『レインボウ』
大きなガラスの外に煙に燻される虹が見えた。虹を見たのはもう10年ぶりぐらい。光が分解されて3色の色が出来て、さらに分解されると7色になる。
都心に暮らし始めてから、ここ何年も見た記憶がなかった。
海の近くに住んでいた私は時たま浜辺に虹がかかると浜に駆けて行っていた。大体それが夏になる合図みたいなものだった。
初恋もまだだった私にとって、虹の光の現れかたなど興味の対象ではなかった。むしろ私が疑問に思っていたことは、なぜ虹に白や黒がないのかという事だった。
一番最後に虹を見たのは、小学校の中学年だったと思う。母がテラスにいて私は居間でシャーベットを食べていた。庭の木々にホースで水を撒くとシャワーの先に虹が見えた。
母にとっては唐突だっただろう。テラスから戻ってきた時、私は以前から気になっていた事を口にした。
何気なしに母は答えた。
「白も黒も嫌われ者だからよ」と。
今となって考えれば、あの頃母の買う服はまず間違いなくカラフルだった。
アナウンスが聞こえ私は窓から振り返る。清潔な大理石の床、どこまでも静かでわずかな匂いも感じない。
待合席からぞろぞろと親戚たちが通り過ぎる。
ひりひりと時間を紡ぐタテ時計はもはや虹を見る事をあきらめさせた。
「もういかなあかんよ」
鏡子が私に声を掛けた。
「わかってる」
私は彼女の顔を見ずに歩きだした。待機していたお客さんたちも言葉少なげに歩いていく。
私の横を歩く彼女。細い指、小さな手が揺れるのを見ると、時計の分銅が頭の中で揺れる。
白い壁を進み、階段を下りれば足音が遠くから響いてくる。
「なあ、どうするか決めたか」
「なにを?」
「1ヶ月後の話だよ。この間話をした」
「知らんよ。そんなん……。今そんな話いらんし」
彼女は怖い息を吐く。平行線だ。
ただでさえ、忙しいのすれ違いでたゆっていた二人の関係だったけれど、会社からの異動の辞令が届いてから、結論を出さなければならなかった。
遠距離でこのまま付き合う事を続けるより、全て終わりにさせるべきなのだろうか?
建物の階段を下りるとガラス張りの玄関に続き、別棟への廊下へと続いていた。
大理石から堅い白地の床になり、モルタルと白い塗装を混ぜたような建物へと移っていく。
待合室の建物を出ると茶色いティッシュボックスの様な建物が煙をたちあげていた。
この道を歩くのは二度目だった。
一度目はもう12年前のはずだ。
母と祖母が一緒の場所に暮らしていたのだから、最期も同じ場所で行われ同じお墓に入る。
デジャブの様な感覚を受けながら、あの時私は何を思ったかと考えてみても、夢を思い出す様にふわふわとした物だけが浮かんでくる。
長い廊下が終わり、横開きの扉が開いていて中は外より少し明るいくらいだ。
そう、この先には銀色の大きな扉があって自動開閉で中に入り、そしてお骨が運びこまれる。
あの日はじっと子供なりにも何かを察して、じっと床ばかり見ていた。
あの日と今日の相違点。私は空を見上げる。ただ一つの違い。それは葬儀とは無縁に近い光の橋が輝いている事だった。
母と暮らした日がふと僕にカラフルな情景を作り消えて行った。
「たとえ病気であっても私は君をうちの母親に合わせるべきだったし、さっきの件は私が軽率だった」
そういって私は彼女の手を握った。
「そうかもね」
そうすると彼女も僕の手を握り返した。
「昔私がよく行っていた浜辺に今度つれて行きたいんだけどどう?」
「ほんと軽率ね」
彼女が少し笑ったような気がしたから、私は彼女の顔を見た。
そして彼女も私の顔を見ていた。
「泣いてるじゃん」
そう彼女は笑った。
母がカラフルが好きな理由が分かった気がした。
虹に白と黒が無い事について考えるのは、自分がまたここに戻ってくる、ずっと後に残しておく事にした。