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本日のお題 16 (「宝物」 泣きたくなる作品 その2)

こひらわかさんの本日のお題は「宝物」、泣きたくなる作品を創作しましょう。補助要素は「お気に入りの場所」です。 #njdai http://shindanmaker.com/75905


 そもそも、セミヌードを描いて欲しいと言ったのは私からだった。

 仕事と人間関係が上手くいっていなくてむしゃくしゃしていたから、セミヌードモデルにでもなってストレスを発散したいというそんな私の要求を、当時美大の学生であった塚原は快く聞いてくれたのだ。

 彼に決めたきっかけはそう難しいことではなかった。

 たまたま私の最寄り駅が、美大生が多く住む町であったことと、駅前の喫茶店で眼鏡に適う男を物色していたときに、途方に暮れた表情の彼が、かれこれ二時間も駅前で佇んでいたということからだった。

 黒縁のスクエアフレームの眼鏡に、無造作な黒髪、黒いタートルネックに、デニムに革靴という、なんの変哲もない、良く言えばシンプル、悪く言えば地味な服装の彼に目を止めたのは、私好みの大きく、色気のある手を持っていたのと、内向的な、それでいて内に情念を秘めた瞳を持っていたからだった。

 誰を待っているのだろうか。

 友人? それとも彼女?

 春の気配が色濃くなっているとはいえ、日が落ちてくると未だに寒い。

 薄いタートルネック一枚では寒かろう。

 案の定、塚原は自身の体を両手でかき抱き、一度ぶるりと体を震わせると、その大きな両手を顔の前に持ってきて、はあっ、と息を吹きかけた。

 それを見た私は待っていられなくなり、やや急いで会計を済ますと喫茶店を後にした。


 私は彼の前まで来ると、ためらいなく声をかけた。

「君、ここで何してるの?」

「え?」

 きょとんとした表情の塚原は、最初、私のことを補導員だと思ったらしい。

 さもあらん、そのときの私の服装は、地味なグレーのスーツにひっつめの髪、七三分けの前髪は、いかにも彼にきつい印象を与えたことだろう。

 塚原は大柄であるにもかかわらず、自身のバッグをぎゅっと抱き締めて、二・三歩後ずさりをした。

 彼の斜め掛けの革製のバッグには、画材や勉強道具が入っているのだろう。

 がしゃ、と音が鳴る。

「ああ、私怪しい者じゃないから。それにあなたが私のことを補導員だと思っているのならば、それも違うわ」

 彼は目に見えてほっとしたような表情をした。

「ところであなた、さっきからここで誰を待っているの?」

 普通ならば、そんな不躾な質問をする、若くない見た目の女なんて無視してもいいはずなのに、塚原はその質問に対し律儀に答えた。

「いや、人を、待っているんじゃなくて、絵のために人を、観察していたんです」

 寒さからだろうか、途切れ途切れに喋る彼は、ふと、私をまじまじと見つめた。

「あなたは、誰、ですか?」

 そこで私は彼を手っ取り早く暖かいところに連れて行くことにした。

「私は、あなたにある依頼を持ちかけにきたの。あなた、○×美大の学生でしょ?」

「はい」

「ある絵を描いて欲しいのだけれど。報酬は一回につき八千円。悪くないでしょう?」

「はい……」

「仕事の話だから、ここじゃなんでしょう? 静かに話せるところへ行きましょう」

「はい」

 こくりと頷くと、塚原は先立って歩く私の後について歩き始めた。

 今思えば、見ず知らずの人間に、こんなにあっさりとついてくる塚原は成人男性として大丈夫なのか、と思ったが、後でこのときの事を彼に聞いたら、彼は私のことを「綺麗だ」と、思ったから素直についてきたのだそうだ。

 私は全く美人と言う自覚もないし、客観的に見ても中の下ぐらいであろうと思うのだが、美人にならホイホイ付いていくのか、と、塚原の返事を聞いたそのときの私はあきれたものだった。

 そう口に出した私のことを、塚原は「佳澄かすみさんは特別なんです」と言って笑ったのをおぼろげに覚えている。


 電車に揺られること30分。

 私はわざと繁華街に足を向けた。

 これから行う無謀なことは、出来るだけ夜の雑踏に紛れ込ませて、一夜の夢としたほうがいい、という思いがあったからである。

 居酒屋で口数の少ない彼と大して美味しくもない夕飯を食べ、軽く打ち合わせをした後、私はその足でラブホテルに向かった。

 初めて入るその安っぽいホテルは、これから私が塚原にしてもらうことはその程度の馬鹿らしいことなのだよと言っているかのようだった。


「じゃあ、さっき言った通り、私の上半身だけを描いて頂戴」

 ベッドに腰掛け、私は心許こころもとない気持ちで上着を脱ぎ始めた。

 本当は下着の跡を消すために、時間を置いてから始めるほうがいいのだが、性急に事を進めたかった私はそのようなことは気にせずにブラジャーのホックを外した。

 塚原は美大の二年生だった。

 年齢は21歳との事なので、一年浪人していることになる。

「裸婦画なら予備校で腐るほど描いていたのでしょう? 美術の勉強だと思って描いてくれればいいから」

「はい」

 彼はそう言うと、バッグの中から鉛筆とクロッキー帳、練り消しゴムを取り出して、どの位置から書くか決めようと近寄ってきた。

 私はとっさに両手を前に突き出す。

「待って! 正面から描くって約束じゃなかったの?」

 しかし塚原は突然何かに憑かれたかのような鋭い目つきをすると、その色気のある大きな手を差し出して私の手を握った。

「佳澄さんの体を、僕に見せてください。裸婦のデッサンは最初に描きたい位置取りをしてから描くんです」

 ぐるりと私を一通り見回した彼は、今度は背面から至近距離で私の胸を覗き込んだ。

「ねえ信也君、デッサンって、一定の距離から描くものでしょう? そんなに近寄るの?」

「佳澄さんは契約のとき、『自分の胸を一番綺麗に見える角度から描いて欲しい』と言いました。美大生の端くれとして、その要求には忠実に応えたいんです」

 そう言いながら、彼はおもむろに背後から私の胸をたぷんと持ち上げた。

「なっ!? 何をするの!?」

「違うな……」

 そう呟くと、塚原は立ち上がり、バスルームへと足を向ける。

 程なくして勢いよくお湯の出る音を聞きながら、これから彼は一体何をするのだろうと私はおののいた。

 戻ってきた彼は、私に先ほど脱いだ服を差し出した。

「佳澄さん、服を着ていてください。15分もすればお湯がたまりますから」

「どういうこと?」

「佳澄さんの胸の形は綺麗です。ですが、それが浮いている方がもっとよくわかります。お湯がたまったら二人で風呂に入りましょう」

「え?」

 私はぽかんとした。

 自分からホテルに誘っておいて言うのもなんだが、こんな展開になるとは思ってもいなかったのである。


 ぼうっと携帯を弄りながら、待つ15分は長い様であっという間だった。

 お湯がたまったのを確認すると、塚原は無造作に服を脱ぎ始めた。

 その黒いタートルネックの下には美しい腹筋が隠れていた。

「信也君、あなた、鍛えているの? なぜ?」

「僕は自分の体をモデルにすることもありますから」

 だが、その表情にはナルシシスティックなところは欠片かけらも見受けられない。

 そうして一糸まとわぬ姿になった塚原は私をいざなった。

「佳澄さんも、脱いでください」

「え、ええ」

 私は服を脱ぎ、そうしてぎこちなく風呂場へと足を運んだ。

 彼はためらいもなく風呂に浸かると、そこから手を伸ばした。

「佳澄さん、僕の前へ」

「あ、はい……」

 いつの間にか主導権が私から塚原へ移っている、そう思ったが、私は素直に従うことにした。

 そろそろと、湯に浸かる。

 背中を塚原の広い胸板に恐る恐る預けると、彼が私の体をふわりと抱き締めてきた。

 彼は私の右の首筋に顎を置き、そこから熱心に湯に浮かぶ私の胸を観察している。

「こんなに密着しなければいけないの?」

 ぽそりと呟いたが、彼の耳には入っていないようだ。

 温かい湯のおかげで、私の体は段々と火照ってきた。

 乳輪は大きくなり、胸の頂は桜色に色づき、その存在を主張している。

 どくどくと、自分のものではないかのように心臓が早鐘を打つ。

 恥ずかしいのか、のぼせているのか、自分でもよくわからなくなったところで、塚原が耳元でこう言った。

「ありがとうございました。これで納得のいくものが描けます。本当はこのまま描き始めたいのですけれど、物理的に無理なので風呂から上がりますね」

 そう言うと、彼は私を拘束していた腕を解くと、先に風呂から上がってしまった。

 私もぼんやりとしながらバスルームを後にして、体にタオルを巻き付けるとベッドに戻る。

 そこには、下半身にタオルを巻き付けただけの格好で、塚原が一心不乱にクロッキー帳に絵を起こしていた。

 私はその姿を横目で見ながら着替えを済ませると、彼が描き終わるまでベッドに腰掛けて待っていたのである。


 大体二時間ほど経った頃だろうか。

 塚原はぱたりと手を止めると、自身の描いた絵をまじまじと見つめた。

「出来ました」

 そう言って、彼は私にクロッキー帳から描き上げた絵をびりびりと破り取ると私に渡した。

 その出来上がった絵を見て、私は驚愕した。

「これ、私の胸なの?」

 それはまるでモノクロの写真で撮ったかのように、精密に、しかしはっきりと鉛筆一本で描いたとわかるタッチで私の胸が描写されていた。

 モノクロであるにもかかわらず、私の胸の頂はまるで桜の花のように淡く色づく様子が見て取れる。

 水の質感も、まるでそこに触れられる水があるかのようである。

「これが信也君の目から見た私の胸なのね」

「あの、気に入りませんでしたか?」

 塚原は私と目が合うと、先ほどまでの情念はどこへやら、我に返ったかのようにおずおずと私に聞いてきた。

 私は思わず笑みを浮かべると、彼を見た。

「ありがとう、とてもいい作品だわ。これで満足です」

 それを聞いた彼は、ほーっと長いため息をつくと、くしゅんとくしゃみをした。

「ごめんなさい、もしかして風邪引いた? でも、何か掛けようにも信也君、集中していたから」

「あ、僕、描き始めると周りが見えなくなるんです。だから大丈夫……くしゅっ」

 私はバッグからいつも持ち歩いている風邪薬を取り出すと、まだ空けていなかった330mlのミネラルウォーター入りのペットボトルとともに彼に渡した。

「これ飲んで早く良くなってね。私のせいで風邪を引かれては寝覚めが悪いから」

 そう言って彼の近くに八千円とホテル代を置くと、私は先にホテルを出ることにした。

 その私の後姿に、塚原がやや性急に声をかけた。

「あのっ! 佳澄さん!」

「はい?」

「また、会えますか? 僕、またあの場所で待っています。待っていますから!」

「さあ、どうかしらね。私はこれで満足したから」

 そう言うと、私はホテルを先に出たのであった。

 これが、私と塚原との奇妙な出会いであった。





 次の日、仕事帰りに、私は駅前に立つ塚原を目撃することとなる。

 彼は以前のような途方に暮れたような顔ではなく、誰かを、何かを、じっと待ち続けているような顔をしている。

 うぬぼれではなく、彼は私を待っているのだとそう思った。


 最初の二日間は彼が立っているのを確認したあと、わざわざ反対方向の出口から遠回りをして帰った。

 彼に会わないようにと、どうせすぐにいなくなるだろうと。

 三日目、彼に見つかった。

 反対方向の出口から出ようとした私の背後から、人目もはばからず、塚原は大声で私に呼びかけたのだ。

「佳澄さん!」

 ぎくりとしたが、足は止めずにつかつかと反対方向に歩いていく。

 彼は改札を通ると、犬のように私の方へと駆けてきた。

「佳澄さん!」

 塚原は私の腕を取ると、人目もはばからず私を抱き締めた。

「ちょっと!」

「会いたかった、佳澄さん」

「信也君、離して!」

 羞恥で頬が染まる私に構わず、彼はより一層腕の力を強くした。

 ぎゅうぎゅうと、公衆の面前で、彼は私を抱き締める。

「僕、大学が終わるとまっすぐにあの場所に行きました。それから終電ぎりぎりまで、ずっと佳澄さんを待っていました。次の日だって、朝、あなたに会えるかも知れないと思って、始発から授業に間に合うぎりぎりまで粘って、あの場所に立っていました。その日も終電ぎりぎりまで待っていました。何で僕を避けるんですか?」

「ここじゃ目立つから! お願い信也君、お願いだから離して」

 そう訴える私の声が聞こえないとでも言うように、彼は私を抱いたままだ。

「嘘です、佳澄さんはきっと、さっきみたいに僕の前から逃げるんです。やっと手にしたあなたを放しません」

「離してくれないと、大声を出すわよ?」

 精一杯どすの聞いた声で威嚇すると、無言になった彼はようやく私を腕の中から開放した。

 やれやれ、とんでもないものを引っ掛けちゃったわ、と思いながら彼の顔を見ると。

 塚原は傷付いたような顔をして、今にも泣き出しそうだった。

「佳澄さん……佳澄さん」

 大柄な彼がそんな表情をするものだから、周囲は何事かと思っている。

 私ははっとすると反対方向の出口から半ば引きずるようにして彼を誘導し、近場の個室ありの居酒屋に入った。

 そうして彼を座らせ、落ち着かせると、私は前途を悲観した。

「私、これからもずっとあの駅を使うのよ? 周囲のいい物笑いの種だわ。人の噂も七十五日とは言うけれど、それまでの間、どうしてくれるの?」

 塚原はしばらく下を向いていた後、ふと思い立ったように顔を上げて私を見た。

「どうって……でも、僕と佳澄さんがそういう仲だってことが大々的に知れ渡っていいじゃないですか。余計な虫もつかなくなりますし」

「は、はあ?」

「僕のほかにも、佳澄さんのことをいいって思う人間が現れないとも限りません。いや、きっといるはずです。だって佳澄さん、綺麗だもの」

「ちょっと信也君、何言っているの?」

 不安になって彼の目の前で掌をひらひらとさせる。

 この男は目がおかしいんじゃないだろうか。

 私は今まで異性から下心抜きで「綺麗だ」などと言われたことはない。

 ああそうか、美大生は美的感覚が人と少しずれているのか、などとおかしな方向に考えが飛びそうになったとき。

「佳澄さん」

「はい?」

 塚原は姿勢を正すと真剣な瞳で私を見据えてこう言った。


「僕の、専属モデルになってください」


「は?」

 塚原は、絵を描く時のような情念のこもった瞳で私を見つめてきた。

「実は僕、ずっと絵のモデルを探していたんです。この前大学で『真・善・美の世界に到達しようとする最も高次元な愛・エロス』をテーマにして創作するという課題が出たんです。これはイタリアに絵画の勉強をしに留学するために必要な検定課題なんです。僕がこの間駅前に立っていたのは、自分が納得出来るモデルを探していたからです。最初見たときはわかりませんでした。でも、佳澄さんが僕の前で脱いだとき、この人だって確信したんです」

「な、何を言っているの?」

「モデル料、一回につき、さ、三千円なら払えます。佳澄さんの嫌なことはしません。局部が見えるような際どいポーズも要求しません。ただ、あなたの裸を描かせて欲しいんです」

「もし私が断る、と言ったら?」

 それを聞いた塚原は途端に大きな犬がお預けを喰らった様な表情になった。

「こ、困ります。僕の想いは今全部佳澄さんに向けられているんです。あなたに断られたら僕、どうしていいかわかりません」

 私の好きな、色気のある大きな手をテーブルの上でぎゅっと組んで、彼は私をじっと見つめている。

 しばらくの間、お互い無言で見つめ合う。

 そんな視線の攻防の中、先に根負けしたのは私のほうだった。

 長いため息を一つつくと、私は彼を再度見た。

「わかりました。一回三千円ね。契約だから、お金はきっちり頂くわ。それと、一つ確認したいのだけれど、この契約はその課題が終わるまで、でいいかしら? あなたには恩ある身ですもの、留学のための課題ぐらいは協力してあげてもいいわよ」

「はい……」

 ほっとしたような表情をした後、塚原は相好を崩した。

「それじゃあ、これから僕の部屋に行きましょう。創作意欲が湧いてきました」

「信也君の家はここから近いの?」

「はい。東口から歩いて15分のところにあるマンションです」

 何だ、私の家とそう大して変わらない距離じゃないか、と思ったが、彼に自分の家を教えるのを私は躊躇ためらった。

 ストーカーチックな、のめり込むタイプの彼とはあまり接点を持たないようにしようと思ったからだ。

 しかし。

「あ、佳澄さんの家はどこですか? これから始めるとなると、夜も遅くなるので。終わったら佳澄さんの家まで送って行きますから」

「そんな気遣いはいいのよ」

 そう言うと彼はむっとしたようだった。

「僕を信用してくれないんですか? 送り狼になんかなったりしません」

「そっち方面は全く心配していないわよ」

「それはそれで何だかへこみます……」

 僕、佳澄さんから男として見られていないんですか、と呟いた彼を無視して私は言葉を継いだ。

「あら、私はあなたの単なる絵のモデルなのでしょう? それに信也君だって私のことをそういう目では見ていないでしょう?」

「絵を描くときはそうです。でも……」

 その先を続けさせてはいけない、と私は思った。

「とにかく、この話はこれで終わり。じゃあ、早速あなたの家に行きましょう」

「はい」

 こうして、私はつかの間、塚原の絵のモデルになったのだった。



 塚原の部屋は、テレビン油の匂いのするシンプルな部屋だった。

 必要な画材と、家具のほかは何もない、殺風景な部屋だった。

 ここで私は数週間、憑かれた様にデッサンを続ける彼の絵のモデルをやることとなる。

 最初は恥じらいもあったが、慣れてくると自分が無機物にでもなったかのような錯覚すら起こさせる。

 それは塚原の、私を見る目がある意味「物」を見る目だったからだ。

 デッサンの時間は休憩を挟みつつ数時間かかる。

 その間、彼は何枚もクロッキー帳のページをめくって私を描写する。

 サッサッと鳴る鉛筆の音と、チッ、チッと鳴る時計の音が、静寂の中やけに目立って聞こえてくる。

 暖房の効いた部屋の中、私は無心でその時間を過ごしていた。

 デッサンが終わると、彼は必ず温かいコーヒーを淹れてくれる。

 それを飲みながら、私は塚原の部屋に段々と居心地の良さを感じてきていた。

 無心になることによって、まるで座禅を組んでいるかのように日常生活の憂さが晴れるのだ。

 特に会話もないが、お互い、どこか心の深い部分で何かを許しあっているようなそんな関係も心地良かったし、塚原の部屋は私のお気に入りの場所になった。

 つまるところ私は、塚原と過ごすときが、一番自分自身でいられたのだ。



「藤咲さん、何か最近良いことあった? 今までと違って笑顔が増えているわよ」

 会社で先輩にそう言われて、私は頬に手を当てる。

「特には……」

「あ、藤咲先輩、もしかして彼氏でも出来ましたぁ?」

 後輩がにこにこしながら聞いてくる。

「だってぇ、藤咲先輩、何だか最近色っぽくなりましたよ。絶対男ですって」

「そんなことはないわよ」

 私は塚原にとっては単なる物だもの、と心の中で呟いた。

 それに、彼との関係を発展させないようにしているのは私だ。


 デッサンの時間が終わった後、時折揺れる彼の瞳。

 帰りの夜道で恐る恐る繋がれる片手。

 マンションの前で別れるとき、塚原はいつも内に情念を秘めた瞳で私を見つめる。

 その瞳で見つめられる度、ざわりと胸が疼くのは、きっと欲求不満だからなのだろうと、そう片付けてきた。

 それに、もうすぐ期限が迫ってくる。


 私と塚原の関係の、終わりの時期が。





「受かりましたよ」

 そう塚原から告げられたのは、彼からかかってきた電話口でのことだった。

 彼の部屋に行かなくなってから三ヶ月が経っていた。

 あの数週間はまるで夢であったかのようだ。

 いつも通り会社に行き、いつも通り帰宅する。

 物足りなさを感じることはあっても、普段通りの生活に戻ったことによって、私は今までの生活サイクルを取り戻しつつあった。

「そう、おめでとう」

 極めて事務的に祝いの言葉を言う私に対し、彼は電話の向こうで苦笑したようだった。

「佳澄さん、僕、これから二年間留学するんです」

「ええ、そうね」

「佳澄さんは……、その、寂しくないんですか?」

「そうねえ、寂しくはなるわね」

 そう言ってさよならの言葉を言おうとした私だが。

「佳澄さん、僕今、佳澄さんのマンションの前に来ています」

「え?」

 ぱちりと瞬きをすると、私は虚空を見つめた。

「僕まだ、佳澄さんに伝えていないことがあります」

「あの、信也君……」

 ぷつっと通話が切れた。

 私は玄関に目をやる。

 急に心臓がどくっどくっと鳴り始めた。

 程なくして、ドアホンが鳴る。

 私は携帯を持ったまま、ゆっくりと、玄関へと足を運んだ。

 チェーンを外し、ガチャリとドアを開けると、そこには大柄な犬のような塚原が立っていた。

「信也君……」

「入れてください、佳澄さん」

 私は無言で彼を招き入れた。

 彼の後ろでドアがガチャリと閉まった途端、塚原は私をかき抱いた。

「佳澄さん、佳澄さんっ!」

「信、也君」

 彼はそのまま私の唇を奪った。

「んんっ!」

 抱き締められて、口付けを受け、足が、床から浮きそうになるぐらいにきつく抱き上げられた。

 酸欠状態にでもなったかのように頭がくらくらし、鳩尾みぞおちの辺りがぎゅっと絞られるように切なく疼いた。

 彼は私の唇を十分に堪能すると、夢見心地で呟いた。

「僕が受かったのはあなたのおかげです。あなたがいなかったら、あの作品は作れなかった。あれはあなたのものです。だから、あなたは僕のものなんです」

 そんな彼を見た私は、息を乱しながらも思わず微笑んでしまった。

「なあに、その理論、無茶苦茶よ?」

 彼の大き過ぎる愛になぜだか泣きそうになった私は、彼の背に自分の腕を回した。

 途端にびくりと、彼が身じろぎをする。

「か、佳澄さん、今僕にそうやって触れられると、止められなくなります」

「今だって止まっていないじゃない。さっきまでの勢いはどうしたの?」

「それは、佳澄さんと離れたくなかったからで……」

「で、信也君、するの? しないの? どっちなの?」

「あの、僕、慌てて出てきたからゴム持ってきていなくって……」

「私が持ってるから大丈夫よ」

 ところがその台詞を聞いた塚原は、私を腕の中に囲ったまま、突然ざわりと内に情念を秘めた瞳で私を見据えた。

「佳澄さん、もしかして、僕のほかに男が出来たんですか?」

「え?」

 ほかにも何も、ここ数年彼氏がいたことなどないし、塚原を自分の男と思ったことなどもない。

 ところが、彼は私のことを自分の女だと、心の中であれそう思っていたようである。

「その男と、寝たんですか?」

「はい?」

「あなたは僕のものだ。誰にも渡さない」

「ちょっと、誤解よ!」

 それから先、このときのことを思い出す度、私は一人苦笑するのである。





 私がモデルとなった絵は、「宝物」というタイトルで展覧会に出品されていた。

 仕事が休みの日には必ず、彼の大学へ足を運び、その絵を見に行く。

 私がこの絵のモデルだということは聡い学生の幾人かは気付いていたようだが、私はそんなことを気にはしなかった。

 最優秀賞のリボンがつけられたその作品を見ながら、塚原の愛が沢山詰まった絵を私はいとおしげに見つめる。


 ねえ塚原、早く帰ってきなさいよ。

 今度はちゃんと、あなたの大きな愛を受け止めるから。

 二年なんてあっという間なのだからね。


 だから、今度は、あなたが私に声をかけて頂戴。


「佳澄さん」


 その声に私は振り向く。

 ようやく待ち望んでいた姿が目に入り、そうして私は彼に向かって両手を広げたのだった。



【了】

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