忌避せねばならない。
自らの匂いはわからない。生憎、嗅がせることができる者も周囲にはいない。今、俺はどんな匂いを纏っているのか全くわからない。あぁ、どうしよう。彼女に会いたい、しかし嫌悪感を抱かれたり勘違いされてしまうのは嫌だ、拒否する。本当にどうすればいいのかわからない。困惑する、酷く困惑する。俺の理論が脆く崩れる。
「”おはよう。今日は本当にいい天気だ。俺は、書店へと出掛けている。好きな作者の新刊が──”」
今日は、諦めることにした。そうするしかないだろう、これが一番の得策なのだから。今日は、文章のみで彼女のことに思いを募らせよう。それが一番いい。
送信ボタンを軽快に押し、携帯をポケットへと投下する。そして、そのまま有言実行、書店へと足を運ぶ。あぁ、新刊とかあっただろうか。そんなことを思案しつつ、夏の日差しに身体を晒す。暑い、眩しい。
じわりとかいた汗はどうも気持ち悪く、早めに書店へと行こうと足が急ぐ。行き交う人々は今日も忙しない。何が楽しくてそんなに急ぐ必要がある、たかが生活を潤すための金銭稼ぎ、仕事だろう。
そんなことに没頭するよりも、本当に楽しいことがあるじゃないか。恋愛、そう恋というものがあるじゃないか。花のない人生を彩るものが、そう目前にとまでは言わないけれどもある。
そんな皮肉ったことを思案しつつ、ふと空を見上げる。横断歩道の信号待ち、そんな時だ。
夏空は、どうも愛しき彼女に似ている。澄んでいて、それで危うい、そしてどこか儚い。あぁ、俺は空にでも恋をしているのだろうか、なんて自惚れてみるのは痛いからよそう。どんだけませた恋愛理論を保持しているのだろうか、俺は。だけども、そんな恋愛理論も彼女という実物にはどうも利かない、いや僅かには利いているのか。…まぁ、単に俺が、俺自身が臆病で、彼女というものに対して神経質で、慎重過ぎて、奥手なだけかもしれないが。
そんな俺も彼女に恋をして、はや2年ちょっと。未だに話すことすらままならない。そんな俺が何時、告白という勇気ある行為に身を投じることができるのか、全くもって推測できない。しかし、そろそろこんな思考も止めにしなければ進展なんて起こることもないだろう。もだもだし過ぎて他の男に先を越されてしまうのが落ちだ。
さて。今日は実行することが出来なかったが。何時か、何時かは。
そんな未来像に憧れ、期待を抱きつつ、今日も彼女のことを思う。まぁ、笑ってしまうだろうなこんな俺ならば。そんな風に少し自嘲するのも日常だ。
さぁ、今日も嬉々と片思いをしようではないか。それが、それこそが楽しい日常、人生なのだから。