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ワガ ツマ ノ ナハ セイ デアル

作者: 御廚年成

昭和20年初夏

 気がつくと俺は一人友軍から離れ、グルカ兵に囲まれたいた。

最早此れまで。冥土の道連れを作る気で軍刀を抜いた。


グルカ兵にも剣術がある様で、二の太刀が驚くほど早い。

その上、円陣稽古の様に四方八方から斬りかかって来る。


皿の様な英軍の鉄兜、支那兵相手の様に空竹割は通じない。

左右の袈裟懸け、掃い。不用意に突くと弾倉を付けた布の帯革に阻まれる。


一人目は、左斬撃で切り倒した。二人目と切結ぼうかという時、背後から斬られた。

立っている事が出来ない。覚悟は出来ている。

殺るなら殺れ。




 次ぎに見たのは、絵具のチューブの様な物を持った英兵だった。チューブの先に注射針の様なものが見えた。


毒か?やるならやれ!見事に死んでやる!




 その次に気が付いたときは、友軍に囲まれていた。“少尉殿、大丈夫でありますか。”

俺は生きているのに気が付いた。





やがて俺は、軍衣袴(ズボン)物入(ボケット)の底が破れ将校脚絆(ゲートル)の上に何かがあるのに気が付いた。


突撃一番(コンドーム)に包んだ和綴じの小さな帳面


出征の日の朝、静が千人針と一緒に渡してくれた帳面。

お守り代わりに肌身離さず持っていたが、一度として中を開いた事はなかった。


渡された時には油紙で包まれていたが、戦塵に破れ、突撃一番で包んで持っていた。


その帳面を開く。

その中には、几帳面な文字が並んでいた。



最初のページには、


和 我ガ名ハ牧野橋一デアル

仏 Mon nom est Kyouichi Makino. ムヌゥェス キョイツイ ムァキヌォ

英 My name is Kyouichi Makino. ムァイ ヌェイム ヱズ キョウイッツイ ムァキノゥ


仏語と英語と日本語が、小さな整った字でみっしりと書かれている。


軍事用語が記されてゆく。


伍長

 仏 caporal カポラル

 英 corporal コプラル


軍曹

 仏 sergent セルヂャン

 英 sergeant サァヂャン




その帳面をめくっていくと、最後に四隅を糊付けされたページを見つけた。

丹念に開き、書かれていた文字を見た。



仏 Le nom de ma femme est Sei. ルヌン デ フェムシト セイ

英 My wife's name is Sei.   マイ ゥアイフス ヌェイム ヱズ セイ

和 我ガ妻ノ名ハ静デアル     ワガ ツマノ ナハ セイ デアル



その時、指先が、腕が、胸が、鼻が、体中が思い出した。あの日を、あの夜を、あの時を、生きて帰りたい。もう一度妻の、静の元へ。


出征の前、静が夜なべ仕事をしているのは知っていた。


高では、才媛としての名が合ったことは知っている。


しかし…。



何だこれは、涙か?涙が止まらない。男は泣くものじゃない。

俺は、将校なんだ。部下の前で泣けるか!


何故だ、何度も死を覚悟したこの俺が。

戦友の死にも泣かなかった、敬愛する上官の死にも。

畜生!畜生!畜生!


英兵とも撃ち合った、グルカ兵とも斬り合った。

奴等を何人も斃したこの俺が。


畜生!畜生!畜生!


静、静、静…。



その時、指先が何かに気付いた。最後のページの前にある何かに。


堅く糊付けされたその紙をやっとの思いで開くと、中には薄い薬包紙に包まれた何かがあった。


千人針の糸の切れ端か?

いや、違う。



そっと薬包紙を開く。

幾本かの黒い糸の様な何かがあった。


静の髪か?

違う。静の髪は絹糸のように細く、豊かに、滑らかで、腰に届く程に長く…。


それは、静の髪のように細くない、少し縮れている。


俺は、気が付いた。静の下の髪だ。


何故こんな事を…。


そう言えば、静の祖父は警視廰抜刀隊として薩摩の戦に出たと訊く。

何処かで漏れ聞いたのだろう。弾除けのまじないを。


俺は、生きて帰る、静の元へ生きて帰る。

そう誓った。




それからの事は思い出したくもない。


“屈辱”


でも、俺は静の元に帰る。




昭和21年冬

 抑留を解かれた俺は、復員した。

汽車に乗り、荒れ果てた山河を見て、静も無事ではあるまいと覚悟を決め、武衆駅に降り立った。


 街の北半分は、銀杏並木のおかげで焼け残ったとのことだったが、俺の家は南にある。


 砂を噛む様な虚無感で、俺は家のあったはずの場所に向かった。親父の“松竹梅の3分の2は俺の家にある、博打なら大勝ちだ”と言う松と梅の木が見え、その下にみすぼらしい掘立小屋があった。


 その掘立小屋の表札には、牧野とあった。


俺はその家の、いや、その小屋の戸を叩いた。


はたして、そこに静がいた。




恥も外聞もかなぐり捨てた。




俺は静を抱き、唇を重ねた。

唇から、指先から静のぬくもりが、鼻から静の髪の香りが伝わる、重なった胸から静の鼓動が伝わる。




俺は、生きて帰ってきた。






昭和23年春


 春枝が養女として我家に来た。12歳。食糧事情もまだまだの時期、伯父の家も口減らしの意味もあったろうが、養子を取ると子が来るとも言われた。

まあ此れで牧野の家も途絶えずに済む、そんな打算の中の養女でもあったが、静とも上手くやれているようだ。





 相変わらず子宝には恵まれないが、日々はたおやかに過ぎてゆく。

世は“すでに戦後ではない”と謳っていた。





昭和32年初夏

 元オートレーサーの憲太郎を婿養子とした。

春枝とは恋仲とまでは言わぬが、前から憎からず思ってたのは知っている。


“夫婦相和し”とは教育勅語だが、間違ってはいないと確信する。




昭和33年秋

 長男、信一に恵まれた。3200グラムと大きな子だ。堂々とした我家の跡取り。親類中からの祝いが殺到した。




昭和35年春

 次男、圭一が生まれた。2人目の男の子

跡取りには困らない。後は、一姫二太郎と言うように女の子の欲しいところだが、こればっかりは天の采配。




昭和40年

“牧野自動車整備工場”を“ガレージ・マキノ”と改称する。世のモータリゼイションを先取りしたつもりだ。




昭和48年春

 憲太郎に後を任せて楽隠居でもと考え始めていた矢先、気丈だった妻が頭痛を訴えた。

常備薬を服んでも効かない。


罹り付けの医者へ行き、診察を受けた。“牧野さん、これを持って大きな病院へ行きなさい。一刻を争う。”紹介状を渡され、この町で一番大きなこの病院へ来た。


“一日千秋”と言う言葉は知っている。しかし“一刻千秋”の思いがする。


待合室で待っていると、静が“ふぅ”と言って静かになった。薬が効いてきたのかと思ったが、鼾をかき始めた。


今まで一度として静の鼾なんて聞いたことがない。俺は、静を起こそうと名を呼び続けた。


看護婦が、担架を持ってきた。何故だ、そんなに悪いのか、俺は待合室に呆然としている以外の術がなかった。


しばらくして看護婦が俺を呼びに来た。

医者が“牧野さん、奥さんの頭の中に血の塊があってそれが悪さをしている”“今から強い薬を使う、目が醒めれば一安心だが、もし目が醒めないときは覚悟して欲しい”“知らせる人がいれば、今のうちに”と…。


 俺は何処にも連絡しなかった。“静は目覚める”信じていた。


俺が仏領印度支那で戦っている時、静がどんな思いでいたかを思い知った。いや、思い知らされた。銃後の思いの何たるかを…。




 2日後、静は静かに息を引き取った。

声を荒げる事もない、静かにたおやかなる妻が召された。


病室で妻の手を握り続けた。ぬくもりが消えてゆく。


やがて病室から霊安所へ

そして木箱に寝かされた妻がいた。


白無垢ではない白い装束。

あの時代、着せてやれなかった。


葬儀が始まった。

読経の中、俺は奇跡を信じ続けた。

まだ、目を覚ますかも知れないと。


火葬場へと静は連れてゆかれ、荼毘に付される。

箸から箸へ静が運ばれる。

骨壷に収められる。


手で触れられないほど熱かった骨壷は冷えてゆく。

あの時は神仏に奇跡を願ったが、もう戻らない。


また、静が冷たくなってゆく。

未練と笑われるかもしれない。


しかし、俺はまだ静と暮らしたかった。

出来れば、俺の死水は静にとってほしかった。



菩提寺に行き、読経のもと納骨が始まった。


戒名がしめされる。


“慈恵院静恩日徳大姉”


違う!

断じて違う!



ワガ ツマノ ナハ セイ デアル




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