本日のお題 10 (「鳥」 現代青春もの)
こひらわかさんの本日のお題は「鳥」、恋に落ちる手前の作品を創作しましょう。補助要素は「遊び場所」です。 #njdai http://shindanmaker.com/75905
美羽がバレエに興味を持ったのは、あることがきっかけだった。
もともと音楽一家に生まれ、周囲がピアノやらヴァイオリンやらを始めている中、美羽も例に漏れず、当然のようにそれらの楽器を手に取っていた。
彼女の音楽に対する才能は抜きん出ており、児童のコンクールでは必ず上位に位置していた。
にもかかわらず、彼女がバレエを始めるに至ったのは、たまたま家族と観に行った新国立劇場でのバレエ「白鳥の湖」に、当時7歳だった美羽がいたく感動したのが始まりである。
家族と大喧嘩をして、最終的には由緒あるバレエ教室の門を叩くことになったのは、ひとえに美羽の尋常でないほどの情熱からだった。
一時間、一人で電車とバスを乗り継ぐのも厭わず、シニヨン(後頭部で結う髷)のせいで目つきがきりっとするのも構わず、美羽は稽古用のバレエシューズが入ったバッグをしっかりと抱き締めて教室に通った。
体は柔らかいほうではなかった美羽が、家に帰ってきてからも憑かれたように反復練習と柔軟体操をするのを、家族ははらはらする面持ちで見守っていたのだという。
その甲斐あってか、5年後、美羽は子供の部のコール・ド・バレエ(群舞)のコリフェ(群舞の先頭ポジション)に抜擢されることとなる。
バレエを始める年数がプロを目指す子供よりもわずかに遅くとも、ソリストやプリマドンナにはまだ遠くとも、自分は自分なりの速度で確実に階段を上っていると思っていた。
だが、そのころから美羽は膝に違和感を持つようになっていた。
最初は成長期に起こる成長痛や、ただの軽い炎症として片付けていたが、あまりにも違和感が消えないため、一度バレエ関係に詳しい整形外科で見てもらうこととなったのである。
担当した医師はレントゲンを見ながら、神妙な面持ちで美羽に告げた。
「まず、結論から言おう。君の膝は股関節の歪みからくるものだ。君の股関節は、元々バレエには向いていないのだよ」
それから医師は、美羽と家族に対し、仙骨と腸骨のつなぎ目の「仙腸関節」の話から始めた。
仙腸関節は、運動や歩行で、上半身や下半身のエネルギーを吸収する役目も果たしており、バレエを踊る人間にとっては大切な部位と言える。
そしてバレエの基本5つのポジションも、骨盤・股関節が正常でないと習得するのが難しいのだ。
無理矢理足先だけを外に開くと膝を傷めてしまい、美羽の膝の違和感はここから来ているのだと言う。
整体などで股関節の歪みを直すことによって改善することはできるが、美羽の場合はもともとの形の関係で、これ以上バレエを続けると深刻な損傷にもつながりかねないとのことである。
さらに美羽の自分に課した厳しい反復練習も、膝の違和感に一役買っているということも医師は告げた。
医師が告げる話は、美羽のこれまでの努力を全否定するものだった。
美羽は青ざめた表情で、しかし泣き出すことはなく、それら医師の言葉を受け入れたのであった。
帰宅してから、美羽は普段どおりに振舞っていたが、家族はそれがどこか空恐ろしかった。
美羽は程なくしてバレエ教室を辞めた。
今までやっていたバレエのための柔軟体操も、反復練習も、過酷な食事制限も全て止めた。
バレエに関することの一切を美羽は自身の周囲から遠ざけたのである。
ただし、ランニングなどの運動だけは欠かさなかったため、美羽は学校での体育の成績は常にトップクラスだった。
さらに二次成長時に栄養をしっかりと採ったため、美羽の体は女性らしい体つきへと変化していったのである。
彼女の時折見せる寂しそうな表情や絶望感、大人びた優雅な仕草やミステリアスな雰囲気は、周囲の男子からは羨望の的になった。
そのことで女子からは疎外されたが、それでも美羽にとってはささいなことであった。
今までバレエに注いできた情熱をどこに注げばいいのかわからなくなった美羽は、学校では目を引くが、暗い、少し近寄りがたい存在となったのだ。
そうして「飛べなくなった鳥」となった美羽は、そのまま中学を卒業し、そこそこの進学校である高校の普通科に進んだのであった。
――青葉になった木々を通る風が、どこか甘い草の香りを運んでくる。
放課後、土埃が舞う校庭を運動部員がランニングをしている。
美羽はロングの髪をわずかに押さえながら、体育館をつなぐ渡り廊下を歩いていた。
体育館に忘れ物を取りに行ったのであるが、彼女はそこである光景を目にする。
15人ぐらいだろうか、ジャージ姿に身を包んだ男女が、音楽をかけながらダンスを踊っているのである。
それはこの高校のダンス部だった。
その部員の中でひときわ輝いているものがいた。
第一印象は「翼持つ猫」だった。
身長は170台か。
癖毛なのか、ぴんぴんとあちこちに跳ねた茶色い髪、くるっとした愛嬌のある瞳、楽しそうに上がった口角、長いしなやかな手足。
彼はドン、ドン、という重低音に乗りながら、独自のスタイルでダンスを披露しているのだ。
ジャズ、ヒップホップ、ロッキン、モダン、ありとあらゆるテイスト、大技小技を交えての演技は、その場にいた誰もの目を引いた。
重力に捕らわれることのないその動きは、まさしく彼の背中に翼でも生えているかのようだった。
「誰あの子」
上級生だろうか、3~4人の女生徒が固まって噂をしている。
「あの子、ほら、ダンスの何とか大会で優勝した有名な子らしいよ」
「それが何でうちのダンス部に入ったんだろうね」
「背高いのに可愛い」
「そのギャップがいいよね~」
「きゃあ! 腕まくりした! ってか腕の筋肉がモロ好みなんだけど!」
上級生のそんな声は、彼がダンスを止めてタオルで顔を拭いた後、彼女らに向かってにこっと笑顔を振り撒いたことでなお一層大きくなった。
そんな彼女達には構わず、美羽は体育館の中にある更衣室に入ると、目当ての品を見つけ、出て行こうとした。
ところが、更衣室を出ると、そこに先ほどの「翼持つ猫」の少年が立っていたのだ。
いや、見ようによっては少年の面影を残した青年といったところか。
彼はきらきらした表情で美羽を見ていたのである。
「ねえ、あなた、内藤美羽さんでしょう?」
美羽はぱちりと瞬きをした。
「俺のこと、覚えてない?」
「誰?」
美羽は眉をしかめた。
こんな印象的な男の子、出会った記憶はない。
「美羽さん、エトワールバレエ教室の23期生だったでしょ?」
美羽は訝りながらもこくりと頷いた。
「やっぱり!」
光り輝く、と言ってもいいような彼の笑顔に圧倒されてしまう。
「俺、男子の部でコリフェだった羽田綾人。俺も23期生だったんだよ。ま、期待はしていなかったけれど、やっぱり覚えてはいないか。美羽さん、ストイックだったし、周囲は気にせずに目標に向かって邁進している感じだったし」
そう言って少しばかり苦笑した彼に対し、何やら得体の知れない罪悪感を美羽は覚えた。
「ごめんなさい、私もう行くから」
「美羽さん、バレエ辞めてから何やってたの?」
「何って、何も……」
歩きながらまとわりつくように話しかけてくる彼は、しかしさほど鬱陶しくは感じられなかった。
それは彼のまとう雰囲気であるとか、彼のしなやかな身のこなしであるとか、とにかく、彼の回りには何やら陽の力が溢れているようだった。
「ねえ美羽さん、俺と一緒に、ダンスやろうよ」
「えっ?」
思わず足を止めた美羽に対し、綾人はこれ幸いとにこにこしながら一気にまくし立てた。
「バレエ、膝の故障で辞めたってことは知っているよ。だけど、膝に響かないようにするダンスの方法なんていくらでもあるよ。それに俺の遊び場所っていうか練習場所では、美羽さんみたいに異種出身の講師が沢山いるんだ。色々刺激になるから是非ダンスやろうよ!」
この人、ダンス馬鹿なんだわ、と、美羽は思った。
「私、ダンスには興味ないから」
そう言うと美羽は綾人の横をすり抜けて体育館を後にした。
美羽はこれきりこの羽田綾人とはもう関わることはないと思っていた。
しかし。
「ねえねえ美羽さん! 一緒にお昼食べようよ!」
購買で買ったパンを抱えながら、まるで褒美を待っているかのような犬のごとく、きらきらした表情で綾人が美羽のもとに駆け寄る。
「ねえねえ美羽さん! 一緒に掃除しようよ!」
箒を持ちながら、餌をもらいにきた猫のように綾人は美羽のもとに駆け寄る。
その度に周囲の人達から「お前は別のクラスだろ!」と突っ込まれている。
だが、綾人はめげない。
「ねえねえ美羽さん! 一緒にダンスしようよ!」
極めつけはこれだ。
「ねえねえ美羽さん! 俺の彼女になってよ!」
もう、美羽と綾人の関係が「氷の女王と下僕」と周囲から揶揄されていることも、「氷の女王がいつ落ちるか」という賭けをされていることも、美羽はどうでも良かった。
でも、なぜだか嫌な感じはしなかった。
それに中学時代と比べて、周囲に友人と呼べるものは増えたように思う。
まずはこの圧倒的な陽の気を放つダンス部のホープ、羽田綾人。
続いてダンス部の3年、頼もしい姉御肌の結城蓮子。
さらに同じクラスの美羽に心酔しているメルヘン女子、花菱芽実。
そんな彼らに囲まれながら、美羽の日常はゆっくりと動き始めたのである。
あるとき偶然が重なって、美羽は綾人の通うダンススクールへと足を運ぶことになった。
綾人に荷物を届けて帰ろうとしたのだが、そこで溌剌とバレエを踊っている男女に出会う。
年の頃は両人とも30代であろうか。
女性は躍動感たっぷりに力強く踊る。
男性は女性を見事にサポートし、自身も豊かな身体表現で踊る。
彼らが踊っているのは「白鳥の湖」の第3幕・王宮の舞踏会の、黒鳥のパ・ド・ドゥ(2人で踊る)であった。
新国立劇場で観たパ・ド・ドゥが完成された美の黒鳥であるならば、ダンススクールのパ・ド・ドゥは荒々しくも生命の息吹に満ち溢れた力強い黒鳥であった。
固まったように動けなくなった美羽を、綾人は優しく誘った。
「二人は講師の先生方だよ。ほかにも講師は沢山いるけれど、美羽さんに二人の踊りを見せたくって、今日はわざわざ来てもらったんだ」
「え?」
けれど、罠に嵌められたという気はしなかった。
「先生達もね、怪我で第一線を退いたんだ。だけど、今こうやって踊れている。体のバランスを取って、独自の表現で、バレエを続けているんだ」
美羽はそれを聞き、その事実を噛み締めると、感極まったように瞳を潤ませた。
「私……」
「俺、将来は芸術監督かコリオグラファー(振付家)になろうと思っているんだ。一生ダンスという芸術に関わっていきたいから」
初めて聞く、綾人の夢だった。
「俺の場合はバレエの才能はコリフェ止まりだったけれど、美羽さんはとても豊かな表現力を持っているよ。それは、バレエ教室で美羽さんのことをずっと見てきた俺が保障する。それに俺の場合は、ダンスって言う幅広い芸術に関わることによって視界が広がったから、美羽さんもきっとそうなるって思って」
「羽田君」
「何? 美羽さん」
綾人は優しく首を傾げた。
「私、いいのかなあ? もう一度踊っても、いいのかなあ?」
大きな瞳に涙をいっぱい溜めながら、美羽は子供のように綾人に尋ねる。
「うん! 踊れるよ! 美羽さん、俺と一緒に踊ろうよ!」
「うん……」
こくりと頷くと、美羽の瞳からぽろぽろと涙が零れた。
それは、医師から自分の努力を全否定されてから長い年月の間封印していた、美羽の純粋で、素直な気持ちだった。
美羽の涙は止まることなく、それを見た綾人は苦笑しながら美羽を腕の中に抱き込んだ。
「美羽さん、可愛すぎるよ。ほら、俺の胸でよければ貸すから存分に泣き切っちゃいなよ。どうせ美羽さん今までずっと気丈に振舞っていたんでしょう? 美羽さんの初めてもらえるのは嬉しいけれど、俺、舞い上がっちゃうかも」
どれぐらいの時間が経ったのだろう。
ぐすっと鼻をすすりながら、美羽はぽそりと呟いた。
「あ、綾人君」
綾人の心臓がどきりと大きく鳴るのが聞こえた気がした。
「な、何? 美羽さん」
「あの、名前で呼ばれるの、嫌だった?」
美羽が恐る恐る聞くと、綾人はぶんぶんと首を横に振った後、はあと大きくため息をついた。
「違う違う、今の間は幸せ過ぎて時間が止まっちゃったんだ。それにこれは胸がいっぱいになっちゃったがゆえのため息だから」
「……?」
美羽が綾人の胸の中で小首を傾げると、綾人は美羽を離すまいと再度ぎゅっと抱き締めた。
「ああ、たまんない。美羽さんが俺のこと名前で呼んでくれた。しかも美羽さんが俺の腕の中にいて、美羽さんの体、あったかくって柔らかくって、女の子の甘い香りがして、俺もうどうにかなっちゃいそう」
それを聞いた美羽は綾人の腕の中でかあっと真っ赤になった。
「羽田君!」
抗議の声を上げるが、綾人は一向に構わないらしい。
「ねえ美羽さん、もう一度名前で呼んで」
「嫌!」
「何で? 恥ずかしいから? でも『俺は』恥ずかしくないよ?」
「羽田君が恥ずかしくなくっても私が嫌なの!」
今度は別の意味で泣き出しそうな美羽を見た綾人は、極めて人のいい笑みでこう聞いた。
「ねえ美羽さん、俺に恋、しちゃった?」
「してない!」
美羽は憤慨して顔を上げる。
ぐっとお互いがお互いを見つめ合った。
しばらく無言の攻防が続いた後、いきなり綾人はにっこりと微笑んだ。
「そうやって感情をあらわにするの、俺の前だけにしてね? 俺、意外と心配性で嫉妬深いから。でも美羽さん、さっき踊っていた2人みたいになれるように頑張ろうね!」
そう言って綾人は、不意打ちの笑顔に当てられてぽかんとした表情の美羽の額に、素早く口付けを落としたのだった。
その後、この「翼持つ猫」が「飛べなくなった鳥」を見事に羽ばたかせるのは、まだ少し先のお話である。
【了】




