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暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜  作者: パラレル・ゲーマー
第六部・早く訪れた太平の世編

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第93話 星見公家、江戸の帳面地獄に堕ちる

 じっとりとした梅雨が明け、本格的な夏が到来した江戸の町に、京の朝廷から派遣された二人の公家が到着した。


 表向きの名目は、『公家文書御用の増員』ならびに『南蛮書物翻訳の支援』。


 だが、その実態は、公儀が新しく立ち上げた天文学と測量事業が、朝廷の絶対的な職分である「暦の権威」を侵さぬよう、内側から厳しく見届けるための『目』であった。


 中心となるのは、二人の公家。


 一人は、土御門家に連なる、若き暦学の公家。


 学者肌で極めて神経質であり、江戸の武家が星の運行を測ること自体に、強い警戒感と危機感を抱いている。


 もう一人は、広橋家筋の実務派公家。


 公文書の作成や文言の調整、タフな交渉に長けており、土御門系の公家よりも現実的に「江戸の実務能力」を見極めようとする、穏健だが油断のならない男だ。


 江戸城の奥深い座敷で。


 大御所・家康は、この二人をこれ以上ないほどに丁重に、そして厚く迎え入れた。


「遠路はるばる、よう参られた」


 家康は、深々と頭を下げる公家たちに向けて、鷹揚に微笑みかけた。


「京よりの『目』と『筆』……公儀は、これをありがたく、諸手を挙げて受け入れよう」


 その言葉を聞き、星見公家たちは内心で強く警戒した。


 目と筆。


 こちらが何のために来たのか、完全に分かっておる。


 そのうえで、これほどまでに歓迎しているのか……! 


 家康は、最初から隠し立てを一切しなかった。


「江戸は、独自の暦を勝手に作るつもりは毛頭ない。観測した星の記録は、全て朝廷へ献上する。……公家衆には、その観測の作法や帳面の様式作りに、大いに力を貸してもらいたいのだ。公儀が星を測るのは、あくまで航海の安全や、土地の測量、時刻の管理といった『実学』のため。……朝廷の神聖なる職分を軽んじる気は、微塵もない」


 家康の、老獪極まる政治的な口上に、土御門系の公家は、背筋に冷たい汗が伝うのを感じた。


 ……これは、油断ならぬ。


 武力で強引に押してくるより、ずっと厄介だ。


 言葉は丁重だが、気づけば我ら朝廷の者が、江戸の作った制度の内側に完全に取り込まれてしまう……! 


 一方、広橋系の公家は、内心で家康の手腕を高く評価していた。


 朝廷の面子を完璧に立てながら、我らを牽制するどころか、堂々と制度の内側に引き込んで『共犯者』にする。


 ……なるほど、武力で天下を獲った男は、筆の重さも誰より熟知しておるというわけか。


「何も、疑われぬように弁明のために呼んだのではない」


 家康は、ニヤリと笑った。


「共に、正しき星の『帳面』を書くために呼んだのじゃ。……存分に、その目で見届けてくれ」


 *


 挨拶もそこそこに、星見公家たちは、俺の案内で江戸城内の様々な行政機関を視察して回ることになった。


 案内先は、『公儀御書物蔵』。


 外国の品を扱う『御異物改方』。


 白黒灰色の本を仕分ける『南蛮書物御改の判定部屋』。


 そして、先輩の公家たちが集う『公家文書御用の作業場』。


 そこで彼らが目にしたのは、優雅な筆運びの光景ではなく、想像を絶する情報の濁流と、帳面の暴力だった。


 銀台帳の名寄せ部屋では、商人たちの嘘を暴くための数字の照合が、絶叫交じりで行われている。


 隣の部屋では、大量の蔵札と米札の束を前に、勘定方の役人たちが半狂乱で算盤を弾いている。


「……あの。近頃の江戸では、皆、このように血走った目で筆を握るものなのでしょうか?」


 広橋系の公家が、ドン引きした顔で、先輩の公家文書御用に尋ねた。


 すっかり江戸の水に染まり、目の下に隈を作りながらも妙に充実した顔をした先輩公家が、筆を動かしたまま答える。


「京にいた頃は、武家の帳面など、武骨で単純なものと思っておりましたが。……ここは戦場にございます」


「……戦場?」


「ええ。刀や槍の代わりに……途方もない量の紙と墨で、天下の血流を制御し、整えるための、終わりのない戦場なのです」


 土御門系の公家は、星の観測を見に来たつもりだったのに、なぜか延々と『諸国公儀米蔵・床上げ改築帳』や『足弱り養生訓・通達案』といった書類ばかりを見せられ、困惑して俺に詰め寄った。


「若君。……なぜ、天文の観測のために来た我らが、米の蔵の床の高さや、虫害対策の帳面ばかりを見せられているのですか?」


「星を見るにも、夜露を凌ぐ夜着と、腹を満たす飯が要ります」


 俺は、死んだ魚のような目で答えた。


「人が食べるには、莫大な米が要ります。米を守るには、頑丈な蔵が要ります。……つまり、星見の事業も、最終的には全て田んぼと米の蔵の帳面に繋がっているのです」


「……理屈は分かるような、一生分かりたくないような……」


 土御門系の公家は、頭を抱えた。


 ようこそ。


 世界の全てが田んぼと帳面に戻ってくる、この果てしない地獄のループへ。


 *


 俺は彼らを、御異物改方の奥深くにある『天文観測準備室』へと案内した。


 そして、出し惜しみをせず、先日長崎から届き、江戸の職人たちが量産の試作に苦労しているあの光学装置──『暗箱写し』を、最初から堂々と見せた。


「こちらが、先日南蛮より届いた光学装置にございます。我らは仮に《暗箱写し》と呼んでおります」


 土御門系の公家は、その奇妙な箱を見るなり、ピクリと眉を吊り上げて警戒した。


「……聞きましたぞ。この箱の内に、日輪や景色そのものを映し込むという、得体の知れぬ道具であると。……まさか、妖術や南蛮の呪法を用いて、天の星を奪おうというのでは……!」


「いいえ。これは妖術や奇跡ではございません。光が、前方の硝子の玉を通って、ただ箱の内に像を結んでいるだけです」


 俺は、窓の外へ暗箱写しのレンズを向け、実演してみせた。


 箱の上部の薄紙に、夏の強い日差しに照らされた江戸城の庭の松の木と、遠くの白壁の櫓が、ぼんやりと、しかし極めて正確な色彩で、逆さまに映し出された。


「……っ!!」


 公家たちは、息を呑み、絶句した。


「……これは。……確かに、星見の補助に使える」


 土御門系の公家が、震える声で呟いた。


「同時に。……城の弱点や、港の船の形も、寸分違わず正確に写し取れる恐ろしい道具だ」


 広橋系の公家が、瞬時にその軍事・統治的価値と危険性の本質を見抜いた。


 俺は、正直に説明を重ねた。


「これは、勝手に景色を紙に定着させる道具ではありません。ただ光が映るだけです。記録として残すには、人間がその上から筆でなぞり、写し取る必要があります」


「朝廷へ献上する星の観測図の精度を上げるために、これを使います。京にも同型の箱を置き、同じ時刻、同じ様式で記録し、誤差を比べる予定です」


「そして。……この箱の使用は、必ず公儀と、朝廷から見届けに来られた公家衆の立ち会いのもとでのみ行うと、固く約束いたします」


「……暦を作るための道具ではない、とは申されるが」


 土御門系の公家が、鋭い視線を俺に向けた。


「暦を作る者にとって。これほど有用すぎる道具は、ありませぬな」


「その通りです」


 俺は、一切目を逸らさずに言った。


「極めて有用で、だからこそ、極めて危険な道具です。……だからこそ、朝廷の皆様には、最初から隠さずにお見せしているのです」


 危険だからこそ、共有する。


 便利だからこそ、厳格に記録する。


 後から隠蔽を疑われる前に、最初から、この厄介な帳面と制度の内側へ、彼らを引きずり込む。


 広橋系の公家は、俺のその冷徹な政治的意図を正確に読み取り、皮肉げに笑った。


「……隠して疑われるより、最初から共に筆を持て。……そして、共犯者となれ、ということですか」


「はい」


「……江戸のやり口は。誠に、理にかなっており、そして厄介極まりないですな」


「最高の褒め言葉として、受け取っておきます」


 *


 公家たちは、江戸へ来れば、すぐに高台へ登って星を観測し、江戸のやり方を見張るのだとばかり思っていた。


 しかし、俺は冷酷な現実を彼らに突きつけた。


「本格的な天体の観測が始まるまでには。……まだ、しばらくの時間がかかります」


「なぜです」


 土御門系の公家が、焦ったように言う。


「道具も、南蛮の書物も、こうして集まりつつあるのでしょう?」


「道具と書物があるだけでは。……正確な観測の記録など、絶対に取れないからです」


 俺は、彼らの前に、山積みにされた白紙の束を置いた。


「天体観測を本格稼働させるために、まず以下の条件を、全国で統一せねばなりません」


 一、江戸、京、長崎における、観測場所の正確な選定と、地面の水平の確認。


 二、観測の基準となる方角の定義の固定。


 三、各地で用いる、時刻の合わせ方の統一。


 四、記録する星の名称の、対応表の作成。南蛮の星の名、漢名、和名、そして朝廷側での古来の呼称の名寄せ。


 五、暗箱写しの、寸法の全国統一規格。


 六、遠見筒の焦点の合わせ方と、扱い方の訓練。


 七、雲、霧、月明かりの強さといった、天候の記録基準。


 八、朝廷へ送る観測の写しの公式文言の策定。


 九、江戸と京で誤差が出た場合の、帳面上での扱い方の取り決め。


「……」


 土御門系の公家は、そのあまりにも膨大な実務の壁を前に、完全に沈黙した。


 広橋系の公家が、顔を引きつらせながら苦笑する。


「……つまり。星を見る前に。星を見るための莫大な帳面を、一から作らねばならぬということか」


「はい」


 俺は、にっこりと笑った。


 公家たちは、ここで初めて、江戸の帳面地獄の本当の恐ろしさを骨の髄から理解したのだった。


 星を見張りに来たはずが。


 星を見る前に、分類、名寄せ、様式統一、写本、そして封印という、底なしの実務の沼へと叩き落とされたのだ。


「というわけで。本格観測が始まる秋までの間。……皆様にも、この帳簿作りの実務を、全力で手伝っていただきます」


「我らは、見届けに来たのですが……!」


「はい。正しく見届けるには、帳面の正しい書き方を知っていただく必要がありますから!」


「……これは、逃げられぬな」


 広橋系の公家が、天を仰いだ。


 *


 こうして、夏の厳しい暑さの中。


 星見の公家たちは、俺の容赦ない指揮の下、江戸の帳簿地獄へと完全に巻き込まれることになった。


 土御門系の公家は、朝から晩まで、星の名前の整理と、南蛮天文学の用語との対応表の作成に追われた。


「……神聖なる天の星を、このような無味乾燥な政務の帳面に落とし込むとは。なんとも無粋な……」


 最初はそうこぼしていた彼だったが、作業を数日進めるうちに、江戸の様式統一の恐ろしさに気づき始めた。


 これを。


 京、江戸、長崎の三箇所で、全く同じ基準で書かせることができれば。


 ……確かに、精緻な比較ができる。


 比較できれば、誤差がはっきりと見える。


 誤差が見えれば、暦の精度は飛躍的に上がる。


 ……だからこそ危険で、だからこそ、有用なのだ。


 彼は、自らの家の職分への誇りにかけて、決して間違いのない対応表を作ろうと、目の色を変えて筆を走らせ始めた。


 広橋系の公家は、観測記録の公式文言や、朝廷へ送る献上控の様式作り、そして公家文書御用の人員のシフト管理に投入された。


 彼は、俺が複数の全く異なる分野の帳面──『米蔵床上げ』『足弱り養生訓』『南蛮書物分類』『銀台帳』『暗箱写し登録』『天文観測様式』──を、同時に、一切の遅滞なく処理していく姿を見て、戦慄を覚えていた。


 ……この若君は、なぜこれだけの量を捌いて倒れないのだ。


 いや、顔色はすでに倒れている者のように青白く、常に胃を押さえているが。


 ……それでも、筆を持つ手と、人を割り振る口だけは、絶対に止まらない。


 *


 夏の終盤。


 長崎と平戸の港から、『南蛮書物御改』へと、大量の灰色本の束が届き始めた。


 医学書。


 薬草書。


 天文学書。


 測量書。


 自然哲学書。


 航海術書。


 修道会系の教育書。


 そして、神学の長い序文がついた実学書。


 江戸知庫の翻訳と判定の現場は、たちまち阿鼻叫喚の地獄と化した。


 問題の根本は、翻訳する言葉が足りないことだった。


「国松様!! この『アニマ』という語。仏法で言う魂なのか、霊なのか。……それとも生命力のことなのか、どの言葉を当てればよいのですか!」


「この『自然哲学』という概念の書物……。我らの言う『自然』とは意味が違います! 新しい言葉を作るべきですか!?」


「『体液』とありますが、これは血ですか? 胆汁ですか? 気血のことですか!」


「『天球』という言葉は、我ら朝廷の天文の理解と似ていますが、宇宙の構造の前提が全く異なりますぞ!」


「『神の秩序』『元素』『惑星』『恒星』『原罪』……! 言葉が、全く噛み合いませぬ!!」


 翻訳とは、ただ異国語を日本語の辞書で置き換えるだけの作業じゃない。


 世界の見方そのものを、日ノ本の言葉に移植する、極限の知的作業なんだ。


 そして当然、気が狂うほど面倒くさい。


 俺は、悲鳴を上げる通詞や医師たちを前に、即座に現場の整理に入った。


「落ち着け!! まずは、帳面を用途別に完全に分ける!」


 俺は、白紙の束を叩いて指示を飛ばした。


「原本は、絶対に傷つけず『原本保管帳』へ。有用な部分だけを『抄訳作成帳』へ。危険な宗教の注釈は全て『危険注釈封印帳』へ隔離しろ! そして、意味の分からない言葉は、無理に訳さず、まずは『用語統一控』の暫定辞書に入れろ! ローマ側の判定者へ聞くべきものは『ローマ質問控』へ回せ!」


「人はこう割り振る! 通詞は原文の正確な意味だけを抜け。広橋殿と公家文書御用の皆さんは、それを美しい和文と公式文書の表現に整えてください。医師と薬師は、医学と薬草の実用的な価値の有無だけを判定。土御門殿は、天文と暦の用語の整合性を。……そして、三男四男五男の若者たちは、徹夜で清書と名寄せ、索引作成に回れ! 正純殿は、各部署の提出期限の厳守と監査をお願いします!」


 さらに、危険度を色付きの札で視覚的に分類させた。


 実用部分は『白札』。


 布教・教義・禁制は『黒札』。


 判定待ちは『灰札』。


 事故リスクが高く実用禁止のものは『赤札』。


 天文・測量の優先事項は『青札』。


 用語が未確定のものは『黄札』。


 そして、作業の順序を「索引→用語対応→抄訳→判定→実用試験」と、完全に流れ作業化して固定した。


 その電光石火の指揮を見て、広橋系の公家が、息を呑んで呟いた。


「……若君は。この混沌たる地獄を、普段からこのように淀みなく?」


「普段は、これに全国の米蔵の状況と銀台帳と港別登録の監査が加わります」


 本多正純が、無表情で答える。


「……それは。もはや人の所業ではありませぬな」


 ほら! 


 尊敬じゃなくて、完全にドン引きされてるじゃん! 


 でも、仕事の量は一ミリも減らない! 


 土御門系の公家も、俺に対する認識を少し改めざるを得なかった。


 最初は、「徳川が、朝廷の神聖な星の権威を奪いに来た」と警戒していた。


 しかし実際のこの若君は。


 星も、米も、異国の本も、港も、銀の流れも。


 全てが腐り、国が壊れるのを防ぐために、必死の形相で帳面という器へ押し込み、整えようとしているだけに見える。


「……無粋ではある」


 土御門系の公家は、山積みの翻訳辞書の束を見つめて呟いた。


「無骨で、雅の欠片もない。……だが。決して、無責任ではないな」


 *


 そして、時間は夏から秋へと進む。


 日ノ本各地から、秋の収穫の最終報告が江戸へ届き始めた。


 結果は、全国的には今年も文句なしの大豊作であった。


 ただし、完全な理想通りの数字ではない。


 一部の地域では、夏の大雨による水害で、水田が水を被り、川沿いの稲が倒伏した。


 低地に予定していた仮蔵の土地が使えなくなり、橋や小水路が傷み、稲刈りが遅れた地域も出た。


 そのため、夏時点の「空前の大豊作」という見込みからは、やや下振れした。


 ……水害で、少し減った。


 減った。


 減ったはずだ。


 ……なのに、なんでまだ、こんなに多すぎるんだよ! 


 減ってなお、既存の蔵がパンクして死ぬ量なんだけど!? 


 家康は、報告を見てカラカラと笑った。


「水に少し削られてなお、この凄まじい収量か。悪くない」


「水害のあった地域には、ただちに豊作地からの救荒米の貸付と、崩れた蔵の改築、水路の修復を急がせねばならぬな」


 秀忠が、迅速な対応を命じる。


「はい。……豊作地から水害地への米の大移動、蔵の補修、橋の修繕。……全部、俺が帳面で繋いで手配します」


 俺の机の上には、米蔵の帳面が、天文の帳面と全く同じ高さで積み上げられていった。


 星見公家たちは、その異様な光景を見て、言葉を失った。


「……星の記録の帳面と。民の食う米の移動の帳面が。……同じ若君の机の上に、全く同列に載るのですか」


 広橋系の公家が、信じられないというように問う。


「載ります。……どちらも、国の時間を狂わせるものですから」


「国の、時間?」


「はい。暦は、民の一年の生活の時間を整えます。そして、米の流れは、民が飢えずに冬を越すための時間を整えます。……どちらの帳面が狂っても、人が死にます」


 土御門系の公家は、その言葉を聞いて、黙り込んだ。


 天の星を見上げる高尚な学問も。


 地の泥にまみれて米を運ぶ行政も。


 この若君の中では、等しく民を生かすための帳面なのだと、彼は理解したのだ。


 *


 秋の夜長。


 ついに、準備を重ねてきた天体観測の試験運用が、江戸城の小高い観測場所で開始された。


 ただし、これはあくまで試験であり、完成形には程遠い。


 観測拠点は、まだ江戸、長崎、京の一部のみ。


 使用する器具は、暗箱写し、南蛮の遠見筒、象限儀系の角度測定器、方位盤、影の長さを測る精緻な棒、そして水時計と砂時計による時刻合わせの道具。


 最新の天体観測技術の粋を集めたように見えるが、現場の実態は、ひどく泥臭く、大騒ぎの連続だった。


「方角の基準が、昨日より少し西にずれておりますぞ!」


 測量役が、方位盤を見ながら叫ぶ。


「ならぬ! その星の呼び名は、南蛮の書物ではそうかもしれぬが、朝廷側の古来の呼び名では全く違う! 対応表の何頁目だ!」


 土御門系の公家が、焦ったように帳面をめくる。


「国松様! 遠見筒の焦点が、少しでも動くとすぐに狂ってしまい、星がぼやけます!」


 絵師が、暗箱写しの前で悲鳴を上げる。


「暗箱の上の紙が、秋の夜露で湿ってしまって、筆の線が滲んで使い物になりませぬ!」


「……もう! 夜露対策の紙の保管控と、遠見筒の焦点固定の留め具の設計図を追加!!」


「承知いたしました」


 正純が即座に記録する。


「承知しないでください! いや、承知してください! 助けて!」


 蚊に刺され、雲に遮られ、夜露に濡れながらの、大混乱の観測現場。


 だが、その泥臭い観測の成果は、確かに形になり始めていた。


 同じ星を、江戸と京の同時刻に見ることで、高さの誤差がわずかに生じることが確認できた。


 南蛮書の星図と、実際の見え方の違いを比較できた。


 月の位置の正確な移動の記録が取れ始めた。


 そして、方角と時刻を完全に合わせて観測することの、絶対的な重要性が共有された。


 土御門系の公家は、紙に落とされた星の軌跡を見て、悔しげに、だが確かに認めた。


「……これは。確かに、暦を補正するための記録として、絶大な価値がある」


「しかし」と、彼は目を光らせた。


「だからこそ、これは江戸の独占を許さず、我ら朝廷が深く関与し、見届けねばならぬ」


「ならば、この記録は、江戸用と京への献上用の二重帳面の様式にいたしましょう」


 広橋系の公家が、実務的にまとめる。


 また二重帳面!? 


 でも、それが一番角が立たないし揉めないんだよな! 


 分かってる、分かってるけど仕事が増える! 


 *


 その夜。


 俺の机の上には、全てが同じ日に雪崩のように押し寄せてきていた。


 豊作地からの、米蔵の容量逼迫の悲鳴の報告書。


 水害地からの、大至急の救荒米要請の書状。


 長崎から届いた、灰色本の追加分の山。


 ローマ側の判定者へ送る、神学用語の質問控。


 土御門系の公家が赤筆を入れた、天文用語の修正案。


 広橋系の公家が整えた、朝廷へ提出する公式文案。


 暗箱写しの試作不具合報告と、遠見筒の焦点調整の依頼書。


 夜露で滲んだ観測記録と、足弱り養生訓の再通達案。


 俺は、ただの現代の公務員で、田んぼの泥を直していただけのはずなのに。


 ……なんで今、米と星とローマと朝廷と南蛮書物と水害の対応が、全部同じ机に載ってるんだよ!? 


 俺が一瞬フリーズしていると、公家たちや役人たちが、俺がどう処理するのかを静かに見つめていた。


 俺は、こめかみを押さえながら、狂ったように処理の優先順位をつけ始めた。


「……命に直結するものから、全て処理します。まず、水害地への救荒米の手配と移動。次に、後から取り返しのつかない天体観測記録の夜露対策と保存。灰色本は、黒の疑いがあるものを先に封印。翻訳語は、暫定辞書で強引に回せ。暗箱写しの不具合は……明日、職人を呼べ!」


 その凄まじい決断の連続を見て、広橋系の公家は、完全に感心したように息を吐いた。


「……混沌として、もはや人の手には負えぬように見える情報の山を。……即座に優先順位をつけ、流れるように整えていく」


「これが。……江戸の、帳面の力か」


 土御門系の公家も、悔しげに、だが深い畏敬の念を込めて認めた。


「国松様の、日頃からの悪癖にございます」


 正純が、無表情に言う。


「悪癖って言わないでください!!」


 公家文書御用の公家たちも、通詞も、医師も、測量役も。


 俺の、顔面蒼白で胃を押さえながらも、決して帳面の流れを止めず、国家の血流の詰まりを取り除いていくその姿に、深い尊敬の念を抱き始めていた。


 武勇ではない。


 奇跡でもない。


 ただ、膨大な帳面を流し、人を動かし、国家を生かす、その泥臭い能力への尊敬。


「……若君は、文官というより。……大きな流れを見るお方ですな」


「水の流れを見る水神と聞いていたが。……帳面の流れをも、見るのか」


「あのお方は、米でも銀でも星でも……詰まる場所を見つけて、ただちに水口を開けるのですよ」


 やめて。


 ……尊敬しないで。


 尊敬するなら、俺の代わりに仕事ができる人を増やして。


 あと、三日でいいから休みをください……! 


 *


 秋の夜更け。


 江戸城の高台にある観測場では、今日も星見公家、測量役、絵師、通詞、若者たちが、一丸となって星を記録している。


 遠見筒を覗き込む者。


 方位盤で方角を読む者。


 暗箱写しの紙を必死に押さえる者。


 砂時計で時刻を測る者。


 そのすぐ横の卓で、俺は、米蔵の改築報告書と、灰色本の仮訳表を照らし合わせながら筆を動かしていた。


「……江戸の星見は。誠に、雅ではありませんな」


 土御門系の公家が、墨で手と顔を真っ黒にしながら、ぽつりとこぼした。


「……すみません。泥臭くて」


「ですが。……確実に、役には立つ」


「それなら、良かったです」


「京へ送る控えには。……もう少し、雅な美しい文言を足して、体裁を整えておきましょう」


 広橋系の公家が、苦笑しながら請け負ってくれる。


「助かります。お願いします」


 秋の、澄み切った夜空には、無数の星が輝いている。


 その下にある大地には、豊作に湧く米蔵がある。


 そして俺の机の上には、世界の知識が詰まった灰色本がある。


 夏に京から来た公家たちは、朝廷の神聖な星の権威を江戸が奪うのではないかと、鋭い見張りの目としてやって来た。


 だが、秋になった今。


 その目は、夜空の星と真剣に格闘し。


 その筆は、江戸の泥臭い観測の帳面を、必死になって書き進めている。


 江戸の制度に、彼らを取り込んだのか。


 あるいは、彼らの持つ雅な文と礼の力が、江戸の制度に取り込まれたのか。


 たぶん、そのどちらでもあるのだろう。


 ただ一つ、俺の中で確かなことは。


 空の星も、地の米も、異国の本も。


 ……人間が、その手で必死に帳面に記録し、管理しなければ、すぐに指の隙間からこぼれ落ちて、腐ってしまうということだ。


 俺は、夜露で少しだけ湿った天文観測控の隣に、水害地への救荒米移送帳を置き。


 その上に、灰色本の仮訳表をそっと重ねた。


 空の星も、地の米も、異国の知も。


 江戸の静かな秋の夜には、すべてが同じ俺の机の上で、同じ墨の匂いを放っていた。



最後までお付き合いいただき感謝します。


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― 新着の感想 ―
地下家とかの公家は全て文官にしてもいいだろう、これ。
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